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勇者の最愛はこの大陸に見切りを付けました  作者: 因果論
過去譚*零章*
27/51

*某兄弟子の辺境語り 前篇*

 *


「ウニャ」

「……参加しないのか、って? 御免被るね。あんな馬鹿騒ぎに朝から巻き込まれるつもりはない」


 一人と一匹の問答。それは、水晶海の浅瀬で交わされていた。ひたひたと打ち寄せる波は、やはり『水晶(セイレル)』と称されるだけあって透明度も他の海域に比べて群を抜いて高い。

 待ち望んだ朝陽。その柔らかな光が、波間に立ち尽くす彼らの上を踊っていた。


 今更ながら、長い夜が終わりを告げたのだと。そこに思い至れば、ほんの僅かに安堵もする。

 それは紛れもない本心。ただ、現状を鑑みればこれからといっても過言ではない。目を逸らしたくとも、儘ならない今後の道筋が見えているからだ。

 そう――海原を超えて、尚も続くであろう数奇な道筋。今も昔も変わらずに、あの子を取り巻く様々なしがらみは減るどころか日々増していくばかりで。

 軍人として国に席を置いている以上、自分もまた無関係ではいられない。上空にいる師も、おそらく承知の上で話しておくことにしたのだろう。

 聞きたくなかったのかと問われれば、答えは否だ。時として情報は何にもまして『武器』となりうる。それを差し引いても尚、叶うならば、同席をしたかった。

 何故かって? それこそ今更な話だ。妹弟子であるカルーアのことを、ここ数年気に掛けなかった日はない。あの子は自分にとって、命を賭しても守りたい存在なのだから。そこを踏まえれば、当然の感情だ。

 大凡の内容に見当はついているとは言え、やはり実際にこの耳で確かめておきたかったという気持ちは変わらずにある。

 それでも地上に残った理由は、その私意を上回った選択に過ぎない。今の内に、手を打っておかなければ状況はより複雑化の一途を辿るという確信があった。

 機を逃せば、海原へ旅立ったあの子にとって後々の脅威なり得るモノ――その存在を、既に知っている。

 ヒントは王家の歴史を読み解く時、決まって暈される部分。

 こと、貴族性を持つ者にとっては禁忌に等しく――けれど、誰もが一度は耳にした事のある四つの風聞だ。

 闇よりも濃い、最奥の扉の向こうに咲き乱れる光花(グレース)の群生。

 王国の根底に縛り付けられたまま、密やかに受け継がれ続けた直系の血筋。

 封じられた血族の末裔にして、花園の主。

『神殿の忌み子』と称される、正体不明の切り札たる存在。

 これら四つを踏まえた上で、全てを丸投げされた当人としての結論は既にある。

『脱走』の知らせを受け、水面下でより一層の混迷に突き進んでいこうとしている現状だ。

 この大陸は、あまりにも様々なものを抱え過ぎたのだろう。因果とはよく言ったものだが、まるで笑えない。

 頭痛の種に、際限はないのだ。むしろ、売るほどある。

 改めてその辺りを認識したところで、一から整理しておこうと思う。

 この大陸が有する表向きの最凶戦力を考える時。真っ先に挙げられるのが、上空にいる弟弟子であることに間違いはない。

 ここ近年、人の領域をじわじわと浸食し猛威をふるっていた魔のモノ。その王たる存在を苦もなく排し、帰還した規格外にして、この地上で唯一の白焔の使い手。今や、この大陸で彼の名を知らぬものはいないだろう。

 ただし、あらゆる事象には例外がつきものだ。

 今回の国の招集によって明らかにされなかった存在がある。『神殿』によってその身柄を長きにわたって秘され、黙され、繋がれ続けてきた『例外』が。

 現在の王家が立ち上がる以前、この大陸を統べていた旧王家――ヒルデガルド。その落胤とも噂されたそれは、今現在に至るまでその姿を大衆の前に晒したことはない。年齢も、性別すらも定かでない。

 なぜ、それを脅威に感じているのかと問われれば簡単な話だ。白鯨(ネルヴェス)に齎された、密命。限られた面々にのみ知らされている『忌み子の脱走』。

 起こり得ない筈のことが、起こり得た。

 矛盾した発言だと、そう断ぜられても仕方がない。けれども現は時折、数奇な流れを選ぶ。


「……今回の戦いの余波で神殿最古の絶対防壁に歪みが生じた、なんてね」


 とてもではないが、公には出来ない事実だ。

 殊更、王家にこれを悟られでもすれば、神殿の権威など風前の灯火と化すだろう。苦渋の決断の末、神殿はスカイピア公爵に助力を求めた。

 数々の武勲により公の身分を授かりながらも、貴族としてのしがらみを尽く面倒くさがり、社交界へは殆ど顔を出すことのない変わり種(何か既知感を覚える羅列だ……)。高位の貴族たちからは『痴れ者』と称される父――ミュンヘル・スカイピア。

 苦笑混じりで、神殿の使者からの要請にしれっとこう答えたらしい。

「王家に要請出来ない理由は分からなくもないけれど、だからといって自分が助ける義理もないね?」

 蒼褪めた使者に、その後も何度となく泣きつかれた結果。ようやく日頃の鬱憤も晴れたものか。

 一転して穏やかな微笑を向けた父は、最も手っ取り早い解決策を提示してみせた。

 それ即ち、次の言に集約されている。


「我が息子ヴァイレットに事情を明かし、助力を得るといい」


 要するに、丸投げ方式だった。

 父のこの在り方は、昔からそう大きく変わっていない。それを再認識に至った、数日前と今日までの日々になる。

 これから直面することとなる『国』、『神殿』、『最凶戦力』との三つ巴。それを頭の片隅に考えただけで、頭痛を覚えもする。否、正確には『忌み子』も含めた混迷か。

 ――まるで、笑えない。


 今頃は澄み渡った上空で、白描クルルにとっての相棒――否、正確に言えば主も兼ねているハイナス他、計四名及び飛竜たちと共に昔語りに興じている最中であろう。


「あの頃も、今ほどではないが混沌は混沌だったな」


 ぼそり、と零した呟き。

 それは少なくない諦観と、どこか懐かしむような色を入り混じらせている――



 *



 ――湖面に映り込むのは、薄青の花弁。

 遠方に、微かに見えるのは翠巨石(リヴェール・)峡谷(ホルム)であろうか。

 白南風が生暖かく吹き抜けていく、東の境界。紛うこと無き辺境の地。その道の半ばだった。

 副都の邸から送り出されて、数えること三日と半日が経つ。

 灰色がかった肩までの髪を揺らし、ヒースの生い茂る丘陵で立ち止まった少年は――小さなため息を零していた。その表情は彼の頭上に広がった空と同じく曇っている。


「……軍神、ね。そうは言っても、こんな辺境へ引きこもった変人に一体父上は何を期待されたものか……」


 年のころに見合わず、どこかしら憂いに満ちた呟き。

 それは少し寂しげにも聞こえるものだったが、如何せんその口許は冷たく引き結ばれていた。

 ややあって、止めていた足を再び前へ進ませ始める。足元の湿った土を踏みしめ、伝えられた通りの道筋を辿っていた。その周囲は鬱蒼とした森と、薄靄ばかり。吸い込むほどに分かる、濃密な森の空気が胃の腑を満たしていく。

 五感の全てが、噎せ返るような深い緑に飲まれてしまいそうだった。

 その感覚が、陰鬱な気持ちにより一層の拍車をかけたものか。「……それにしても陰気なところだ」そう零しつつ、足早に森を抜けようと歩を進める。

 時にして、その合間。

 視界に、思いがけない角度から銀色の輝きが飛来してきた。

 咄嗟に身を捩り、木の幹を支えに体勢を整えた少年は鋭く誰何する。


「予告なく襲うとは――っ、一体誰の手のものだ!」

「誰の、ね。聞かれて答えるような凶手がいたら会ってみたいかな……はぁ。何か聞かされてた以上に箱入りっぽいんだけど、これの相手とか苦痛極まりないよね」

「…………あ」


 その声は、樹の上から響いてきた。

 濃緑の中の、白皙。

 視線を上げて辿って行った先に、この世のモノとは思えぬような端整な面差しがあった。幾らか年下と思しきその少年の顔に、表情は一切ない。

 要するに、こちらを見下ろしている以外に分かることはなかった。

 思わず声を上げ、続いて何を問うたものかと逡巡している間にも容赦なく降り注いでくる、銀の煌めき。

 殺気すら込められてはいないようだった。しかし、当たればまず間違いなく致命傷になるであろう。

 それは直観でもあり、同時に確信でもあった。

 とにかく必死に避け続ける他ない。

 状況がまるで呑み込めないながらも、それを問う暇すら与えられなかった。殺る気どころか、磨き抜かれたナイフを放る仕草すら面倒極まりないといった風情を前面に出しているにもかかわらず、そうして放たれる軌跡は少しの狂いどころか、手加減すらも感じられない。

 ゾッとするほど正確に急所を狙って落ちてくる。

 当たれば、死ぬ。生きたければ、逃れる他に術がない。

 いつしか息を切らし、それでも辛うじてナイフを避け続けること……約半刻ほどが過ぎただろうか。


「君の、目的は、何だ……!」

「目的? そんな大層なモノじゃない。ひと月分の食費の代価」

「……っ、ふざけて、いるのか?」

「ふざけてるも何も、そのままの意味」


 辛うじて、合間に問うた切れ切れの言葉。心の何処かで無駄だと分かっていても、会話を通じて僅かでも糸口を見つけられればと思った。

 しかし淡々と返される答えに、謎は深まるばかりになる。

 既に手足は、掠めたナイフの所為で所々から出血していた。傷こそ深くはないが、遠目に見れば満身創痍といっても過言でない有様だったろう。


 目的は、定かでない。

 けれども確実に、分かることがあった。


「っ、――殺すことが、目的では、ないんだな?」

「うん、そうだね。別に死んでも構わないけど正直……片付けるのは面倒だと思う。一番楽なのは、このまま先へ進まずに引き返してくれること」

「誰から、頼まれた?」

「答える義理がある?」


 鬱陶しげに睥睨するその様すら、腹立たしいほどに似合った。同性ながら見惚れてしまうほど、様になる。

 これには思わず、苦笑する。そしてそれは、この場において命取りになりかねない一瞬の隙を生んだ。

 肉体的にも、精神的にもガリガリと削られていく感覚に加え、疲労が束の間足を鈍らせる。

 それを認識した直後。既に、間近に迫っていた、軌跡。見逃すような甘さも慈悲も期待できるはずのない投擲に。

 迫る死を、覚悟した。


(――――もう、間に合わない……か)


 棒立ちになったその背を、不意に背後から迫った気配が蹴り倒す。

 そこに躊躇いは元より、少しの容赦すらもない。

 倒れ伏す直前の、視界の端に舞い踊るのは――煙るような瑪瑙色(アガット)の髪。

 続いて響いた声は、地面を抉るナイフの音よりも遥かに鮮烈に、彼の耳朶を揺らした。


「――ルヴィ、やり過ぎだ。師匠は何も、殺せとまでは言っていないだろう?」


 その口調は年若い男のそれを彷彿とさせるものだ。けれども傾ぐ身体を両腕で支え、視線を上げた先で少年は瞠目する。

 立っていたのが、どれほど多く見積もっても十二、三といった風情の年若い娘だったからだ。


「そうは言ってもね、ルーア。僕は君との平穏な生活を守りたいだけ」

「正確には、師匠を加えた三人暮らしだろう? ……はぁ。朝から姿が見えないと思えば、師匠曰く『食費』と引き換えに『駆除』を面白半分に持ちかけてみたと聞かされるし、駆けつけてみれば血塗れだし……平穏な生活が聞いてあきれるよ」

「……あぁ、ごめん。こんなものを見たら気分も悪くなるよね? 待ってて、すぐに片付けるから」

「そういう問題じゃない」


 軽い口調と共に投擲されたナイフを溜息混じりにいなしつつ、瑪瑙色の髪の少女は振り返った。

 そうして、彼女の翡翠色の双眸を見上げる形となった少年。

 躊躇いなく差し出された手に、束の間呆然とした面持ちのまま、問う。


「君は、一体……」

「ん?……あぁ、そうか名乗りが遅れたね。俺はカルーア、あの樹の上にいるのがアルヴィン。それぞれに経緯は違えど、ハイナスの拾い子だよ」

「……父上が仰っていた、二人の養い子というのは君たち?」

「父上、ね。その言い振りから察するに、君は都の貴族の子息か何かだろう? 事情は道なりに話すから、とりあえず治療がてらハイナスの家に案内するよ。自力でついて来れるかい?」


 無理そうなら、怪我をさせた当人に運ばせるよ。

 欠片の躊躇いもなくそう言い切った少女――カルーアに、流石にそれは遠慮したいと返答した少年。

 まるで生まれたての子羊が立ち上がるようにフラフラと上体を揺らしながら身を起こした。

 そのまま翡翠色の双眸を真っ直ぐに見つめて、告げる。


「君のお蔭で命を拾えた。……ありがとう。感謝している」

「ふむ、どうやら君は生真面目な性分らしいね。……悪いことは言わないから、その傷が癒えたら速やかに故郷へ戻ることを勧める。あの師匠に、君の真っ当さは相性からして良くないことは明白だ」

「……それは一体」

「会えば、分かるさ」


 さあ、帰ったら治療と遅めの朝食だ。そう言い差しつつ、んー、と上半身を猫のように伸びをしながら歩き始める少女。

 その背を追って、彼はようやく『東の境界』へと足を踏み入れることとなった。



 *



「へー、君がかのスカイピア家の後継か。なるほどねぇ……。君の父上、現当主殿も相変わらずの奇特ぶりだ。何せ、こんな辺境へ自らの継嗣を寄越すんだものね」

「父の奇特さについては、自分からは何とも言えませんが」

「はは、無理もない」


 辛うじて相槌を挟みながらも、彼の思考はこの時点で混乱の最中にあった。

 森での襲撃を乗り越え、少女の案内でようやく辿り着いた小さな屋。長閑な景観とは対照的に、その内側は混迷を極めていた。

 いや、まさかと二度見してしまったのも無理はない。想定外だ。今は取り敢えずそこだけは譲りたくない。

 何しろ、目の前にいる『実物』と風聞として伝え聞いていた『軍神』としての想像図はかけ離れ過ぎていた。

 ギャップが凄まじい。甚だしいにも程がある。言葉に出さないまでも隠し切れなかった表情は、背後からの声――カルーアが的確な解説を加えることによって、辛うじて平静を取り戻した。


「体内の魔力総量が多いものは、総じて年齢の進み方が遅くなるらしい。師匠のこれは、まさにその具体例だな」

「……正直、ここまで顕著なものは初めて見ます」

「ふむ、無理もないか」


 ことり、とテーブルに置かれたお皿には、思わず目が点になるほど豪快に、朝摘み野菜が積み重ねられていた。

 まさに山積みといった風情漂う、野性的な光景そのもの。

 絶句も、する。


「…………」

「とりあえず、先に野菜を摘んでおいて。今、スープを温め直してくるから。パンもそろそろ焼きあがるよ」


 そう言って調理場へと戻っていく背を見送りながら、少年は何とか心の平静を保とうと試みていた。

 しかし、如何せんその周囲が常識外にも程がある。

『軍神』として名高い当の本人は、眠気を堪えながらの食事風景。手に取った朝摘み人参を兎の如く、両手で抱えてモシャモシャと咀嚼している。

 先ほど自分を殺し掛けた少年――アルヴィンは、淡々と野菜の選別をしていた。どうやら甘みのある野菜を好むらしく、苦みのある野菜を無造作に放り投げ――それは結果として、ハイナスの皿へと足されている。

 それらだけでも、軽い眩暈を覚えるというのに。現実はどこまでも彼に試練を課すらしい。

 彼らの足元で、じっと油断のない眼差しを送るのは「……猫?」と思わず聞き返してしまいたくなるほどに大きな図体をした白猫だ。名をクルルと言うらしい。


 思えば、この家に招かれて真っ先に浴びた洗礼は、このクルルによる唸り声であった。

 元より貴族然とした生活を今に至るまで続けていた少年の、その精神には酷過ぎるものがあったのだろう。

 既に若干、遠い目をしていた。


「それで? 君の意思を聞こうか」

「……私の意思、ですか?」

「そうだよ? 他ならぬ君の意思を聞こうじゃないか。こんな辺境の地で、今や退役軍人となった自分へ君が何を期待しているのか。君はどうなりたくて、それに対してどれほどの覚悟をもって『東の境界』を訪れたのか」


 ――そこを聞いておきたいんだ。

 空豆のスープを啜りながらそう問うた双眸に、薄らと異なる色彩が過った気がした。


「父は、自分に足りないものがあると言いました。元より指摘はしても、答えをくれた例のないひとです。それが、今回は珍しく『ヒント』と称して貴方の話を聞かされた。正直なところを言えば、今の自分に明確な目標はない。すべて、手探りのままで……それでも、副都にいては気付けないことを知るためにここへ来ました」

「どう思う、ルーア?」

「何故そこで俺に振る。……はぁ。それよりスープのお代わり欲しい人は?」

「ん」

「もう三杯目だろう、ルヴィ。飲み過ぎだ、却下」


 この面々を前に真面目な話をしようとした自分が空しく思えてくる少年。それを余所に、大鍋を小脇に抱えたまま、ふいに振り返る少女。

 その様相に似つかわしくない真摯な眼差しで、射るように問いかけた。


「シンプルに二択で問おうか? ヴァイレット・スカイピア次期公爵君。君が望むのは、軍人としての矜持を携えた貴族か。それとも貴族としての矜持を携えた軍人?」

「その何れでもない」


 少年の迷いのない返答に、少女の目が僅かに笑みを含んだものへ変わる。


「己の為に、剣を取ると決めた。――それが亡き母と交わせた唯一の誓約で、その思いは今後も変わらない」

「なるほど。……師匠、聞いたね?」

「うん、聞いた。……正直なところ、仮にも公爵家の継嗣ならば何れかを選ぶだろうと思っていたんだけどねぇ。やはりそこはスカイピアの血筋か。ふぅ……やれやれ、と。こいつは面倒なことになりそうだ」


 そこはかとなく馬鹿にされた気がする。しかし、不思議と怒りを感じることはない。それ以前に、交わされる言葉の真意がよく分からないことの方がこの時点では問題だった。

 少年の疑問符は尽きない。


「そう言いながら師匠、そこはかとなく嬉しそうだけどね?」

「はは、ルーアは時々笑えない冗談を言うなぁ」

「……あの、」

「さぁ、仕切り直しといこうか。ヴァイレット君、君に学ぶ意思があるならとりあえず一月だ。仮弟子として君を迎え入れよう。ただし、住まいは納屋の横。食費は各自持ち。一月が過ぎても君が何もつかめなかった時は、そのまま副都へ帰ってもらう。場合によっては生きて帰れない。――とまぁ、基本事項はそんなところかな。これで良ければ、今この時をもって君と僕は仮の師弟だ。どうする?」


 食べかけの人参の端を突きつけるようにして、嘗て『軍神』と呼ばれた男が問う。

 それに対して少年が返せる答えなど、この時点で一つしかなかった。



 *



「――毛布はそこの戸棚の中、初夏とは言えこの辺りだと夜はまだ冷え込むからね。多少はごわつくだろうが、掛けて寝た方がいい。あと、基本的にここに転がっているものは自由に使ってもらって構わないよ。大体は魔導式の試作品。お隣さんが作ったものを、置き場に困って置いているだけだからね」

「……試作品?」


 教えられた戸棚から、毛布を引っ張り出しながら思わず尋ねていた。そもそも、魔導式という言葉からして驚きは隠せない。大抵その恩恵に預かれるのは都でも一部の貴族ばかりで、総じて非常に高価だ。


「そう、あくまでも試作品。とはいえ、そこの簡易(イル・)保冷庫(フリーズ)は中々役に立つと思うけどね。大抵の食材は入れておきさえすれば二月程度は持つから。……他に目ぼしいものと言えば、そこの壁に掛かってる魔力(ラーズ)測定器(・クリア)くらいかな。もし、単身で森に入りたい時があったら念のために身に着けておくといい」

「……魔力測定器が埃を被っている光景なんて、初めて見ました」

「んー、何せ自分も含めて、この家にいる面々はあまり必要としないモノだからねぇ。有体に言えば、使う機会がなかっただけさ」

「…………」


 絶句する少年を横に、他に聞いておきたいことはあるかと首を傾げて問う少女。

 理解しつつはあったものの、やはりこの屋に住まう時点で彼女もまた『普通』では無いのだろう。そこを改めて認識したことで、胃の腑に何か得体のしれない重さを覚える。

 彼はまだ成人こそしていないが、武家に生まれた子息として幼少から数多くの『一般から逸脱した面々』と顔を合わせてきた経験がある。そこで抱いた畏怖に大小はあれど、ここ数年では冷静に推し量れるようになってきていたのだ。

 ――こんな感覚は、久しぶりだな。

 そんな少年の胸の内を知ってか知らずか、補足として付け加えられた一点。


「とりあえず今日一日は休息に充てること。他ならぬ師匠からの厳命だから、独自の修練についても一切合財お休みということで宜しくね。……君は聡いようだから気付いているかもしれないが。あの師匠から教えを受けるとなれば、明日以降はそれ相応に疲弊することになるよ。心身ともに一日目を五体満足で帰ってきたいと思ったら、今日は丸々休んでおくのが賢明な判断だ」

「……分かりました。色々と有難うごさいます、カルーアさん」

「ルーアで構わないさ。少なくとも今は、同じ弟子同士……うん。それこそ年齢を鑑みれば、兄弟子といっても間違いではないね? 折角の機会だし、明日以降はルヴィ共々『ヴァイ兄さん』と呼ばせてもらってもいいかな?」

「……それは、正直、勘弁してもらいたいかな」

「うん、ようやく本音が聞けたね。ひとまずは安心だ。――ではお休み」


 小さく手を振って、納屋の戸を閉めて去ったカルーア。その足音がそう遠くまで行かない内に、聞き覚えの無い声が少女の名前を呼んでいるのが聞こえてくる。

 納屋に窓はない。恐らく同世代であろう、年若い声だということくらいしか分からなかった。


「ルーア、今朝からルヴィの機嫌が相当悲惨なことになってるみたいなんだけど何か心当たりとかない? このまま放っておいたら、死人が出そうな勢いなんだけど……」

「あれの不機嫌は今に始まったことでもないと思うけどね。まぁ、一応心当たりがあると言えばある。これから一月、師匠が仮弟子を取ることになってね。きっとそれが直接的な原因だ。それにしても……うーん。一向に人見知りの気が抜けないのはどうしたものか……」

「いや、あれは人見知り云々と呼べるレベルじゃ……待った。それはともかくとして、一つ確認させて」

「何を?」

「その仮弟子、男?」

「公爵家の子息。年齢順で考えると兄弟子という扱いになるかな」

「うわぁ……。一月? ねぇ、一月って言った? 単純な話、生き延びられる気が欠片もしないんだけど」

「んー。カルがそこまで言うとはねぇ。あれはそんなに機嫌を悪くしている?」

「……ルーアの鈍感ぶりには、脱帽だよ。ある意味でルヴィの不機嫌が分からなくもないというか……いや、でもいい機会か。考えてもみてよ。隣に居住しているという、ただそれだけの理由で僕が被っている殺意と背中合わせの日常。これが同じ屋根の下ともなれば言うまでもないよね?」

「そんなものかな」

「そんなものです。男なんて、ある程度の年齢になれば我儘で、嫉妬深くて、根っこは狼なの。その辺理解してる? 特にルヴィなんて、その辺一般を軽く逸脱しているんだからね。そのとばっちりで殺されるのは、正直言って御免です。ハイナス先生と話したいんだけど、今どこにいるの?」

「この時間帯だよ、カル。聞くまでもないと思うが?」

「……日時を改めるよ。でもね、ルーアもその辺りをちゃんと理解して。ルビィを不用意に刺激しないようにしないと死者が出るよ。これ冗談じゃないから。明日の朝、玄関脇に僕の刺殺体が転がっていたら間違いなく原因はルヴィの嫉妬心。殺人犯は嫉妬心を抱いた当人だから。分かった?」

「いつも済まないな、カル。とりあえず冥福を祈るよ」

「うん、出来れば祈るよりも先にルヴィから目を離さないでね。それが現状における最善策だから」

「分かった。なるべく心がける」

「僕らの命は、君の手腕にかかっているといって過言でないんだよ。お願いだから、その事実を一時たりとも忘れないで」

「この細腕に、そこまで過大な期待を抱かれてもなぁ……」

「細腕って……」


 言い交わす声は、次第に遠ざかる。そして納屋の周囲に訪れた静寂。

 寝台に腰を下ろし、いつしか俯いていた少年の顔色は蒼白に近い。


「……明日まで生き残れるのか。自分」


 ぽつりと零れ出た呟きに、返る答えはない。

 この日、彼が十分な睡眠を取れたかどうか……それは改めて問うまでもない。


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