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少女は月下の海都で、最凶と対峙する*序章編*

 *


 緩やかに吹き抜けてゆく潮風の先に、夕暮れの海都を見下ろして少女はふと思う。

 ――ようやく此処まで、辿り着けたと。


 人々の喧騒と、鐘の音の二つが混じり合うその中心。一帯を俯瞰で見下ろせる高さだ。

 そこに響き渡る鐘楼の音。想像していたより、ゴォン、ゴォンと鈍い音を響かせているそれに耳を澄ませていると、何故か心も落ち着いてくる。うん、不思議な音色だ。


 海都の中央広場、その真ん中に石造りの一際大きな双塔。これが海都のシンボルとして親しまれている『海鳴(シーホルン)鐘楼(・カロン)』だ。二つの塔の天辺には青銅の鐘が釣り下がっている。東側が明け方から正午までを、西側が正午から明け方までをそれぞれに司っているらしい。ここまで言えばわかる通り、二つの鐘の音が同時に鳴り響くのは正午と明け方の二回だけだ。

 そして今、鳴り響いているのは西側の青銅の音色。丁度日の入りを知らせる合図だ。横目でそれを見上げながら、鐘楼の手摺に身を預けた少女。もはや一体と言って過言でない、出立当初より遥かに小さくなった背中の荷物と軽量化を遂げた腕の中の灰色。それらで絶妙なバランスを取りながら、足元で丸くなっている白猫を傍らに苦笑する。

 その手には、ひらひらと潮風に揺れる一枚の旅券(シーゲイル)

 蒼褪(セレ)めた双翼(ディア)から、先刻買い取ったものだ。


「……さてさて。ここまでは甚だ順調と言っていい流れで、来れたけどなぁ」


 如何せん問題は、今夜だ。詰まるところ翌朝の出立まで、この海都を離れられないことにある。

 ただ、それはむしろ当然のこと。端から予期できた部分でもある。何故って? それは船乗りたちが間違っても夜間に出立する旅程を承諾しない点を踏まえれば、言わずもがな。朝焼けと共に舵を取り、海原へ航路を取るのが古からの習わしだそうな。これを破った船に、次の朝は訪れないと謂われている。

 陸を生きる商人たちと、海上に半生を捧げる船乗りたち。予てより、彼らが特に相容れないのはこの点に尽きるね。

 つまり、風習。(いわ)れといったあれこれだ。

 時間も余っているのは事実だし、とりあえず纏めておこうか。個人的にはどちらの言い分も分かるし、いずれにも肩入れをしようとは思わない。急いでいるのは間違いない訳だが、火のない所に煙は立たないとも言うからね。

 結局のところは、儘ならない。事実、どうしようもないのだ。時を早めることは出来ないし、逃れようも無い。無い無い尽くしの夕暮れ時だ。

 そもそも、こうして鐘楼を傍らに海都を見渡している時点で少女の諦観は明らかである。


『うーん、なんだか騒がしいの』

「おはよう、眠り姫。君にとっての騒がしさの基準は、今もって掴み切れないな」


 鐘の音に耳を傾けていた少女の腕の中。

 もぞもぞと寝返りを打ちながら、ぱちりと開いた淡黄色(ミモザ)。表情自体は殆ど変っていないように見えるものの、伝わってくる意思はどこか不機嫌そうな声色を含んでいた。


『……青銅はね、紫炎(ディードロ・)(ベル)ほどではないけれど魔獣除けの性質を含むの。だから少し気分が悪いの』

「……ふむ、それは初耳だな」

『出来るなら、ここから離れて欲しいの。安眠妨害も甚だしいの』

「……そこは申し訳ない。謝るよ。でも人を待っているから少し我慢してもらえないか?」

『うーん、不本意なの。でも、それなら仕方ないの』


 しぱしぱと目を瞬かせた後、やれやれといった風情を醸し出しつつゴロリと左向きになって寝息を再開する。

 あ、眠れるんだ。それでも眠れるんだね君。そんな内心の声などいざ知らず、スヤスヤとまではいかないものの安らぎの淵へ逃避する女王竜の次代。その逞しさたるや、他の追随を許さない。

 しかし、魔獣除けか。それが確かなら、こうして塔に上って遅めの昼寝に興じているクルルは――うん、やはり魔獣ではないのだろうか。

 意図せず疑念が深まる。しかし実際のところ、確かめる術がなかったりもする。

 そんな少女の疑念を余所に。

 鐘の音が鳴り止み、束の間の静寂の後に齎されるのは華やかな開幕の合図だ。

 少女の眼下で、夕焼けに染まる海都。その運河沿いは、常にない活気に満ち溢れている。


「――――海月(イース)(ヴェル)、ね」


 ぽつりと少女が零した声を掻き消すように、高らかに鳴り響いたラッパの音とそれを合図に灯される小舟(トラゲット)漁火(・ヨーク)。漁火に照らされるのは二色の旗だ。

 ただしそれは昼の二色とは異なる、黄金と白銀。それぞれが天空神(セレスタ)海神(シーアス)を表しているらしい。元々は海の豊漁を祈願し双方の神を讃える、二年に一度の催し。近年はそこに海路交易の発展を祈念する意味合いを加えているらしい――――要するに、国を挙げた一大行事だ。


「寄りにもよって、このタイミング……はぁ。困った」


 これは本心からの呟きだ。常でさえ、人の活気に満ち溢れている交易都市。それに加え、一大行事と言って過言でない一年振りの祭事(ベステ)が重なった。

 何処にも救いがない。むしろ最悪の条件下である。

 鐘楼に上る前にも、広場でばら撒かれていた号外。そこに記されていた『魔王討伐、達成』の影響も後押ししての事だろう。少女が足早に広場を通り抜ける合間も、周囲からは次々と歓声が上がっていた。

「知らないということは、本当に幸福なことだ」と。何時であったか、師匠がそう呟いていたことがある。それも今なら分かる気がした。

『聖炎の勇者』としてその名を知られるようになったアルヴィン・フォーゲルクロウ。その彼に纏わる数々の風聞をして、何一つ真実は伝わってはいない。

 つまり歓声を上げる人々は知らないのだ。

 彼が『人々』の幸福のために、魔境へ向かった事実など存在しないことも。まして、帰還後に王家の姫と婚姻を結ぶことなど成し得ない現実も。それが成し得るなら、そもそも自分がこうして海原まで逃亡劇に興じる必要も無かっただろう。

 そもそも王家の要請をして、真摯に受け入れるなどあれに限ってあり得ない。お気楽な思考にも程度がある大陸の王家。

 その実情には、呆れよりも笑いが勝る。


「なるべく被害を抑えるに越したことはないな。うん、別に国自体がどうなろうと知ったことでは無いけれど。ただ、普通に暮らしているだけの人たちに迷惑を掛けようとは思わないからなぁ……」


 全員が幸せになる道など、この世界のどこにも存在しないのだと。かの人は嘗て、そう言った。

 自分の幸福を追求する過程で、誰かが涙を流すことになるのは必然であり当然の理なのだと。

 生きていくということは、何かの死の上で成り立つ事象。そこから目を逸らすことで、ようやく人は日常を謳歌できるイキモノなのだと。

 今思い返しても、初めから終わりまで何一つ救いの無い話ばかりだ。やれやれ、と思う。同時に郷愁にも似た何かが過る。

 ――柄にもなく、緊張している内心。それを隠し切れずにいる。自分も大概本番前は弱いのだ。


 視線の先で、海原へ沈んでゆく陽光。一筋の光。それは翡翠色の双眸と混じり合い、閉じられる。

 まるで、何かを悼むように。ほんの一時、眼下の喧騒から隔てられた鐘楼の上。

 ややあって、再び開かれた双眸。そこには純粋な闇が混じる。それは、弱さと同時に覚悟の色でもあった。


「……クルル、起きてるか?」

「ニャア」


 少女の問い掛けに対し、間を入れずに真上から声が返る。いつしか、真正の巨体へ変化していたクルルは鐘楼の屋根に尾を絡みつかせるようにして少女の横に寄り添う。


「命が、最優先だ。間違っても、あれの間合いに飛び込もうなどしてくれるなよ」

「……」

「クルル、返事」

「…ウニャン」


 渋々ながら返って来た声に、ひとまず溜息を零した。背負っていた革袋をクルルの背中に乗せ、二振りの刃だけを腰に結わえ付ける。その動作には少しの迷いもない。

 ここから先は、正真正銘の時間稼ぎだ。

 夜明けまでは長い。この夜を逃げ切れなければ、自分の負けだ。その時、が訪れることがあれば望んだ『先』を見ることは叶わないだろう。


「……徹底的にこちらの不利だな。それでも、この命がある限り最後の最後まで足掻いてみせるさ」


 クルルに合図を出し、鐘楼の手摺に身軽に飛び上がった少女の視線の先。

 仰いだ夜空に、ひどく見慣れた一陣の光が差し込んでくる。眼下の人々は演出の一つだと判断してか、湧き立つような歓声を上げているが。その実は、むしろ災厄だ。知らないということは、幸福であると同時に恐ろしいことだね。

 心の底から、そう思う。


 その勢いを殺しきれずに、そのまま落下して東側の鐘楼へ突っ込んでいったのはカルだろうな。野太い悲鳴と共に、本来であれば打ち鳴らされる時刻でない刻を告げた青銅の鐘。その音色が海都一帯へ響き渡る。


 その余韻を残しながらも、続いて訪れた静寂と音もなく舞い降りた一人。

 潮風にその淡いブロンドが舞い上がり、閉じていた緋葵(マロウ・レッド)の双眸がゆっくりと開かれる。

 知らないものが見れば、もしかすると天使が舞い降りてきたと称するかもしれない。けれども、音もなく降り立ったそれと鐘楼の端と端で向かい合った少女は知っている。

 彼がここに舞い降りてきた、その意味を。


「……あぁ、やっと見つけたよルーア。僕の最愛の君」


 まるで蜜を絡めた様な、物憂げな囁きが落ちてくる。ちなみにこれが通常運転だ。それに隠し切れない鳥肌を堪え、適度な間合いを維持し続ける苦悩。これを誰とでもいいから分かち合いたいと思って憚らないよ。


「昔も今も、お前のものになった覚えはないけどな」

「相変わらず君は冷たいね。でも、覚えがないなら丁度良いか……」


 この機会に、愛を深めよう。と。

 そんな寒気しか覚えない台詞と共に。ふわり、とブレた輪郭に辛うじて反応こそしたものの、回避しきれなかった結果は悲惨だ。二文字で事足りる。

 一瞬で間合いを詰められ、首筋に籠った熱はうんざりするほどその存在を主張してくるのだから。

 抱き寄せようとした両腕の拘束を、的確に急所を打ち据えることで辛うじて回避しながらも。実際のところ、全ては躱しきれない。絶妙のタイミングで屋根からクルルの援護が入り、それに乗じて再び間合いを広げられたのはこの場面においては最善と言えただろう。

 何とか死守した間合い。これは大きい。一度でもその腕に捕らわれれば、その拘束から逃れるのに払う代償は大きいからね。それこそ腕の一、二本は切り落とすくらいの勢いが必要になるだろう。そんな面倒は御免だ。


 クルルの唸り声に、大気が震える。眼下の人々がそれに騒めき出したにも関わらず、唸り声を向けられている当人は少しも気に掛ける様子をみせない。

 それどころか、先ほどまで首筋に触れていた唇をなぞって意味深に微笑んでみせる。


「……変態度が年々増しているのは、何でだ。寒気が収まらないんだが、クルル」

「……ウニャア」


 同意するようなクルルの声に、辛うじて腕を擦るだけで堪えた自分は偉いと思う。心底思う。こうして距離を取っている合間も、その視線は常にこちらへ向けられているのだ。緋葵の色彩は、闇の中でも見紛うことはないほどに鮮明だ。そこに熱情を宿している現在は、尚更それも際立つ。

 目を合わせた瞬間から気付いてはいた。十日振りに見合った双眸は思わず身震いを覚えるほどに仄暗い色を混じらせている。それは今までの比では無い。歯止めが掛からない精神状態にあるのは恐らく間違いない。


「ルーア、どうして僕から距離を置くの? 僕はこんなにも君を求めているのに」


 だからだよ、の一言で済ませられたらどんなに楽だろうね。

 溜息混じりに、渋々といった風情で少女は返答する。


「答えが分かっていることを聞く癖は、昔から変わらないみたいだな……アルヴィン」

「あぁ、ようやく君の口から僕の名前を聞けた。君との生活を邪魔されない為だけに、薄汚い魔境まで足を運んで、その地の王まで手に掛けたのに。……戻ってみれば肝心の君がいないんだ。ふふ、危うく激情に任せて葡萄畑を焼畑に変えてしまうところだよ?」

「……相変わらず重いな、お前は」

「愛に重さも軽さもないよ、ルーア」


 その微笑みがむしろ怖い。ほら、隣のクルルでさえ若干引いているくらいだ。種族を超えて引かれるほどの愛の重さ。それを向けられている当人としては戦慄すら覚えている。


「魔境に旅立つ前に、伝えていったよね? もちろん覚えていると思うけど。念には念を入れてもう一度伝えておこうか……?」

「いや、遠慮しておく。あんな濃い台詞は二度もいらない」

「なら、代わりに君を抱かせて?」

「唐突だな?! ……お前と話していると、精神が直に削られていく音がする」


 言い終りと同時に咄嗟に間合いを取り直したのは、我ながら冴えていた。いや、実際冗談でも何でもなくぎりぎりのタイミングで間合いを死守したと言っていい。東側の鐘楼へ飛び移り、そこから見交わした双眸の色。そこに揺れていた興の色が、徐々に捕食者のその色に変わってきているのだ。

 事前に想定していたより、あれの飢えが高まっている。

 その事実を目の当たりにして尚も平静を保つには、相応の意思の強さが求められる。忍耐力とも類似するそれだ。これが本当に面倒臭い。知っているつもりだったが、改めて思う。

 自分は厄介な幼馴染を持った。


「……カル、今回こそ駄目かと思ったけどね。やっぱり君は頑丈だ」


 もう一人の幼馴染へそう呟きを落としながら、視線だけはけして向かいから外さない。そんな少女の足元で意識を取り戻したカルディア・ムート。やはり頭が痛むのだろう。片手で頭を抱えたまま、ふらふらと手摺につかまって立ち上がった。


「……ああ、毎回駄目かと思うんだけど。何故だか命を取り留めるんだ。やっぱり日頃の行いが良いからかな?」

「あれに比べたら、大抵の人間は行いが良いと言っても過言でない」

「辛辣! 久しぶりに聞いたら余計にそう思えてきた。……ちなみにルーア、今更ながら俺が目覚めたタイミングってかなり間が悪い感じだよね?」

「それは否定しないでおく」

「むしろ否定して!!」


 カルディアの魂の籠った叫びが鐘楼に木霊するとほぼ同時だったろう。

 東側の鐘楼が轟音と共に爆発した。

 その轟音の理由は、吊り下げられていた青銅の鐘が広場へ落下していく様からも明らかだ。二つある塔のうち、東側の鐘楼が崩落したのだ。

 苛立ちの籠った舌打ちが、砂煙の向こう側から響いてくる。

 眼下の狂騒など気にも掛けない破壊の申し子は、躊躇うことなく海都のシンボルを崩壊せしめたのである。おいおい、である。幸いにも広場に死人こそ出てはいないようだが、舌打ちの代償としては大きすぎる破壊規模だった。


「……な、かなり間が悪かったのは事実だろう?」

「君が言うと洒落にならないよ、ルーア。助けてくれたのは有難いんだけど、むしろ命の恩人としてお礼を言わないといけないところだけど、出来るならそれより先に君から離れたいんだ」

「うん、それが賢明な判断だ。カル」


 爆発に巻き込まれる寸前に、カルディアの襟首を掴んで西側の鐘楼へ飛び移っていた少女と白猫。

 奇しくも再会を果たした幼馴染同士が屋根の上で端的に会話を交わした後に、少女は傍らに寄り添っていたクルルと目を合わせ、小さく頷いた。


「頼んだよ、クルル」

「……ウニャ」


 躊躇いを隠し切れない様子ながらも、クルルは声を返した。少女はそれに対し、感謝の言葉の代わりに微笑み返す。それの襲来が確実なものとなっていた時点で、既に一人と一匹は意思を交わし合っている。

 カルディアの襟首を咥えるようにして、鐘楼から舞い上がったクルルはそのままの勢いで落下していった。


「ギャアアアア……」とカルディアの悲鳴が遠のいていった後、静寂と屋根を伝う足音だけが残された西側の鐘楼。潮風に晒された、その屋根の上。

 強風で吹き浚われた視界――宵闇を背に、背筋すら凍り付くような美しい相貌が浮かび上がった。その人間離れした跳躍力を惜しげもなく発揮して、同じ屋根の上に立った青年。そして、それと向き合う形で瑪瑙色(アガット)の髪を靡かせて立つ少女。

 ここに来て二人だけになった彼らは、先ほどよりも近い距離で対峙した。


「ルーア、君が欲しいんだ。君でなければ、満たされない。――ね、僕を受け入れて?」

「……同じ文言を繰り返すのは、性に合わないんだが」


 半眼にもなる。

 事実、もう既に。僅かも譲歩する気はなかっただろうからね。長い付き合いだ。それくらいは分かるよ。

 最早問いかけの態を為していない文言を耳元で囁き、屋根の上で覆い被さるように手を付いた美貌。

 この体勢に至るまでに生じた攻防については、正直あまりゆとりが無いので省略させてもらいたいな。何はともあれ、これが現実だ。同じ屋根を背に、覆い被さって来る美貌を間近で見上げた少女。さして動揺した素振りもなく左腕に力を込めながら呟く。

 その手には既に緋色の刃が握られ、刃先はその首筋へとこの時点で押し当てられている。しかし、押し当てられている当人は躊躇する素振りもなく、食い込む刃に身を任せるようにして唇を寄せてくるのだ。

 これの変態度に関してのみ言えば、ここまでの流れで十分すぎるほど認識してもらえたことと思う。


「……君が与える痛みなら、僕は躊躇うことなく受け入れる。その代わり、君も僕自身を受け入れて。ね、僕と一つに溶け合おう?」

「……待て。お前の変態度に果てはないのか?」

「うん、無い。それに、向ける対象はルーアだけだから」

「頭が痛い……」


 ぷつり、と肌が切れる感触が直に掌に伝わってくる。ひたひたと頬を伝う血を、流した当人が気にした素振りもなく舌で舐めとる感触は、何と言うか……うん。言葉に言い表しようがない。まさに、うわぁ……って感じだ。思考も上手く回らなくもなるさ。未だかつてないほどの性急さ。ただただ飢えを満たそうとする双眸の色を視界に収めて、この辺りがギリギリのラインだと思い至らざるを得ない。見極めるというよりも、感覚的にそう判断した。


「――――嘗て、ルヴィと呼んでいた頃のお前になら。或いは、頷いていたかも知れないな」


 頭上に閃いた灰白色の風を視界に映し、初めてその耳へ顔を寄せた少女はその瞬間だけ、本心からそう吐露した。

 本来は、言わずに済ませられたはずの言葉。

 結局のところは、甘さだ。それに尽きる。大概自分も弱い。元より、それに気付きたくないこともあって逃避を選ぶような人間だった。我ながら酷いとは思うが、忘れていた。否、正確には忘れていられた。

 それでも、思いがけず動きを留める機会を得られたのだから、ある意味で次善だったのかもしれない。


 見開かれた双眸――その(マロウ)(レッド)から緋色の部分がほんの少しだけ薄れた刹那。

 それを認められただけでも、きっと、意味はあったのだろう。


 時から切り離されたような、束の間の静寂の後。

 加減など微塵もない、二人の頭上から吹き降りてきたのは強烈な羽風だった。風が吹き荒れると同時に一帯へ響き渡るのは、耳をつんざく様な鳴声だ。『魔獣』特有の能の一つに、平衡感覚を狂わせる独自の『音波(ソノア)』がある。それに等しい音を不意打ちで浴びせられれば、さすがにその瞬間くらいは拘束も緩む。

 それが例え、どれほど強大な力を持つ勇者であっても例外には当たらない。

 この推察は、正しかった。予め耳を覆っていた少女は、猫の如き身のこなしで、拘束を抜け出ることに成功する。

 それでも抜け出す直前に、掠めた手。その執念にはさすがに苦笑も混じる。執着など欠片も持っていないような表情をしていても、その実は割と……否、対象次第でかなり粘着質であることを予てより知っているからだ。

 ひらりと手を振り、踏み出した一歩に欠片の躊躇もなかった。鐘楼の屋根からの、束の間の浮遊感。

 広場へ向けて落下した少女を、旋回していた飛竜たちの一頭が拾い上げて上空へ舞い上がっていく。

 広場の喧騒は瞬く間に小さくなり、飛竜の羽音だけが耳朶を打つ。

 ――――何とか、序盤戦は切り抜けられた。

 灰白色の巨大な双翼に頬を寄せ、腕の中に灰色の塊を抱え直して。

 ほんの少し、溜息を零してみる。


「ルーアちゃん、貞操は無事ね?!」

「やぁ。遅れて御免、ルーア。夕明かりが残っている空を旋回したら騒ぎは免れないだろうと思って、飛行の速度を調整しながら来たんだけどね。結果的にこれくらいの時間になってしまったよ」


 暫く上空を旋回していると、見知った二人を乗せた飛竜が横に付いてきた。宵闇の中でも『燈火』の魔法式によってぼんやりとした明かりに周囲が照らされている結果、顔を見交わすことが出来る。その手腕をして、流石は飛竜御者(レバンテ・エア)

 ただそれにしても、である。

 羽音と鳴声の威力をして、それなりの数を伴っていることは予期していたものの……まさか全頭(女王竜は除く)引き連れてくるとは。後できっちり事情を聞いておく必要が出てきたな。やれやれ、続く頭痛で頭が割れそうだよ。疑問符で溺れそう。さてさて最終的な死因は何になる?


 ……そんな冗談はさておきだ。

 マスターの的確な問い掛けに対しては、こちらとしても苦笑で返す他ない。うん、実際かなりギリギリのタイミングだったからね。残念ながら、その辺りは否定できない。表情を取り繕うゆとりもない。

 ちなみに飴色の髪が寝癖で酷いことになっている師匠には、別の意味で苦笑を返した。


「ありがとう、マスター。師匠。二人のお蔭で、最終手段に手を出さずに済んで助かった」

「ルーアちゃんの言う最終手段って、その言葉以上に不穏な感覚を覚えるわ。何かこう、背筋に来るものがあるのよ。何故かしら……」

「その読みはあながち間違ってはいないと思うな、うん」


 マスターが何やらぼそぼそと呟く隣で、何やら肯定的な頷きを返す師匠。会話の内容が正確に伝わってこないだけに、首を傾げるしかない少女である。

 そんな最中だ。

 ふいに背筋を駆け抜けた紛れもない悪寒と、同時に上空に立ち込める圧倒的な魔圧。

 平和な一時も、そう長くは続かないというけれどね。要するにただそれだけの話だ。

 何が起きたかなど考えるまでもなく、咄嗟に滑空に転じた飛竜の背。そこで耳元を掠めた声。視界の端に過る、緋葵と柔らかなブロンド。

 最早ここまできたら、それなりにホラーめいてくる。


「駄目。もう、逃がさないから」


 広げられた腕に、囲われるその寸前――――まるで交差するようにして、灰白色の翼が飛び込んでくる。

 二頭の飛竜。その翼の間から、少女を背に庇うようにして舞い降りた人物の白藍の髪が視界を覆う。

 牽制するように突き降ろした鎚矛(メイス)が淡いブロンドを掠め、切れ端が空に舞った。


 ヒルト・ガーファンクル。

白藍(フィアズール)悪鬼(・ヴィーダ)』の二つ名を持つ彼は、大陸最強と対峙して尚も、その飄々とした姿勢を崩さない。


「無理強いとか、今時流行らないよ?」


 白藍の髪を靡かせ、表面上はニコニコとした表情も崩していない。それでも言葉の端から滲み出る冷たさは、隠しようがない。そもそも当人が隠すつもりなど、端から無いのだろう。


「……このタイミングは、無謀だと思わなかったか?」

「観客側に回るのも、いい加減飽きてきたんだよねぇ。多少無謀でも、骨を拾ってくれる相棒がいるから」


 ――だから無謀を承知で飛び込んでみたんだよ、と。そんな緊張感の欠片もない発言を受けて、呆れよりも疲労感を覚えた自分はきっと悪くない。


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