少女は屋台の誘惑に負ける*挿話 巻貝穴騒動前編*
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「さて、疲れも取れて懸念事項も解決。多少のだぼつきは調整するとして……ここまでの流れは悪くないな」
夕風も涼しい、公衆浴場前。
少女改め、そこに佇むのは長い髪を一まとめにして作業帽(我が家にしまい込まれていた古帽子)に隠した小柄な少年だ。一見しただけなら、新米冒険者風の装い。湯上りということもあり、まだ外套は羽織っていない。ざっと見分し、まあ一先ずこれなら及第点だろうと頷いた。
幸いにも人気のない公衆浴場の着替え場で、さくさく着替えを進めた少女。周囲を見渡した後、まだ余裕があると判断して革袋内の整理まで終えていた。元々着ていた服は、一応手元に置いておくことにする。下手に処分しようとして足取りを追われては堪らない。過剰な心配? いいや。それは誤った認識だ。追跡が始まればきっと嫌でもわかるよ。なるべく先のことであってほしいと、願わずにいられないけどね。そもそも用心しすぎるに越したことは無い。相手が相手なだけに、無駄に用心深くもなる。探索の魔術を使用されないように、事前に幾つか手を打って家を出て来たものの。少しの気の緩みも致命傷(?)になりかねないのだ。全ては、逃げ遂せるために必要な苦悩だ。耐えよう自分。海原を眼前にする前に、あれの顔とご対面とか全くもって笑えない。
纏めた荷物を背負いなおして、少年に変装した少女はタイミングを見計らい、浴場の青布を潜って外へ出た。
この時間帯になると、屋台も明かりを灯し始める。道なりに歩いていくと、食欲をこれでもかとばかりに刺激する香辛料の香りに包まれた。定番の『香草焼き包み』や、『三種のベリーパイ』を始めとして、珍しいものでは『平原鷲のチーズ手羽焼き』まで多種多様な屋台が大通りの端から端まで続いている。なかなか壮観だ。
きゅるるる、と。物悲しい胃の催促を受けてよし、間食がてら一口と目についた店に向かった少女。しかしこの判断は甘かったと言わざるを得ない。それはさながら、お腹を空かせた子兎を誘い出すための罠。まんまと屋台の思惑通りにあれもこれもと両手一杯に買い漁ることとなった。ふと我に返ったときには、全てが遅すぎる。
「あちゃー……これは店に入るどころじゃないな。まんまと食わされたね。仕方ない」
両手に大量の包みを抱え、器用に背中の荷物でバランスを取りつつ。もぐもぐと咀嚼しながら移動を開始した少女に、昼間とは違った意味での視線が集まる。やれやれ、本当に急いで移動したほうがよさそうだ。内心だけでそう呟きながら足を速めた結果、余計に視線を集めることとなる悪循環。なるべく人通りの少ない路地を経由して、巻貝行路――トンネルの入り口を探した。
岩穴に面するようにして、発展した巻貝穴。幾つかの細道を辿れば、その殆どがトンネルへ続いているらしい。曰く、屋台のおじさんから仕入れた情報だ。地元民(巻貝穴在住)は巻貝行路というよりも、トンネルと略式的に呼ぶことが多いそうだ。単純に長いからだろう。気持ちは分からなくもないと伝えれば、手羽を一本足してくれた。良い店主である。
「そろそろ見えるかな。……ん。多分、あれだね」
三本目の手羽を口に咥えつつ、迷路のような路地の階段を上った先に入口らしいアーチを見つけた。高さといい、幅といい堂々たる佇まい。まず間違いないだろう、と歩みを進め掛けて立ち止まった。喧騒が、耳朶を打つ。寄りにもよって、と頭を抱えたくなったが咥えている手羽が美味しいので辛うじて回避。とりあえず状況を探ろうと、人混みの端へ移動した。何やら、想定外の事態がアーチの真下で繰り広げられているようだ。
すぐ近くにいた冒険者風のおじさんに、さりげなく事情を尋ねてみた。
「あの集団乱闘は、いったいどういう経緯で?」
「おお、坊主。危ないから離れてろ。寄りにもよって『白豹』と『黒燕』に所属している若頭同士が顔を合わせての乱闘だ。多少腕に覚えがある程度なら、巻き沿いを食いかねない。先週の縄張り争いが尾を引いてるんだろうな……。警吏が来るまで、もう暫くの辛抱だ」
「なるほどねぇ……。でも、警吏数人がかりで抑えられるものかな?」
「多少のケガは承知の上さ。警吏なんて命が大事で務められる仕事じゃないからな。だが、応援まで出張るとなったら今日中にアーチを潜って先へ行くのは無理な話だ。坊主は急ぎかい?」
急ぎかと聞かれれば、物凄く急いでいる。恐らく自分以上に切迫した背景を背負ってこの場にいるものはいないだろうね、と。笑顔でそう言えるくらいには。勿論これは内心に留めた。目の前のおじさんに責任は無いからだ。
「うん、一応ね。おじさん、序に聞きたいんだけれど。他に入口は無いよね?」
「残念ながら、無いな。十年位前まではもう一つトンネルがあったんだが、ある事件で崩落して今は使えなくなってる。役人も数年は再興に費やしてたみたいだが、近年の魔境の活発化でそれどころじゃなくなったんだろうさ。願わくば勇者のパーティが魔王討伐に成功してくれれば状況も良くなるんだろうが……はは。一介の冒険者にすぎん俺には遠い世界の話だな」
「………そう、ですね」
笑えないよ、おじさん。辛うじて貼り付けた笑顔で、素知らぬ顔を保つのでやっとこです。状況は決して良い方向へ進んでいるとは思えない。実際のところ、既に魔王討伐は成功した後なんだけどね。おそらくパーティが魔境を越えれば、大陸中へ号外が飛び交うこととなるだろう。とはいえ、その結果として逃げ回っている自分からすれば、この数日中が鍵となる。号外が飛び交う頃までに、最低でも海都に辿り着けなければ待つのは絶望のみ。
――――残された自由を、その手に掴むために。自分の戦いはこれからが本番。それを考えたら、こんなところで足踏みをしている暇はないんだよなぁ、うん。
さて、どうしますか。
「あ、おい。坊主、どこ行く気だ?」
「……うん、ちょっと警吏の人たちが気になるからね。様子を見てくるよ」
「そうか、気を付けろよ。とにかく、あの囲いに近づかないようにな」
「うん、ありがとうね。おじさん」
ひらひらと手を振り、ひとまず人混みから離れる。そうこうしている内に手羽を食べ終わってしまった。うーむ。どうせなら、もう2ピースくらい買っておけばよかったと後悔。渋々口に咥えるのは『雲綿』だ。甘い。周囲にいる人たちの位置を確認しながら、状況把握に努める。
「……『豹』が十五、『燕』が十七……かな。でもアーチの奥からも微かに血の臭いがするし、全体は合わせて四十人前後か。巻貝穴の警吏で巡回中全員を集合させてもギリギリ釣り合うかどうかの人数だなぁ。うーん。先はまだ二つ町を挟むから、やはり騒ぎは最少に留めたいところ……」
――――まだ使えない。少なくともあの二本は、まだ。
脳裏に過った、青と緋の刀身に蓋をする。最終的には抜く他ない状況に追い込まれるかもしれないが、それは少なくとも今では無かった。それだけは分かる。ガタガタと、微かに背中から伝わる振動も全部を素知らぬふりでやり過ごす。それにしても口が甘い。ごそごそと包みを探って、香辛料のたっぷり掛かった揚げ芋を試してみる。うん、少しは中和された気がする。
「相討ちが最善……まぁ、そう上手くいく筈もないか。警吏の実力を見てから判断するのが次善。でも、少しだけ手を加えておこうかな」
他力本願も程々にしないと、癖になる。一旦荷物を階段の脇に下ろし、確かこの辺りに……と探り始める少女。周囲から見ればそれなりに目を引く。そもそも袋は小柄な背に収まり切らぬほどの収納力を誇る魔獣の皮。薄汚れてはいるものの、その存在感に思わず二度見をする冒険者が続出した。
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それは少女が階段の脇でごそごそと荷を漁り出すよりも、ほんの少し前。
巻貝穴の大通りから西へ延びる、細い路地を疾走する影が二つあった。いずれも警吏であることを示す紋章付の軽装の鎧を身に着けており、腰には捕縛用の黒縄が揺れている。彼らの後方からも同様の装備を纏う四、五人が続いていたが、彼らと前方の二人では明らかに異なる部分があった。一方は背中に禍々しい存在感を放つ、刀身が異様に長い銃剣を。もう一方は重厚感を否応なく感じさせる鎚矛を肩に乗せ、異様なほどの身軽さで路地裏を駆けていく。
――――そんな二人の青年。実を言うと、彼らは『警吏』ではない。身に着けている装備こそ、屯所を出る直前に「必要以上に目立つのは面倒だ」という理由で着替えているが元々の階級は、警吏よりも遥かに上。王国の近衛団が直轄部隊 白鯨に所属している。
つまり、後方を行く警吏たちからすれば雲の上の存在といって過言ではない。また、そんな二人よりもかなり軽装備といって差し支えない彼らが、全力で駆けても追いつく兆しが無い。それほどの膂力の違いがあるということだ。いつしかそれぞれの双眸に遠くを眺めるような色が混じる。日々の鍛練をどれ程に重ねようと、辿り着ける先には限界がある。それを無意識の内に思い知らされたのかもしれない。
巻貝行路のアーチ下で、『豹』と『燕』の抗争が勃発しているという連絡を受け、急いで現場へ向かおうとした彼らの様子を横目で見ていた二人。「丁度暇だから」という理由で同行を決めてしまった。戦力としては有難いことこの上無いものの、結果的にはこうして実力差を目の当たりにさせられることとなった。その複雑な心境は察するに余りある。
しかし、先を往く青年たちはそんな彼らの心境など知る由もないのだろう。実際、この状況にあって、どこか気の抜けそうなやり取りを交わしていた。
「ねえ、確かに暇潰しくらいにはなるだろうと思ったよ。賛成もしたさ。けどね……改めて考えると、先に腹ごなししておくべきだったと気付いたんだけど。走ってたら、お腹空いてきた」
「……おい、少しは空気を読んだ発言をしろ。誰がフォローに回ると思ってる?」
メイスを肩に乗せ、白藍の髪を一括りにした青年。彼が空腹を嘆くのに対し、その横を往く葡萄色の髪をした青年が琥珀色の目を細め、走りながら釘を刺した。しかし肝心の相手がまるで聞いていないのだから、無駄な徒労である。今更ながら、気まぐれに助力を申し出たことを後悔し始めていた。せめても相方の口に何かしら詰め込んだ後に合流する形を申し出ればよかったのだ。それに思い至らなかった自分の浅慮が憎い。経験則に照らし合わせればどちらに転んでも、しわ寄せは自分に来ることは予測できた筈だ。それに思い至らなかった結果の自業自得。屋台の匂いに釣られて足を止めそうになる度、後方に続く警吏たちに見えない角度で鞘を繰り出し、牽制を続ける労力は涙ぐましいものがあった。
「とにかく、今優先されるべきは『豹』と『燕』の捕縛だ。もし全体の半数以上をお前一人で片せたら、今晩の夕飯代は俺が出す」
「……わお。いいの? ユギは知ってるよね。僕の夕飯代はそれなりに高くつくよ?」
「それなり、ね。……よく言ったもんだ。お前の夕飯代は『かなり』の範疇だろう」
「ふふ。分かってて言ってるならいいんだ。では、遠慮なくご馳走になることにする」
「そう言うことは、全てが終わってから言え」
ユギと呼ばれた青年は、琥珀色の目を呆れたように細める。しかしその視線の先、やはり話を聞いていない相方は打って変わってやる気になったらしい。その俊敏性を最大限に生かし、路地から塀へと一足飛びに駆け上がる。更にそこから屋根を伝い、導き出した最短距離を迷うことなく駆け抜けてゆく。それはさながら、野生のヤマネコの如し。
「……やれやれ。少し早めにチラつかせ過ぎたか」
気付けば視界から消えた背を、呆れ半分。溜息混じりに思い返す。残りの半分は何かって? ――――餌付けの代償は決して安くない。今夜中には寂しくなるであろう懐具合を思って感傷を覚えたと。要するに、ただそれだけのことだ。
後方からひしひしと感じる、唖然とした空気。それも今は敢えて読むまい。
疲れ切った横顔に夕日が当たる。見上げた先には、アーチへ続く最後の階段。ここからでも分かる喧騒に彼は一度足を止め、後方を一度だけ振り返った。
「ここから先は、各自の判断に任せる。規律も何もない。ただし、一つだけ迷惑料がてら伝えておく。先に行ったあいつの傍には、なるべく近付かないことだ。あれは取り分け集中型でな。時折、敵と味方の判別も付かなくなる」
見渡せば、意味を悟った警吏たちの青ざめた顔が並ぶ。地方へ行く度に、必ずといっていいほど見ることになる光景だ。いい加減に見飽きもする。今にも死にそうな顔で「承知しました」と告げられることも、もはや日常茶飯事。やれやれだ。
こうしてアーチへと到着した彼らであったが、階段を上った先に広がった光景を前に、その足を止めて絶句することとなる。それはさながら、白昼夢の如き異様。その場にいて、立つものは到着した彼ら以外に誰もいなかった。
アーチの周辺には、一見しただけでも相当数の人間が一様に倒れ伏している。警吏の数人が近くに倒れていた数名の呼吸や脈を確かめている。
「呼吸も脈も、特に異常は無いようです。――どうやら、ただ眠っているだけのようです」
戻ってきた警吏全員が、言葉を揃えてそう言った。終いには途中から頷くだけになる。何しろ同じ文言ばかりだ。変わり映えのしない報告を受け、全く訳が分からないと言わんばかりの警吏たちの顔を眺め、内心はただ一言に集約される。
「一体全体何事だ……」
折り重なる大勢の体。しかし、体に目立った外傷もなく、ただ眠りにつく彼ら。原因となったものすら定かでは無く、証言を取ろうにも、起きている者は誰一人いない。そしてこの中に、先に向かったはずの相方の姿は無い。
先ほどまでは確かに喧騒に包まれていた筈の場所に、残るのは静寂ばかり。
腰に結び付けられた捕縛用の黒縄が、夕風と夜風の合間にゆらゆらと揺れていた。