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少女は月下の海都で、最凶と対峙する*閉幕編*

 *


「海、割れたわよ……?」

「ああ。……ルーアは普段、意図的に力を抑制している。その分、咄嗟に加減が利かなかったんだろう」

「いやいや、そんな淡々と言うことじゃねぇだろ、隊長?」


 再びの三者三様。その顔ぶれは穴熊のマスターことベリル・クラウレッド、上空戦には顔を見せずにいた白鯨の長にして、現在進行形で妹弟子の奮闘ぶりを見上げているヴァイレット・スカイピア、同じく白鯨の所属にして最後の良識とも称されるユギ・レインの三名である。


「ねえ、海……」

「繰り返さなくていい。まずは落ち着くことに専念する方がよほど有意義だよ。あの子が『刃』を抜いた以上、海都一帯の消失の可能性は限りなく低くなったからね。――いま大切なのは、一つ。ルーアが大陸を出るための最後の機会。これを後押しする為の、後方支援に専念することだ」


 譫言のように呟きを漏らすマスターを一瞥し、にべもなく切り捨てる在り様。

 それは普段通りと言ってもいい。ただ、際立って異なる部分もある。共に軍務にあたってきた者ならば、それに否応なしに気付かざるを得ない。

 軍人とは往々にして、そういう生き物だ。


「……隊長、いったいあの子は何者だ?」

「ユギ。無事にその生を全うしたいのであれば、あの子と根暗冷血勇者に纏わる諸々に安易に嘴を突っ込まないことだよ。世の中には往々にして、答えを求めてはならないものがある」


 双眸に、揺れる色。それは様々な感情を含んでいるように見える。

 だが、その内心に抱くもの。否、抱いているもの――その本質は恐らく一つだ。

 ユギ青年の静かな声は、ひたひたと揺れる宵闇の海にそのまま沈んでいきそうなほどに――低く、重い。


「要するに……『畏怖』を、抱くに値する生い立ちということか?」

「ユギ、私も全てを知っている訳ではない。元より、あの子は多くを語りたがらない。それは今も昔も変わらずに、まして――師匠ですら、あの子の故郷を知らないのだから」

「ちょっと待った」


 琥珀の双眸を瞬かせ、まさに話の本筋を掴み取ろうとするかのように身を乗り出して来たマスター。彼の動きに同調するように飛竜の首がゆるゆると伸びた。


「まず確認させて。……ルーアちゃんは、この大陸の生まれではないの?」

「共に海都へ至る旅路を歩んできた君らだからこそ、感じる部分もあると思ったけどね? 買いかぶり過ぎかな。……まぁ、それはさておき。ルーアはあの通り、その年相応に似合わない在り様をしている。卓越した身体能力に限らず、いざという場における度胸と併せ持つ冷静さもそう。基本的に平和主義を謳っているから、普段は殆ど表には出てこないけれどね……実際、あの子が只人でないのは誰の目にも明らかだ」

「…………」

「……否定できないわね」


 無言のユギ青年と目を交わしながら、小さくため息を零したマスターの横顔にほんの一瞬、年相応の疲労が過る。


「あの子が何者か、その問い掛けは――――あの戦いの果て、その終焉にそれぞれが見出すべき答えだ。私から君たちに伝えられるのは、それくらいなものだよ」



 *


 ぼちゃん、と遠方で海豚(ルーフィア)の跳ねる音がする。

 透き通った銀色の背びれが、うっすらとでも見えないものかと。

 そう思い、目を凝らしてはみるものの。


 ――ふむ、視力には割と自信はあったんだが。やはり無謀か。

 霞がかった海原の真上に浮かぶ、灰白色の飛竜の背の上。

 少女はふぅ、と。一息吐いて音の響いてきた方角を眺めている。

 そこはやはり、宵の海だ。微かに捉えられるかどうかといった微妙な視界のなかで。

 実際のところ定かではないのだが、恐らく海豚が遠洋へ向けて避難している最中なのだろう――そう当てを付けるくらいしか出来ない。

 無理もない話だ。

 ただでさえ、先を見通すのに困難を要する夜の闇。それに加えた、魔力飽和に伴う霧の中。視界は最悪。見事なまでに三拍子揃っている。

 朝日に照らされる時刻を迎えれば、――遠からず、周囲の惨状は明らかとなるだろう。

 けれども今は、まだ見通せない。ただそれだけの話だった。


 二度目の、吐息。

 手の中で脈打つ紫炎(モーヴ)は、その淡い刀身を海面に溶け込ませるようにしてユラユラと揺れている。

 何かいろいろと面倒になってね。ひとまず海面をそのまま蓋にしてみた。この流れで分かる通り、海中にはあれがいる。呼吸? いや、そもそも水中で溺死するような普通さがあったらここまで悩まないよ。

 最凶の名は、どのような状況においても如何なく発揮されるものなのだから。

 膠着状況が維持できているだけでも、僥倖だ。これ以上の面倒は御免被る。

 海面を境界線に、空と海中で魔力を拮抗させ続けた余波は大きい。事実、それなりの被害が生じざるを得なかった。

 あれが放った始原(イノセント・)火炎(エーダ)。それは辛うじて上空へその勢いを逃がし、地上への影響を相殺した。正直、あの規模の火炎は勘弁してほしい。軌道を逸らせるのだけでも、両腕に結構な負荷が掛かった。

 とは言え、そこまでは想定内。

 むしろ問題は、その後の封じ込めにあった。

 刃を抜いた瞬間から、対峙する覚悟は済ませていた。そこまではいい。そもそも自分で決めたことでもあったからね。

 ――ただ、自ら想定していた以上に魔力の応酬によって零れ出る余波が、大きすぎた。それに気付いた時点で、取れる選択肢は大幅に狭まらざるを得なかったという予定外。

 どちらかと言うと、これが非常に不本意だった。

 夜半を過ぎて、少しずつ募っていた空腹感もそれに拍車をかけた。

 簡単に言うと、

『元凶』を海面に蹴落とし、『紫炎』をかなめに海域一帯へ広域結界を発動させた一連の流れ。

 魔法式を自ら紡ぐことのできない自分には、それ以外の方法が無かったんだよ。うん、真面目な話ね。

 簡単に解説しようか。

 生半な刃では、あれが発する膨大な魔圧によって刀身が溶けてしまう。実際に試してみるゆとりはないから断言はできないが、おそらく足止めにもならなかった筈だよ。『緋』と『青』が混じり合っている『紫炎』があってこその芸当だ。

 見渡す限りの海面に、生き物の気配は希薄。

 やり過ぎたことは理解しているさ。そこは否定しない。

 だからと言え、過去に戻ったところで、恐らく自分が選んだ選択肢が変わることはない。それも否定できない。

 ふむ、ややこしい? 面倒な話に思えるだろう? でも、突き詰めれば簡単なんだ。案外ね。

 思いはしても、選択し直すか否かはまた別の話。要するに、自分本位だ。

 物事を、事象を、ややこしくするのは全て人の感情が為せる干渉なのだから。

 ここまでが、普段通りだよ。変わり映えもない。揺るがない。何事も、自分が自分である限りは儘ならないもの。

 物事万事、それに尽きるね。


 うーん、と。

 まるで思考を一旦置くようにして少女は猫のように伸びをする。争いの余波で帽子も飛ばされてしまった――結果、露わになる瑪瑙色(アガット)の髪。今は海風にさらさらと靡いている。隙間から覗く翡翠の双眸は、どこかぼんやりとした色を湛えていた。

 それは、遠くを眺める――――遥か遠く、海の向こうを。

 但しそれも、刹那のこと。

 少女は真下から吹く風のなかに、慣れ親しんだと言って過言でない膨大な量の魔圧を感じ取る。


「あのまま焼かれれば、全てを呑まれてもおかしくは無かったしなぁ……。はぁ、忌々しい。ややこしい。つくづく面倒臭い在り様だ……」


 ――今頃は、再び双眸に『緋』が戻っていることだろう。

 それも見越したうえで、手加減は一切なしで海上へ向けて蹴り落とした経緯があったものの……やはりというか、何と言うか。刹那見えた水煙の向こう側。

 あれは、笑っていた。

 得てして寒気しか覚えない現実に、どうして手加減など出来ようか。否、無理だ。


 今は海面も凪ぎ、ぷかぷかと浮かんでいる夜光(ティータ・)海月(トーフェ)たちの姿が良く見える。避けられなかった部分もあるとはいえ、先ほどの落下の衝撃で四散してしまったモノもいただろう。……うん、悪いことをした。

 出来るならばあまり多くに迷惑を掛けずに生きたいところ。それが叶わない現状には、色々と思うところは多い。そう、色々とね。


「……例えあれが自分を求めなくとも、遠からずこの大陸を出なければならなかっただろうしなぁ……」


 深い吐息は、潮風に混じり合う。

 ゆるり、ゆるりと。思考は救いのない円環を回り続けるようで。

 意図して秘めたものほど、遠からず露見するものだよ。儘ならないものだ。

 今も昔も。因果は深く、断ち切ることなど叶えようがない。諦観? ……まぁ、そこは否定できないね。気が遠くなるほどの日々を、諦めと共に歩いてきた。今更だ。本当にそうだよ。可能な範囲で抑制し、共生してゆくほかに、道がないことを知って久しいからね。

 ――――遠からず、この大陸に見切りを付けなければならない日が来ることも。

 今よりもずっと昔、かの人と分かたれたあの日から、少女は知って生きてきた。

 目を逸らして、忘却に埋もれようと重ねた年月。けれどもそれも、いつかは終わりが来る。

 やはりかの人の告げた通りの道筋を辿ってきた。

 やれ、不快だ。もう少しどうにかならなかったものかと頭を抱えた日もある。

 そんな筈がないと、言葉にならない不安に寝返りを打ち続け、不眠となった宵も数知れないよ。

 それでも二つの刃と誓約の元で、辛うじて繋ぎ止めただけの今。そうまでして、維持しようと思った意図。まぁ、早い話が諦め悪くもがいた末。ささやかでは済まされない我儘。冗談でも笑えない一種の反抗心――等々に近かったような気もする。

 いつ、壊れてもおかしくない『今』を他でもない自分が一番誰よりも知っていたのになぁ……。


 ――潮時。まさにその二文字が相応しい現状だね。

 そろそろ昔の話も挟んでおこう。

 運命がどう転ぶかはまだ分からないが……いずれにしても、今宵で一つの区切りは付く。

 そこに自分にとっての救いがあるかどうかは別として、偶には感傷的になってもいいだろう。

 今、くらいはね。



 三度目の、溜息。

 三度目の、正直。

 そうして少女は、翡翠色の目を閉じて思考の海に揺蕩う。



 それはまだ、自分が『私』で在れた頃から続く因果だった。

 ナニモノでも無かった『それ』は故郷を遠く離れて『私』となり、因果を知って『俺』になった。

 ここで言う『私』の記憶は、曖昧である。不完全と言っても過言でない。細切れほどのそれを、辛うじて掻き集めても……うん、おそらく語るに満足な量は得られないだろう。

 辛うじて言えることは、本当に少ししかない。

 その内の一つ。それは海を越えて、流れ着いたその先で『私』を拾ってくれた唯一無二――それが、かの人だったこと。

 かの人の名は、もう思い出すことが叶わない。記憶を残す代償に、全て飲まれてしまったからね。

『私』によって咀嚼済みだ。もはや、『俺』が手出しを出来る範疇にない。

 それはさておき、だ。

 酷薄で、誰も信用していなかったかの人がどうして自分を拾ったかは、永遠の謎だ。これまでもこれからも、けして明かされることはないだろう。そこは断言できる。

 何故なら、かの人はもうこの世のモノではないからね。

 かの人が語ることが無い上に、その頃の『私』もその例外ではなく。

 かの人を喪ったのと同時に、『私』は失われた。だからこそ、本来ならばそこで終わっていた筈の道筋だったんだろう。そうだろうね。

 けれども、その後に生じた『俺』という自我。

 自然の摂理の範囲内に含まれるのかさえ、分かったものではないけどね……まぁ、生まれてしまった以上はどうしようもない。無かったことには、ならなかった。いくら疑問を覚えたところで、いくら否定を重ねたところで、いくら詰ったところで。

 要するに、遅すぎたんだよ。

 今更、どうにもならなかった。

 だからこそ、面倒な身体を背負うほかに無かった。

 選択肢なんて、端から無かったよ。少しも笑えない現実のほかに、残されていたものは無かった。

 それでも生きていける分だけ、生きてみようと。――そう、思ったんだ。

 それが師匠に会うよりも前。誰にも伝えていない『私』を失くすまでの話。

 ――退屈だろう? その感性は大切にした方がいい。味気のない料理に満足しているようでは、程度が知れるからね。

 他人事のように響く? ふむ、まぁね。否定はできないさ。

 諦観に染まった思考など、大様にして無責任なものだろう?



 四度目の、吐息。

 それは四度目の、諦観でもある。

 はぁ……やはり慣れない感傷など、程々にしておくに限るよ。



 さぁ、余所見も程々にしておこう。

 一番大事なところは、最後の最後にとっておくさ。こう見えて、好物は最後に残す主義だ。



 ――さて、やりますかね。

 つい、と視線を上げた少女の翡翠色の双眸はそうして少しずつ闇に慣れていく。

 視界は未だ、晴れないものの。どことなく不穏さを覚える静寂の海。

 それは幾分唐突に、放たれたものらしい。

 耳元で響いた警告音に、咄嗟のところで身を翻した。

 頬を掠めた、(アク)(ティス)の魔法式。その速度は、一般的に視認できるレベルを遥かに超えている。要するに、ここに来てあれも手加減する手間を惜しんでいるのだ。

 やれやれ、終わりも近いらしい。


「クェ」

「ん、余所見のしすぎだね。教えてくれて助かった。……ふぅ。こうなれば、やれるとこまでやるしかないな」


 ここから先、対峙する選択をした以上は、半端ではいられない。

 大きく息を吸う。それを、そのまま静かに吐き出していく。

 空も海もない。

 まるで、全てが一体となったかの如き暗闇の中、再び熱を灯すのは真白き焔。その奥に瞬く緋葵の色まで鮮明に見える。

 少女と勇者――その周囲だけが、真昼のように白々と照らし出されていた。


「……まだ、炎を完全に形成するまでには間があるか……」


 まじまじと眼下を観察し、ぽつりと呟いた少女。タイミングとしては、まずまずと言えるだろう。

 ザワザワと木の葉が擦れ合うような音が、その耳朶を打つ。

 視線だけで見遣った先、並び立つのは二人分の影だった。


「「(とき)を、告げに参りました」」


 声を揃え、ふわりと笑みを乗せるのは大水鳥(グラン・ペリカム)の双子たち。

 左にメリッサ、右にシトラールが蔦を足場に海上に立つ様は、見るものが見れば一種の異様とも捉えることだろう。

 しかし殊この場において、あらゆる異様はその意味を為さない。


「感謝するよ、大水鳥の双子たち。――――願いが叶うその時には、もう会えないかもしれないな。うん、序だから一言残しておこうか。……メリッサ、弟で遊ぶのも程々にしておいた方がいい。早々に反抗期を迎えても、それはそれで大変だからな。シトラール、君は今後とも姉君のストッパーとして頑張れ。陰ながら応援しているから」


 蔦の葉の、その切っ先が朝焼けの色に少しずつ染まり始めていた。

 ぱちり、と指を鳴らして『共鳴』を解いた双子たちは微笑と苦笑をめいめいに浮かべてみせる。

 どちらがどちらの表情をしていたかは、説明するまでもないね。


「貴女も主様と同様に、色々としがらみが多い立場です。私たちが手をお貸しできるのは船出までに限られますが。それでも同じ空の下――――互いが生きている限りは、カルーア様のご多幸をお祈り申し上げます」

「一応、主からの伝言も預かってきてる。『明朝、二つ音。目印は青地に藤黄(ボージ)(・イーグル)――――貴女に幸運を』だそうだ。確かに伝えたからね。……まぁ、互いに苦労は絶えないみたいだけど満足が行くところまで自分の意思で、逃げ延びて欲しい。俺から言えるのはそれくらいだよ」


 同じ色彩を揺らして、それぞれの言葉を返してくれた双子たち。

 彼らに、もう一度「ありがとう」と伝えようとして――けれども口を割って出た言葉は、当人でさえも苦笑せざるを得ないような、別れの挨拶だった。


「ところで、前から言おうと思って言えなかったことがあるんだ」

「「?」」

「――――単純に気付いていないのか、もしくは意図的なものか。正直、今になっても判断に迷うところだけどね。君たちの魔法式には、ほんの少しだけ『穴』がある」


 瞠目した双子たちの表情を見て、どうやら答えは前者であったらしいと苦笑した少女。

 あえて穴を放置していたであろう、大水鳥の店主――蒼褪(セレ)めた双翼(ディア)の意図を思い、どうやら余分な一言を残していくことになりそうだと。

 内心で、密やかに謝罪する。


 掛けられた指摘に絶句したままの双子たち。

 灰白色の背から、それに対して苦笑を隠し切れないでいる少女。

 そんな彼らの上に、被さるようにして――――朝の光が、水平線上に差し込んでくる。

 白々と明けていく、うす紫がかった美しい海都の空。そこに浮かんで、瑪瑙色の色彩を靡かせた少女は『その時』が訪れたことを知った。



 海都に残された、西側の鐘楼が『刻』を告げる。

 片割れを喪い、ただ一つになった青銅の鐘の音だ。

 ――ゴォン、ゴォンと鈍い音が、海都に朝の訪れを知らせていく。


 まるで、空と海の二神が互いの『力』をぶつけ合ったかのようであったと。

 後に、海都の住人達によってまことしやかに語り継がれていくこととなる夜明け。

 水晶海の上で、爆散した二つの波紋。大気を歪め、海を割った――白と紫。

 それは朝焼けの下に、落とされた終止符だった。

 海月(イース)(ヴェル)の一夜が明け、日の下で照らし出された海面の上。巻き起こった風によって吹き飛ばされ、海原を舞ったのは黄金と白銀の幾つもの旗。

 その光景は恐ろしくも美しいものであったと、人々は口にすることとなる。

 天空神(セレスタ)海神(シーアス)を表す二色が舞い散る中、共に海へ沈んだ――白焔と深紫。



 その行方を知るモノは、いない。

 ――そう、言いきれれば奇麗に纏まったのだろうけれど。残念ながら、それは真実とは言い難い。



 一人の少女の逃亡から始まった、今回の旅路。

 一人の勇者の追走によって混迷を極めた、その顛末。

 実はまだ、終焉を語るには早い。

 それを知る者は――――きっと、多分、そう多くはなかったりもする。


 それはさておき。

 何者かも分からぬ両者の攻防は、大陸中にばら撒かれた号外の中で様々な憶測を呼んでいくこととなる。

 その中でも最も有力な風聞――それを聞いた『当人』は流石に苦笑を禁じ得なかったのだろう。

「人の口と言うものは、なかなかどうして面白いなぁ」と。

 潮風に靡く船の帆を見上げながら、腕の中の『灰色』にそう零した。


 予め、大水鳥の双子たちが港に張り巡らせた魔蔦と、衝撃を緩和させる為の広域結界。

 白猫の背に乗って駆けつけたカルディア・ムートが咄嗟に紡ぎ出した最高密度、三重の防御用結界。

 その二つに加え、都の上空で合流したハイナスとヴァイレット。その師弟が都全体に配した反射結界。

 全ての魔法式をもってして、ようやく壊滅を免れた『水晶海の女王』。

 辛うじて、その美しい姿を留めるに至った。




 ――――美しい遠景を眺めつつ、猫のように伸びをする。

 うんうん、中々どうして儘なることもあるじゃないかと。

 少女は、ひっそりと物思う。


 見上げれば、藤黄(ボージ)(・イーグル)

 透き通るような青い空に、それはそれは良く映えていた。


「……とりあえず、べた付いた身体を洗い流したいなぁ」

『海中に落ちれば、塩まみれにもなるの』


 ざらつく腕を陽光に翳しながら。

 海都から少しずつ離れていく甲板の上に、少女の望んだ平穏があった。

 腕の中には灰色の塊。流石に海に落ちた時には、迷惑そうにバタついていた。そうまでしないと起きない揺るぎなさ――その果てのない睡眠欲には脱帽もする。

 そう言えば、お気に入りの作業帽が行方不明だ。おそらく今頃は水晶海の潮流の中だろう。


 ふわふわと潮風に靡く毛玉に頬を寄せる。

 ようやく掴み取った海路を前に、少女はその翡翠色の双眸を細めていた。


『貴女、実際のところ強運なの。……そもそも周囲の人間たちが、魔術の先端を行き過ぎなの。本来なら、貴女と焔の使い手の最後の一撃で、海都は一面焼け野原になっていた筈なの。あんなものを見せられたら、飛竜としての立場が無いの』

「うーん。……何と言って返答したらいいのか迷う感想だ。でも、立場がないと言うのは正しくないな。実際、海から引き揚げてくれた飛竜たちには感謝しているよ」

『むしろあれくらいでしか出番を見せられなかったの』

「海中から(ソノア)で呼び寄せてくれたんだろう? ありがとう。素直に助かった」


 苦笑混じりで返す少女に、半眼の淡黄色(ミモザ)

 女王竜の次代は、この上なくあからさまに呆れ顔であった。


『……淡水で暮らす私たちは、過度な塩分がこの上なく苦手なの。覚えておいて欲しいの』

「うん、今後は気を付ける」


 さりげなく刺された釘に、再び視線を空に向けていた少女はやはり苦笑を湛えたままだ。噛み合っているようで、肝心なところは今一噛み合わない一人と一羽である。

 暫くして、腕の中から健やかな寝息が聞こえてきた。




 そんな彼らを、船の後方から観察している二組の目線。

 その内の一方は、視線を少女に向けたまま声を潜めて言う。


「……『蒼褪(セレ)めた双翼(ディア)』からの依頼とは言え、あんなの積荷として積んで良かったんですか?」

「……忘れたか、キーツ。この船は商船だ」

「はぁ? そりゃあそうでしょう。今更何ですか」

「指定した時間、依頼、代価。――その三つが問題なく済んでいる以上は断る理由がない」

「……理由がない、ねぇ」


 どこか呆れた様な声色のそれに対し、灰薔薇(オールド・ローゼ)の髪を揺らして立つ男――メルバ・シレーディングはその鋭い目つきをより一層吊り上げるようにして、瑪瑙色の髪の少女を見据える。


「契約は果たす。それが、俺の矜持だ。……この船に乗る以上、それは忘れるな」

「はいはい。船長にそこまで言われれば、一操舵手としては何も言えませんよ」


 溜息を混じらせながら、やれやれと口に出して船室へと戻っていく操舵手、キーツ。

 一方で、その背を見送った後暫く甲板に留まっていた『大いなる双翼』号の船長、メルバ。

 密かに彼が溜息を零したところで、その視線の先には遠ざかる海都――水晶海の女王が陽光に照らされて燦然と輝いていた。


 悪夢じみた攻防の末に、奇跡のような複合魔術式の展開によって辛うじてその姿を留めた海都。

 貴重な交易都市を失わずに済んだことへの紛れもない安堵と、紛れもない畏怖。

 その両方を胸の内に抱えたまま、遠い目を隠し切れない船長。その心情などいざ知らず、船はひたすらに水晶海をひた走る。


 ――――その船首の先には、旧大陸とも称される『黎明(ホライズン)大陸(・ティーン)』が待つ。


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