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勇者の最愛はこの大陸に見切りを付けました  作者: 因果論
過去譚*零章*
29/51

*独章 白い少年の宵闇が薄闇に変わるまで*

 

 *


「――――っ、」


 見仰ぐ宵闇に、夕星一つ。

 薄ぼんやりと霞んだ視界と、ひたひたと押し寄せる痛みは『まだ死ねない』ことを己が身に知らせるばかりで。

 伸ばした掌に、滴る赤だけが温度を感じさせた。


 そこに、何一つ、救いなどはなく。

 遠方に響く複数の足音も、擦れ合う金属の音も、すべてが厭わしく感じられた。

 凍えていくばかりのその心は、ただその内を吐き出して闇へと溶けていく。


「あぁ、すべて滅びてしまえばいい……消えて、なくなってしまえば」


 掠れてはいても、その美声に多くが心奪われることだろう。

 今は血に塗れた顔も、拭い清めれば直視すら躊躇われるほどの端麗さを認めざるを得ない。

 そのすべてが、追い詰めていく。

 留まれば、全てを狂わせる。まるで呪いのようなその有様をして、少年は自身に向けて低く嗤った。その顔を掠める夜風と、水音と、葦の葉。

 次第に近づいてくる複数の気配と、獣の臭い。


「……無能共め」


 小さく舌打ちをして、横たわったままの肢体に力を入れた。思ったよりか血を失っていたらしい。ふらつく視界を、辛うじて両腕で支えた。

 風に揺れる、淡いブロンド。その隙間から、葵色の双眸が獣のような鋭さで闇に光る。

 ざあざあと擦れ合う葦の葉の間から、突然現れた漆黒の獣――それが、飛び掛かる刹那。


「――グゥォオオン!!」


 飛び散る鮮血と、ナイフで目を貫かれた獣のおぞましい声が夜の闇に響き渡る。

 それに呼び寄せられるように、駆け寄る幾つもの足音。しかし間に合うことはない。

 絶命する寸前、最後の足掻きとばかりに暴れた獣。その巻き沿いになる様な形で――少年の視界は反転していた。

 咄嗟に葦の葉に手を伸ばしたが、それがすり抜けた感覚と同時。全身を襲う浮遊感と、耳元で反響した水音――――意識はそのまま失われる。


 夜の川に、飲み込まれた一人の少年と瀕死の獣。

 その行方を追うまでもなく、流れ着く頃にはいずれも骸となっている筈だと。追手の誰もがそう信じて疑いもしない。

 彼らは己が追っていたものが『何』であったかすら、知らされていなかったのだろう。


 運命は、斯くして巡る。

 その川の流れは、東の辺境へと繋がっていた。



 *



 首筋をくすぐるような感覚を覚え、瞬きをしたその視界に映り込んだもの。

 それは、真白の獣のヒゲだった。

 ひたひたと打ち寄せる水際に打ち上げられた少年の身体に、フンフンと鼻を近づけて頻りと匂いを嗅いでいるらしい。


「……腹が、減っているのか」

「ウニャ」


 思わずついて出た言葉に、不快げに顔を歪めた巨大な猫らしきそれは――不意に顔を背けて駆け去っていく。

 どうやらあれに喰われることは免れたらしいと、ぼんやり思考を巡らせていた少年はその半身を起こそうとしたところで、ふと動きを止める。

 その耳に、聞きなれた人の足音が聞こえたからだ。感覚からして、それは二人分。眇めた目の先に、やがて現れたのは――いずれも年若い少年と少女。そして去った筈の白猫。

 彼らは、水際にいる少年を見つけるなり慌てて駆け寄る――わけでもなく、その場で顔を見合わせて何やら言い合い始めた。


「うわ、なんか面倒そうなものを見つけたねぇ……クルル、どうして放っておかないんだい?」

「……ウニャ」

「いや、これは普通にクルルが正しい。師匠……人としてどうなのさ、その言い草。まぁ、確かにいかにも面倒事らしい雰囲気はあるけど」

「ぷんぷん香るでしょ? 海辺に流れ着いた君といい勝負だよね」

「んー、そこを突かれると何とも言い返しようがない」


 飴色の髪をした少年に対し、『師匠』と呼びかけた少女は呆れ顔を隠す気もないらしい。

 そんな彼らの間に挟まれるようにして、困惑した様子で尻尾を左右に揺らしている白猫。それが一番真っ当に見えてくる不思議な光景が繰り広げられていた。

 水に浸かったままの少年は、じっと沈黙を保ったまま彼らの様子を窺っている。

 その内心に言い知れぬ違和感を覚えながらも、その表情は僅かも変わることがない。


「とりあえず、傷の手当てくらいは見つけたものの責任だろう?」

「うーん、それくらいはやむを得ないか。仕方がない。クルル、背に乗せてそれを家まで運んでおいで」

「ウニャ」


 何やら軍配は少女の方に上がったらしく、とてとてと歩み寄ってきた白猫に襟を咥えられつつ岸辺に上がる。

 手足は流されてくる間に岩にぶつけたらしく、左足と右腕に深い裂傷が出来ていた。感覚もあり、折れ曲がっていない時点で骨が折れていることはないと当たりを付けた少年。

 その場で膝を付き、ふさふさとした白猫の背に片腕でしがみ付く。兎にも角にも、受けられる治療は出来るだけ受けた上で、タイミングを見計らって身を隠すつもりでいた。


「……うーん。その体勢だと途中で落ちそうだなぁ」


 不意に耳元で呟く声がして、ふわりと頬を掠めた瑪瑙色。それが二人の内の一人、少女のそれだと気付く前に、既にその腕に支えられている。

 濡れた衣越しに伝わる、人の体温。

 反射的に突き飛ばそうとした腕を、少女らしからぬ反応速度でやんわりと留められ、呆気にとられたまま見上げることになった。


「怪我人が無茶をしても良いことはないよ? ここから家まではそんなに遠くない。信用しろとまでは言わないが、暴れるようなら先に気絶させるのも一つの選択だからね」

「……あんたに、人一人気絶させるだけの膂力があるのか?」

「んー、あるだろうなぁ。ただ、力加減を間違えたら怖いからね。正直試したいとは思わないけど」

「……つくにしても、下手な嘘だ……」

「はは、あながち嘘でもないんだけどな。……まぁ、信じるも信じないもそこは君の自由」


 よっこらせ、と荷物を支えるような調子で白猫に沿うようにして歩き出した少女に対して。

 まるで、奇異なものを見るような葵色の双眸は幾度も瞬きを繰り返していた。


 そうして白猫の背に揺られつつ、辿り着いたのは『質素』の二文字が似合う丘の上の小さな屋だった。

 もっさりと茂る野菜畑を抜けた先には、同じように小さな納屋もある。その傍にはハーブの苗が揺れていた。

 ゆったりと歩く白猫の背中からそれらを眺めつつ、木の扉を潜った。

 扉のすぐ傍に寝台があり、その横に猫が沿うようにして姿勢を丸めたところで少女に支えられつつ、その背を降りた。ふかふかとは言えないものの、日向の匂いのするシーツの上に転がされる。

 その一連の動作は、どことなく大雑把だと言わざるを得ない。


「あ、先に服を脱いでもらうべきだったか……湿っている程度とはいえ、気持ち悪いだろうしなぁ」


 加えて、少し抜けているようだ。

 ほんの少し、呆れ混じりに吐息を零した口許を少女が覗き込むようにしてまじまじと見る。


「一応、表情が変わるんだな。あんまり表情がないものだから、そこも心配していたんだ」

「……僕に、笑ってほしいの?」


 ああ、やはりこれも早々に魅入られたのかと。

 どこかで冷え切った内心と共に、作り慣れた『微笑み』を浮かべてみせる。どうせ遅かれ早かれ、狂わせるならば別にこのタイミングであっても構わないと。

 そう、思っていた。


「いや、別に無理して笑うことはないよ。痛いんだろう? 怪我人に笑って治療を受けろとは言わないさ」


 だからそんな言葉が自然な調子で返って来た時、何も言葉が継げなかった。それに対して何を思ったか、不意に伸ばされた手でよしよしと頭を撫でられる。

「え……何これ」と。そう呆然とする以外に何が出来ただろうか。否、出来ない。

 それから暫く経って、両腕一杯に薬草らしい束を抱えてもう一人が戻ってきた。飴色の髪をした方だ。


「ルーア、とりあえず着替えさせるから一旦庭へ出ておいで」

「うん、任せた。ところで師匠、今日の夕ご飯の献立はどうする?」

「んー、そうだねぇ。朝釣った魚をソテーにして、スープはそろそろ(ラパ)が収穫時期だったと思ったけど?」

「じゃあ、庭に出る序に収穫しておくよ」

「うん、お願い」


 年頃の少女らしからぬ口調と、妙な落ち着き。その手を小さくひらひらさせて扉をあけて出ていった背を、意図せぬうちに視線で追っていた。

 その視界に、唐突に広げられたのは何枚かの衣服だ。広げた端から寝台の脇にぽんぽんと置いていく。


「さてと、着替えといっても古着のシャツやらズボンくらいしかないけど、とりあえず我慢してくれるね?」

「……別に構わない」

「一見したところ、手足は折れていないみたいだね? 脱いだ序に傷の洗浄と塗布を済ませてしまうから、ちゃっちゃと服を脱いで。まだ使えるようなら、洗って干しておくよ」


 小さな屋、奇妙な面々に囲まれた養生生活はそんな風にして幕を開けた。



 *



「名乗り遅れたけれど、俺はカルーア。白猫のクルルと、君の向かいに座っているのが師匠のハイナス。ところで君の名をまだ聞いていなかったと思うけど、不都合がなければ聞かせてもらえないか?」

「……クロウ」

「クロウ、ね。今後はそのまま呼んでも構わない?」

「好きにすればいい」

「分かった、じゃあ今後はクロウで統一させてもらう。食べ辛い料理があれば、遠慮なく言ってくれ」

「……元々左利き」


 淡々とした返答に留めるも、気にした素振りもない。「それは幸運だったな」と笑顔を向けられれば、もはや表情を取り繕うことすら面倒臭くなり、素のままで頷いた。

 二人の会話が途切れるのを見計らっていたのだろうか、続いて飴色の方が問い掛けてくる。


「ところで君、何に追われて川へ落ちたんだい?」

「……獣。巻き沿いになって落ちた」

「獣、ね。……ふぅ、まあいいか。一応ここの家主として先に伝えておくよ。詳しい事情は聞かない。だから必要な分だけ養生して、傷が癒えたら出て行ってね。面倒事は御免なんだ」

「言われるまでもない」

「それならもう僕から伝えることはない。ルーア、あとは任せるよ」

「おやすみ、師匠。明日は依頼の日だった?」

「そう。昼前に向こうへ着いていないといけないらしくてね、先に休ませてもらうよ」

「……師匠が俺より後に寝たことはないと思うけどね」


 ひらひらと手を振って、扉の向こうに消えた飴色の髪。

 殆ど間を置かずに、規則的な寝息が聞こえ始めた。よほどに眠かったとみえる。


「師匠は極度の睡眠体質でね、一日の大半を眠りに充てて生活をしている」

「……睡眠、体質?」

「眠りを邪魔されると、まぁ要するにキレる。だから、不用意に起こさないことが大切だな」

「……寝汚いだけじゃないの?」

「うーん、否定はできない。ただ、必要なものは人それぞれ違うだろう? 師匠のそれは睡眠というだけの話だよ」


 食器を片付けつつ、ことりとテーブルに置いたコップが一つ。

 中を覗き込めば、なにやら毒々しい色の液体――要するに、薬湯である。


「……苦いのは、無理」

「甘党か? んー、なら蜂蜜を入れて味を誤魔化せばいいよ。飲んでおいた方が、痛みが大分和らぐはずだ」


 暫く躊躇った後、溜息混じりに用意された蜂蜜に手を伸ばす。

 横目でそれを見守っていた少女は、密かに口許を緩めた。



 ――――蒼い月が、揺れる夜半。

 ひたひたと、漣が打ち寄せるように意識は『あの場所』へと沈んでいく。


 陽の光を浴びず、一面に生い茂った白銀の波。ざあざあと、花びら同士が擦れ合う音が耳元を過ぎる。

 駆け合う音。囁き合う声。繋いでいた、手のひら。

『兄さまの髪は、太陽の色みたいですね』

『実際に仰いだこともないのに、分かるものか』

『反抗期ですか、兄さま?』

 母譲りの穏やかな声で、そう言って笑った弟。いつも、当然のように傍らに在った温もり。


 今はもう、その微笑みも憎しみに塗りつぶされていることだろう。


『みんな、死んでしまえばいい』


 手を下した王家を、『何』も知らずに笑い合う地上の全ての民たちを、大切だったものすべてをむざむざと奪われた自らを――――それら全てに向けられた、怨嗟の声。

 血に染まった花びらを、摘み取ったその手もまた、紅に汚れて――――



 肌に触れる、体温。

 水底から、浮かび上がるようにして覚めた瞬間、意識するよりも早く『それ』を組み敷く。

 月明かりに照らされたのは――散らばる瑪瑙色と真ん丸に見開かれた翡翠色。


「……とりあえず、離してもらえるか?」

「何を、するつもりだった?」


 脳裏を過った過去の情景に、無意識に強まっていく力。ぎりぎりと音が出そうなほど、締め付けた腕はほっそりとして尚も――微塵も、その表情に痛みは感じ取れない。


「何も。……もしかして、自覚していないのか?」

「何が言いたい」

「クロウ、君は魘されていた」


 じっとしたまま、見上げる翡翠色には微塵の偽りも見出せない。まして、頬や首筋をじっとりと汗が伝い落ちる感覚を認識した時点で、それが事実だということは十分すぎるほどに分かっていた。

 分かっていてそれでも、腕を離さずにいるのは――指先のその震えが、求めるものに触れているからだ。

 憎悪に近い感情を抱きながらも、無意識がそれを求めて止まない。


 虚の心が、狂おしいまでに目の前の温もりに縋ろうとする。

 それを憎悪する内心との、無言の葛藤の最中。


 ふいに、伸ばされた掌。

 わしゃわしゃと髪をかき混ぜる指の暖かさが、彼の思考を停止させた。

 呆然としたまま、組み敷いた少女に問い掛けるように視線を落とせば。


「悪夢でも見たんだろう? ひとまず落ち着くまでは、傍にいよう」

「……いいの?」

「怯える人間を放っておくほど、薄情ではないつもりだよ」


 だからまずは、体勢を変えよう。そう言って、ポンポンと傍らを叩く仕草には色気も何もない。

 つられるように込めていた力が、徐々に抜けていった。

 のそりのそりと薄手の毛布に潜り込むと、髪に触れていた指が撫でるような動きに変わる。まるで、獣を落ち着かせようとする仕草そのもの。内心で苦笑しながらも、それが心地よくて瞼を閉じる。


「おやすみ、クロウ」


 ――静かなその声に導かれるように、すとんと意識を手放していた。



 そして迎えた翌朝。

 煙るような長い睫を、幾度か瞬きさせたあとに意識を戻してきた彼。差し込む朝日にぼやけていた視界が、徐々に確かな形を結ぶ。

 鼻先で揺れる瑪瑙色に『昨晩』の醜態を思い起こすや、深い溜息を零した。

 そのまま片腕を付き、身を起こしたところで――ぞっとするほど低い声が背後から聞こえてくる。


「ねぇ、まさかだけど傷物にしてくれたわけじゃないだろうね……?」


 振り返った先には、逆光を背負って立つ影一つ。

 飴色の芸術的な寝癖を付けたまま、冴え冴えとした双眸を向ける男が仁王立ちしていた。


「……してない」

「確認はルーアにする。処分するかしないかはその後に決めるよ。とりあえず、そこから降りて?」


 答え次第では、交渉の余地は残さない。その意図を隠すつもりもない声色の低さに、やれやれ面倒なことになったと思いながらも寝台を降りた。

 体重を掛けた途端、左足がずきりと痛む。が、この場では沈黙を選ぶほかない。


「ルーア、起きて」


 男がゆさゆさと、寝台の上に丸まったままの肩を揺さぶる。するとそれほど時間を空けずに、瑪瑙色の髪の間から翡翠色の双眸がパチリと目を開けた。


「……師匠?……ああ、そうか。あのまま眠ってしまったのか。んー、よく寝た」


 幾度か瞬きをした後に、のっそりと半身を起こした少女――カルーアはうーんと猫のように伸びをした。

 その両腕に、朝になってもくっきりと照らし出されるもの。それを、目の前に立つ男が見過ごす筈もない。


「ルーア、その両腕の紅い痕はなに?」

「ん、ああ。これは昨晩クロウに掴まれてね……」

「――はい、アウト。ルーア、とりあえず外へ出てなさい。僕はこの強姦魔を可及的速やかに処分するから」


 束の間、窓の外の小鳥が囀る声だけになる小屋の中。

 だれも言葉を発しない沈黙の中で、翡翠色の双眸はややあってようやく理解の色を灯す。


「…………あぁ、なるほど。理解した。うん、ひとまず師匠が物凄い誤解をしているということと、それを招いた自分自身の認識の甘さを」

「さぁて、どうやって息の根を止めてやろうかなぁ……」

「師匠、重ねて言うが誤解だ。まずは話を……」

「心配しなくていい。後片付けは全部僕がしておくからね」

「――だから、話を、聞け」


 だん、と低い音と共に木製の寝台が軋む。

 完全に据わった目付きで、寝台の上に立ち上がった少女は端的に告げる。


「男女の交情じみたものは、一切ない。ここまで断言しても疑うなら――(じか)に確認してみる?」

「…………いや、うん、ごめん。そこまで言わせた僕が悪い。分かったよ、全面的にごめん。非を詫びるから許してください」

「分かってくれたなら、いいよ。そもそも誤解を招く様なヘマをした俺が悪いんだからね」


 苦笑しながら、和解の為に手を差し出した少女。差し出された手を取り、床に伏していた状態から身を起こしたその師。

 そして彼らの遣り取りを、寝台の端に寄り掛かるようにして見ていた彼。

 その内心は、非常に複雑な色に染まっていた。



「昨夜の夕食でも分かる通り、我が家は基本的に粗食だ。悪いがその辺りは我慢して目を瞑ってもらいたい」


 そんな言葉と共に、並べられた皿の上。朝摘み野菜と茹で上がった卵が二つに、ホカホカの麦パンが乗っていた。「野菜とパンはお代わりも可」だと付け加えて、炊事場へ戻る背中に揺れる一括りにした瑪瑙色。

 その傍らでは、コトコトと鍋が揺れている。


「……さっきは誤解してすまなかったね。良かったら、僕のパンをあげる」

「師匠、さては聞いてなかったね? パンはお代わり出来るよ」

「じゃあ……卵、を」

「涙目で譲るくらいなら、言わないほうがマシだと思うけどね」


 余程に、卵が好きとみえる。少女の指摘通り、その両目には隠し切れない水気が溜まっていた。辛うじて表面張力を保っていたが、流石にこれには引く気持ちの方が大きい。


「……別に、いらないから」


 そもそも卵が好きなわけでもない。悩むまでもなく返答すれば、何故か感謝の眼差しを向けられた。

「そもそも言い出したのはお前だろ……」と奇異の眼差しを向けるも、最早その関心は頬張った卵の方に向けられている。

 ここは変人の巣窟か。そんな内心と零れ落ちる溜息。

 皿の上へ視線を戻し、苦みのある野菜をフォークで綺麗に避ける。「……子供みたいだねぇ」というささやかな呟きは無視して、淡々と食べ終えた。


 飴色の髪が『採集』を理由に出かけている間、カルーアは全ての家事をこなしているらしい。

 寝台の上で何をするでもなくぼんやりとその背中を眺めていると、昼を過ぎた頃に庭先へ若い男が訪ねてきた。栗毛の何処にでもいそうな顔をした、恐らく同世代と思われる男だ。

 野菜畑で収穫の最中だったカルーアを呼び止めて、何やら笑顔で言葉を交わしている。

 内容こそ、微かにしか聞こえないものの――どうやら出掛けに飴色の髪が『自分』のことを言付けていったらしい。

「傷の深さは……」「獣? 襲われたの?」といった途切れ途切れの言葉が聞こえてきた。

 彼らはひとしきり話し終えたかして、カルーアが先に扉を開けて声を掛けてくる。男はまだ庭先に立ったままだ。

 窓辺に向けられた視線に、視線を返せば――――なぜか、慌てた様子で目を背けられる。


「クロウ、起きてる? 実は、隣の家に住んでいる魔術師見習いがいてね。彼の作る軟膏は効能が高いんだ。良ければ、傷を直接診てもらおうかと思うんだが……ん。どうした、不機嫌そうだな?」

「別に。……好きにしろ」

「そう? じゃあ、とりあえず診てもらおう。――おーい、カル。入って」

「…………えぇー。でもめっちゃ睨まれてるんですけど…………はぁ、仕方ない。先生の依頼でもあるし……失礼します」


 あからさまに顔を歪めつつ、本音只漏れのまま扉を開けて入って来た栗毛の少年――カルディアはそのままの姿勢で硬直する。

 硬直に至った理由を突き詰めていけば――まぁ、要するに向けられる視線に、その足が竦んで動かないだけなのだが――残念ながらその状況を察せる人物は小屋の中にいなかった。

 視線を向ける当人ですら、今はまだ自覚していない。その凍えるような視線に含まれる意図は、まさに自然界における捕食者と被食者の関係に近しく。同時に、他の様々な色をも孕んでいた。

 これは後々、嫌が応にも明らかになっていくものでもある。


「カル? 入らないのか?」

「……ルーア、この空気を敢えて読んでいないの? それとも読めないだけなの?」

「お前が何を言いたいのか、今一よく分からないんだが……」

「逃げちゃだめだ……逃げちゃだめだ……逃げちゃだめだ。ここは戦場。鈍感こそ最善。俺は何も見なかった……よし、気合を入れ直したから大丈夫」

「呪文か?」

「まぁ、そんなところ」


 そう呟くなり、蒼褪めた顔色のまま、寝台の横に歩み寄ってきた。目線を向ける度に大きく肩を揺らしている。その反応に面倒臭いものを感じながらも、傷の深い右腕と左足を黙ったまま触診させた。

 徐々に震えは収まっていき、傷を検分するように細められた目は静けさを纏ったものへと変化していく。

 集中しているのだ。他の雑多な念など、そこに入る余地はないことは傍目から見ていても明らかだった。


 ややあって、傷の見立てを話し出した声。そこに先ほどまでの躊躇いは一切混じっていない。


「おそらく、にはなるけれど深さの割に完治まではそれほどの日数を必要とはしないと思うな。触れてみての簡易的な考察には過ぎないけれど、貴方は一般的なそれよりも遥かに多くの魔力を保有しているよね? その影響……まぁ、要するに自然治癒力と言い換えればいいのか、そういう部分もあって本来は二月以上掛かるだろう傷でも数倍……いや、環境によっては数十倍の速度で完治まで行ける気がする」


 とりあえずは補助的に軟膏と薬湯の調合からスタートしてみるのが無難かな。

 そんな補足を加えつつ、手元の紙に必要な薬草の種類とそれぞれの分量をさらさらと書き出していく。扉を開けて入って来た直後と比べると、まるで別人のようだ。

 合間合間で「薬湯はなるべく苦くないものにしたいんだが」「はは、苦いと飲めないなんてまるで子供みたい……いや、うん。個性ってあるよね。甘さの分かる大人っていいと思うな」云々といった遣り取りを挟みつつ、

 最終的には震える字で書きこまれた薬草の分量に、首を捻る少女と涙目で書き直す栗毛の男の背中があった。


「……ふむ、カルの見立てだとそうなるのか。まぁ、大凡は師匠の考え方と変わらないみたいだな」

「ちなみに、俺の直感から言わせてもらえば長く見積もっても……十日ってところかなぁ」

「師匠の意見では、確か七日だったな。その辺の差は、まぁ個々の考え方次第にはなるか……」

「いや、先生の見立ては個人的願望も含んで……いや、何でもない独り言だから気にしないで……」

「今日はやけに独り言が多いな、カル」

「……そんな日もあるんですよ」


 ぼそり、と零した返答にすら辛うじてといった風情が付く。

 早いところ出て行ってほしいんだろうなぁ、という内心の声を口にし掛け、無理やりに誤魔化してはみたものの。

 刹那、氷雪の如き双眸を真正面から受けることになった精神的負担。それは相応のものだった。「え、何これ。普通に会話すら駄目なの?」と余程に言いたいが言えない。

 いつの間にやら厄介なモノを抱え込んだらしいお隣さんに対して、暫くは必要最低限の関わりに抑えようと無言の内に決意を固めたカルディア・ムート。

 が、しかし彼のそんな決意もやがては絶望の只中へと呑み込まれていくことをその時の彼は知る由もない。


「じゃあ、とりあえず俺はこれで。お大事にね」

「ありがとう、カル。近々漆黒(カウ・)(ブラッド)を報酬で貰う予定があるから、その時にはお裾分けするよ」

「……漆黒牛?! あの幻の? どんな経緯で手元にくることになったの?」

「ん、師匠に聞かなかったのか? 今回の依頼の報酬だよ」

「……なるほどね。何かとても納得した」


 何かを悟ったような背中。そして静かに閉じられる扉。

 それらを見送った後は、再び元の静けさが戻ってきた。「……夕刻ぐらいには雨が降りそうだなぁ」という呟きと共に干してある洗濯物を取りこみに行ったカルーアの背を見送って、自分の他に誰もいない小屋の中を見渡す。

 あの巨体の白猫も、飴色の髪と一緒に出掛けている。静かだと、改めて思う。



「ただいまー。久しぶりに平野の方まで足を延ばしたら、何か新種の動植物が増えていてねぇ。思ったより手間も時間も掛かったよ。はい、これはルーアにお土産。それと深森茸(モスフォルン・ティータ)が株で生えていたから薬湯にいいと思って採取してきた」

「おかえり、師匠。んー、随分と大きな株を取って来たね? とりあえず食糧庫の棚へ仕舞っておくか……。漆黒牛以外に何かもらえたの?」


 土産と称されたなにやら大きめの包みを、ガサガサと音を立てて開封し――覗き込んだ翡翠色。一見しただけでそれが『何』かを理解したらしい。呆れたような色を滲ませる。

 その隣でニマニマと不可解な笑みを浮かべていた師に向かって、こう問うた。


「随分と渋ったんじゃないのか、これ。それとも何も伝えずに持ち帰った?」

「うん、後者。依頼された区分に抵触していない以上、基本的にこちらの自由が尊重されてしかるべきだと思うんだよね」

「……暗黙の了解、か」

「うん、まぁそんなところかな」


 呟きと共に、包みの中から取り出したモノ。それは――――


朱神鶏(オラルス)の卵……」


 一般的な鶏の卵よりも一回り大きく光沢がある。そして何より特徴と呼べそうなのは、その見事な色彩だろう。

 深紅石(ルビー)よりも濃く、赤の中の赤と称される殻の色。

 そもそも幻の鶏と名高く、その生息域が魔境のすぐ傍である朱神鶏。古より王家の代替わりの際、国に仕える騎士たちの総力を掛けて『採集』を行ってきたその卵だ。栄華の証、神が齎した赤等々、それ一つに大層な呼び名が与えられてきた。

 それが今、何の変哲もない小さな屋の中、少女の手のひらに収まっている。


「まぁ、今回は乱獲していないだけマシかな……」

「前回は取り過ぎて、二割くらい腐らせたからねぇ……。さすがに反省もして、今回は選りすぐってみたんだよ」

「師匠が反省するなんて、余程に堪えたんだな」

「美味しい卵を食べるためならば、僕はその努力を惜しむつもりは更々ないよ」


 この師弟は、どこかおかしい。

 暮らしぶりこそ質素堅実を絵に描いたような平穏を装ってはいるが、見え隠れする『特異』と『非凡』の色を隠しきれていないのだ。

 今更ながらそれを再認識し、寝台に寄り掛かったまま胡乱な眼差しを飴色の髪へと向けた。

 初めて彼らに会った時から、胸の奥底に感じ続けていた違和感。それがここにきて明確な感情へと変化する。

 そして、口を突いて出た言葉。


「……その卵の価値、ちゃんと理解してるの?」

「……へぇ。君がそんな発言をするあたり、これを以前に見たことがあるんだね?」


 眇められた淡色に、その意図を悟った時にはもう遅い。思わず、小さく舌打ちをする。

 土産話にかこつけて、素性を探ろうとしたのだろう。たとえ言葉に出なくとも、反応として現れるものがあればそれだけで判断材料になり得る。

 見事に掬われた形となった対話。それを省みて、葵色の双眸に殺気じみた色が過る。

 ハイナスがそれに気付かない筈もなく。状況が揃えば、この両者の間で刃が閃くこともあったかもしれない。ただ旅の疲れが影響してか、当人はやれやれといった仕草で肩を竦めるだけに留まった。


「それはそうと、お腹が減ったなぁ。今晩の献立は何だい?」

「蕪入りポトフ、蕪の炊き合わせ、蕪の包み揚げと……」

「……蕪、満載だね」

「旬だから。あとは、漆黒牛で何かツマミでも作ろうか?」

「ふふ、さすがは僕の弟子。それは是が非にもワインを樽で開けないとね」

「瓶にしておいて、師匠。樽は却下」

「はいはい」


 いそいそと地下の貯蔵庫へと向かった足取りは、風のように軽かった。少なくとも今日一日で平野まで往復してきた人間の足取りではない。

 先ほどの遣り取りもあってか、もはや隠す気さえ失くしたのだろう。苦々しい内心を抱えたまま、沈黙していた彼の頭上。

 不意に、ふわりと柔らかい手のひらが乗せられた。


「師匠が不用意に威嚇して、すまないな」

「……気付いていたのか」

「あの人は、幼い容貌をしているが意外と容赦のないひとでね。軍人時代もそれなりに多くの敵をつくってきたらしい。……クロウ、君がどんなスタンスを選ぶにしてもそれは自由だ。ただし、君が想像しているよりも師匠の懐は広い。試されたようで不快かもしれないが、そもそもあの人は興味のない人間にその手の行動はとらないからね」


 そこそこの沈黙を挟んで、少年が出した答え。それを受けて、カルーアは微かに笑った。


「……(たち)が悪い」

「んー、まぁ否定はしないでおく」


 そして、その夜のうちに露見した酒豪ぶり。絶句する少年を余所に、飴色の髪を上機嫌に揺らしながら陽気に鼻歌を歌うハイナス。その傍らには数えるのすら馬鹿馬鹿しく思えてくる速度で、酒瓶がうず高く積み上げられることになった。


 宴の後の、夜の静けさ。くぅくぅと響く寝息と、酒瓶の塔。

 ぼんやりとそれらを眺めている彼の横で、うーんと猫のように伸びをするカルーア。その足元には白猫クルルが丸まって寝息を立てていた。夜行性じゃないのか、猫……。


「よし、そろそろ酒瓶を片すかな」

「……これを、毎回一人で片付けるのか?」

「今回は瓶に限定したから、それほどの手間ではないよ」


 少女はそう言って笑うが、どう見ても尋常の量ではない。

 それでも軽々と両腕に抱え、器用にバランスを取りながら炊事場との往復をこなす。この師にしてこの弟子あり、といった光景だ。


「樽の時には?」

「……量にもよるかな。基本的には外へ転がしておいて、後々師匠が薪にして燃やす」

「…………」

「ふふ、変だろう? クロウ、君は意外と表情が顔に出る。気付いているか? 師匠がここまで大っぴらに素を出すのも常に無いことだし、案外相性は悪くないのかもしれないな」

「冗談にしても、笑えない」

「んー、あながち冗談でもないんだけどな。……まぁ、いいか」


 ことり、と最後の瓶を炊事場に並べ終わった少女は振り返って言う。


「クロウ、君が遠くない日にここを出て行くにしても……また、気が向いた時には戻って来ても構わないんだ。色々言いながらも師匠は君の事を気に掛けているし、君の抱える空虚に気付いていない訳じゃない」


 ランプの明りに照らされて、その翠緑の双眸が柔らかく細められる。

 まるで心まで見透かされているような、躊躇いのない眼差しだ。美しく、残酷な、その色を自分は確かに覚えている。

 ――虚ろの心が、刃を突き立てられたように、軋む。もう何も残っていない筈のそれが、まるで再び紅の血を噴き出すように、鈍く、怒りを、孕む。


「この胸に宿る空虚を、お前たちならどうにか出来るとでも言うの?」


 蠱惑。まさにその二文字が相応しい、作り上げられた艶笑。

 それは宵闇を背にしてどこまでも美しいものだっただろう。今までに発した言葉が全て、虚構であったなら。それは、まさに彼の本心からの問い掛けに他ならない。


 これまでも、その笑みを向けられたものの多くが陶然となって木偶人形の如く首を振るばかりであった。自らの意思とは関係なく、ただひたすらに目の前の『彼』へ追従することを選択する。

 その生来の美貌と、身の内に包括された魔力。それらが合わさり、作り上げられた魔性そのもの。それが故に、今までを生き延びた。

 彼にとっての、生きる術。物事に両面が常に存在するように、それには深い闇が伴った。

 彼をどこまでも深い孤独へと誘い、その心はひび割れた。

 人らしい心は流れ落ち、そうして残った殻の内。抱える想いのない、空虚。純粋な、狂気。

 彼はもう、何も信じない。

 彼はもう、何も期待しない。

 救いなど、この世界のどこにも在るわけがないのだと――――


 見仰ぐ夜陰。巡るのはいつも同じだ。

 家族を目の前で喪い、焼かれ、焦土と化した過去の情景。

 再び凍りついていく双眸に流れ落ちるそれを知覚すら、放棄して。


 その指先にふれた熱に、瞬く。


 頬を拭うぬくもりに、まるで彼自身が木偶人形と化したかのように強張っていくのが分かった。

 その胸に過るのは、どこか恐怖にも似た、たった一つの感情。

 ひび割れた様な葵色に、映り込む翡翠の光。


「君は、色々と抱え過ぎだ。辛いなら、どうして笑う? 身体は心よりも遥かに素直だ」


 隠そうとする労力からして、そもそも無駄だろう?

 呆れた様な声色でそう言って、涙を掬い上げる指先が。

 追従する意思など、欠片もないその眼差しが。

 すべてが、彼を、裏切っていた。


 初めに呆然自失となり、驚愕し、恐怖を覚え――そうして残された一択。

 認めることを放棄した彼は、寝台の端に手を掛け、跳ぶ。

 翻った裾が、夜風に舞う。



「……まるで、夜兎だな」


 開け放たれていた窓から、とても怪我人とは思えない跳躍を見せて夜陰へと消え去った走駆。その足音を耳で追いながら、およその方角を絞り込む。

 それにしても、ここまで混乱させてしまうとは想定外。まさに若気の至りである。程々に留めるべきだったかと内心で反省しながらも、少女はその足を止めない。

 放っておく、という選択肢もある事を知っていた。けれども、拾い上げた時点ですべては遅きに失する。

 もう、選択するときは既に終えているのだ。


「『(フェル)』は、あの虚をずっと肯定してきたのだろうな……質が悪い」


 同じ獣性を抱くモノとして、彼の闇をそのまま見過ごすことなど出来ない。

 初めて出会い、目を合わせた時からずっと分かっていた。同じモノであることも、その心に抱える空虚で凄惨な闇の断片も。

 ただ口にしなかっただけだ。言葉にして伝えるかを迷っていた。こうしている今も、同じ。

 伝えることは、大きな懸念を伴う。だから、安易には決められない。


 きっと師匠には、心配を掛けてしまうのだろうな。そう思いながらも、同じ窓枠に足をかけた少女はふわりと夜陰へと溶ける。


 その小柄な体が森や岩間を疾駆する姿は、さながら獲物を狩る獣の如き敏捷さを纏う。

 駆けて、駆けてその合間も思考は一時も停めない。残されている形跡は、本当に微かだ。獣とは異なる気配を夜陰の中から掴み取り、その直感のままに追う。

 不意に、気配が強くなった。

 風向きの影響か、それ以外の要因か。この時点では漫然として定かではなかったが――ただ一つ、過ったのは。


「……まずいな、この先は確か」


 森が明けた先に、深い崖がある。

 それに思い至り、自然と早まった足は一足飛びに森を抜けた。避けきれなかった木の葉が、手足を裂く。

 予期した通り、彼は崖の上にいた。

 翡翠の双眸がそれを捉えた刹那、視界の端に舞う淡い髪と躊躇う様子もなく踏み出した、足。墜ちる、影。


 考えるよりも先に、手を、伸ばしていた。



 *



 ――――蒼い月が、揺れる。

 ひたひたと、漣が打ち寄せるように意識は『あの場所』を巡る。


 視界一面に生い茂る白銀の波。懐かしい面影。ざあざあと、花びら同士が擦れ合う音が耳朶を打つ。

 弟の声。母の声。繋いでいた、手のひらのぬくもり。

『兄さま、ずっと一緒にいようね』

『ふふ、――はお兄ちゃんがとても好きなのね』

『ええ、母さま。兄さまは僕の憧れです』

 母と言い交わし、笑う弟。物心がついた頃には、その光景がいつも傍にあった。


 今はもう、塗りつぶされて見えない。

 真紅と、漆黒。

 一筋の光もない、焦土の上にただ一人立ち、虚ろに上を仰ぐだけの闇。


『許さない、誰も』


 全てに向けられた、怨嗟の声。

 血に染まった花びらを、摘み取ったその手を――嘗ては、掴めなかった夜空に掲げて、踏み出す。


 全身を襲う浮遊感と、風圧。落下し続ける視界を、それでも閉じずに最後まで空を仰いでいた。

 その空に、二色。


 限界まで見開かれた双眸に、伸ばされる白い手のひら。


 死ぬ間際になって、とうとう幻覚を見るまでになったかと本気でそう考えかけた。

 けれども風に舞い広がった瑪瑙色の髪が、まるで翼のようで。その双眸には、ただ死にゆく自分だけが映る。

 自分がどんな表情をしているか、嫌が応にも突き付けられて。

 もう、逃避すらも叶わないことを知る。

 吐息は、一つだけだ。

 ――どこまで、阿呆なのか。と。

 眦に、籠る熱さに眩暈がした。

 彼女がどうして飛び降りたのか、その理由を聞いておかなければと思う。

 だから、ただ、伸ばされた手を掴んだ。


「どうしてこんな、馬鹿げた行動をしたの……?」

「それを君が問うのかい? 目の前で落ちる人間がいたら、咄嗟にとれる行動を取る。そんなに難しい答えでもないと思うけどね?」

「……もう、呆れて何も言えないよ」

「んー、でも小言を言えるだけの気力は残っているだろう? 要するに君はまだ、死ぬ時を迎えていないのさ」


 岩と激突する寸前。

 広げた腕で、放出できた魔力分。たったそれだけでも、大気が震えた。

 そして結果から言えば、十分に足りたのだろう。崖の半ば、岩のせり出した部分に危うげもなく降り立った二人。

 元より保有する魔力量が多いため、二人分の命を岩との激突から回避すること自体はそれほど問題にならない。

 それは双方ともに同じだったが、少年はそれを知らず少女はそれを把握していた。会話が微妙にかみ合わないのも、必然だった。


 ずるずると岩場を背に、座り込む少年とそれを覗き込むようにして「もしかして傷が開いたのか?}と問いかける少女。

 しばらく沈黙していた少年は、俯いたまま一つの独白をする。


「クロウ・レイズ・ヒルデガルドは弟の名前。……初めに名乗った名は、借り物」

「うん、そこは何となく察していた。君の本質からして、警戒している相手にそう易々と本名を名乗るような愚は冒さないだろうと思ってね」

「……嫌な師弟」

「ふふ。そう思っているのも、何となく伝わってきたよ。ちなみに本当の名を教えてくれる気はある?」

「……アルヴィン。近しい者は、ルヴィと呼んでいた」

「そうか、じゃあルヴィ。君を助けようと思ったのはね、けして善意だけのことではなかった。それを伝えるために手っ取り早い方法がある。手を、貸してくれるか?」

「……何をする気?」

「心配しなくても、君の魔力に俺が()てられることはないよ。ほい、手」


 お手、とばかりに手を差し出すことを求められれば戸惑っても無理はないだろう。色々なことを差し引いても、カルーアの感覚は人よりも僅かばかり、ズレている。

 乞われるままに手を伸ばしながらも、その思いは否定できない。


「……まず、集中。意識は内側に。君の色は、白だ。色彩でイメージするとより鋭敏に辿れる。ぐるぐると循環している感覚が掴めてきたら、そのまま痛みを感じる部分にゆっくり流すようにして――――よし、そろそろ良いかな」

「……痛みが、消えた」

「うん、少しばかり魔力を添えさせてもらったよ。本当はもっと早い段階で試してみるべきだったけどね、こちらの事情で少しばかり決断に時間を有してしまった。けれど、これでもう君は自由だ」


 徐々に薄まっていく宵空を背に、カルーアが笑って頷く。

 彼女の言葉の意味は、十二分に理解できた。けれども根本的な疑問は全く解消されていない。


「魔力を、添えた? そんな事が可能なの?」

「うん、まぁ条件は色々あるけれどね。可能だよ。まさか世界に魔力を保有するのが自分一人だなんて思ってはいないだろう?」

「はぐらかさないで。そんな言葉で誤魔化されるほど、世俗離れはしてない」

「……ふぅ、やはり君は肝心なところを暈されて育ったんだな」


 カルーアは思案する。彼女の口から、本当のところを語るのは吝かではない。とは言え、彼の中――白の獣性がそれを望んでいるのかが今一判断できない。

 さて、直接語り掛けてみるべきか否か。そんな一人問答をしている最中、ふいに肩へ寄り掛かってきた重みが思考を現実に引き戻して来た。

 唐突な、眠気。このタイミングで、まるで誘導されたように意識を手放した彼。その身体の重みが、岩を背にして少女を縫い止めるようにしていた。


「……やはり、『白』は望んでいないのか。ふむ、その意図するところは正直分からないが……とりあえず今はまだ語る時ではないということだね」


 夜明けの空に、少女の呟きが零れた。



 *



 頬に触れているのは、柔らかな髪の束だろうか。

 日を透かして、より一層柔らかく見えるそれを無意識に指で梳く。

 ゆるゆると広げた視界に、映り込むのは揺れる若葉。草が、耳元でサワサワと音を立てている。


「起きたかい? そろそろ起こそうと思っていたんだが、その必要もなかったみたいだな」


 草の音に混じって聞こえてきた声に、首を巡らせて気付く。

 自分の頭が、少女の膝の上に乗せられている現状。初めに触れていた髪が、カルーアのものだということに。

 そのまま頭を抱えるようにして、記憶を手繰り寄せる。

 魔力を放出し、その後に本当の名前を伝えたところまでは思い出せた。……けれどもどうしてか、それ以降の記憶が曖昧でぼやけている。

 どうやら崖の半ばからは移動したらしく、崖の上に広がる草原に横たわっているという状況だけが見て取れた。


「……どうやって、ここまで?」

「ん、単純に登っただけだよ。半ばは強風もあって長時間いるのは危ないだろうと思ったからね。君一人抱えて崖を登るくらいの膂力は俺にもあるさ」

「……普通、大の大人でも難しいと思うんだけど」

「普通という定義は、この場合は当てはまらないな。まぁ、そういうことも世の中には儘あるさ」

「君、一度でいいから世間一般とのズレを自覚した方がいいと思う」

「……ふと思ったんだが」

「無視? ここで無視なの? 自由過ぎない?」

「――ルヴィ、君は頑なに俺の名前を呼ばないな。そこまで毛嫌いされているとなれば、まぁ仕方もないが」


 頬が触れ合いそうになるほどの、双眸の近さ。

 間近で覗き込むことになった翡翠色は、陽の光も混ざって息を呑むほどに綺麗だった。苦笑しながら離れる気配に、咄嗟に掴んだ髪の端。

 中腰で、首を傾げる少女を引き寄せるようにして――――その唇を奪う。


「……嫌いじゃない。追いかけて崖まで飛び降りてくれるようなひとを、どうして嫌えるの?」

「君も大概ズレているよ。普通、お礼にキスまでしないだろう?」


 囁くような距離で本心から微笑む彼に、呆れた顔を隠さない少女。

 陶然とするどころか、溜息まで零している。それを見上げて、ますます笑みを深める彼の心の内に少女はまだ気付かない。

 しなやかな動作で半身を起こした彼に、「うん、とりあえず大丈夫そうだな」と傷の検分をしてからごく自然に手を差し出してくる。

 そこには躊躇いや羞恥は元より、昨晩の騒動に関しての蟠りすらもないのだろう。


「ルーア、昨晩君が言ってくれた言葉に嘘偽りはない?」

「まて、単純に範囲が広すぎるだろう。具体的にはどの時点での発言を指して聞いているんだ」

「僕が帰りたいと思ったら、帰ってきて構わないといってくれた話」

「あぁ、あれか。思ったよりも遡ったな。……二言はないよ? ただ、師匠の了承も一応貰ってからになると思うけどね。何だかんだで、あの人は諦めも早いからそう難しいことでは無いと思うが」


 なにを今更、といった風情を隠すつもりもないのか。さらりと構わないと言い切る少女へ、その手を支えに立ち上がったアルヴィンは微笑を向けて告げた。


「ルーアが許してくれるなら、もう暫くここで暮らそうと思う」

「それは俺の了承が必要なのか……? 許すも何も、ルヴィ自身が決めることだろう」


 少女の返答を受けて、その口許に浮かんだ仄暗い笑みを一瞬で覆い隠す辺りは単純に慣れだろう。

 自らが生き延びるために、自然と会得した術の名残だ。


「僕が決めていいの? この先をずっと共に、と言っても?」

「……うーん、俺も師匠も割と気まぐれだからなぁ。この先もここに定住し続けるとは限らないが、それも踏まえて共住したいというなら、別に断る理由はないんだが……」

「うん、言質はとったよ? 後から断るといってももう遅いからね」

「んー……何だか、雰囲気が変わっていないか。ルヴィ、そちらが素か?」

「ふふ、ルーアの想像に任せるよ」


 怪訝そうな、というよりかは純粋に疑問だという目。その翡翠色を横目に、この上もなく幸福そうに微笑んで見せる少年――後に、フォーゲルクロウの姓を自ら名乗ることとなる彼はこの時に選び取ったのだ。

 虚の心を放棄した後の彼が選んだ、唯一。

 それを最愛と呼んで憚らなくなるまでには、あと数年の歳月を経ることとなるが。


「さてと、そろそろ帰るとしようか」

「ルーア、少しずつでいいから僕に家事を教えてくれる? 暫く体を動かしていなかったから、慣らしていきたいんだ」

「……君も酔狂な人だね。まぁ、手伝ってくれるならその方が助かるけど」

「この先を思えば、布石を打っていくのは当然のことだよ」

「……布石? 何の?」

「未来の」


 蒼天を仰ぎ、長く失っていた筈の感情を取り戻した少年はその日、帰る場所を見出したのだ。



次回より、新章スタート致します。

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