少女は海を目指して歩き始めた*挿話 追走以前*
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「レベッカ嬢の言うことが正しければ、北は物騒なことになっている……か。うん、当初の計画にはさほど影響があるとは思えないな。でも、気には掛けておこう」
西方の葡萄畑こと、リー・デルッカ村を出立して暫くは丘陵が続く。時折行きかう荷車を除けば、周囲に人の気配はほぼ無い。副都からは馬車を使っても四日。まして徒歩ならば、それ以上掛かるような辺鄙な地方だ。おかしなことは何もない。人目に付かずに移動したいものにとっては、むしろ願ってもない好条件とも言える。
鼻歌を混じらせつつ、しかし少女にはあるまじき軽快さと強歩を発揮しながら進んでゆく。出だしは思ったより悪くない。そんな内心が表層にも表れたものか。心なしか表情も明るく、一見しただけではその背後に迫る魔王を超えた恐怖の存在など感じ取れない。確実に迫っているであろう足音も何のその。村を出る前よりか、切迫感はいくらか薄れている様子だ。
「あと少し行けば、巻貝穴も見えるだろうな。そこで昼食をとっておかないとね。うん。折角なら美味しいものが食べたい」
巻貝穴とは、簡単に言えば巨大貝によって開けられた穴。言葉通りだ。ただの穴ではあるが、同時に海都から西一帯を繋ぐ街道として欠かせないものでもある。創った貝からすれば、移動の際に目の前にあった岩山、丘、その他邪魔になる諸々を掘り進めていった軌跡でしかない。しかしそれを、商人やら役人やらが目を付けずに放っておく道理もなく。移動手段としても、数少ない交易路としても有効利用されるに至ったと。つまりそういう経緯だ。一方で、辺鄙な地方にあっても観光名所として副都や果ては王都から来た冒険者たちで賑わう巻貝穴。人も多く、物流もこの辺りでは抜きん出て活発に行われている。情報を仕入れるにしても、まずはここを押さえておくのが堅実だ。
「海を渡って、当面は物色するか……。少なくともこちらの大陸にあれ以上の猛者を見つけるのは絶望的だろうしなぁ……。うん、ひとまずその方向で進もう」
パーティメンバーの中にも、大陸中に名を馳せた人物がいない訳ではない。しかし、あれに勝る者が存在していない時点で数に含めるのは愚考だろう。足止めになるかも疑わしい。
国の威信をかけ、王都から地方、辺境に至るまで選定が行われた結果。つまりそれが示すのは、事実上の最強戦力。その中枢にあれが立った時点で色々と終っている。
望みは魔族に託そうと。個人的な願いを傾けてきた今までと、それに甘んじていた末に招いた今回の事態。そして決断することとなった逃走劇。頭の片隅には常にあったものの、踏み切るタイミングはずっと先送りにしてきた。
無意識に近い部分で、あれに理由を与えてはいけないと感じていたからかもしれない。これまでも、貞操の危機に直面したことは数知れない。それでも躱してこれたのは、単純に運が良かったと。その一言だけでは説明できない部分が多すぎる。満載だ。何せあれは、その存在そのものが魔道兵器みたいなものなのだから。今まではやり取りだけでも満足していた面があったのだろう。どこかしら容認している節もあった。――今はまだ、見逃しても構わない。思い返せば、そんな色が目の奥に常にあった気もする。
世界は広い。あれに勝るとも劣らぬ強者がきっと存在する筈だと。いささか楽観的であったのは否めない。もちろん反省もしている。
とは言え、今回の結果を受けて色々なところを含めて考え直した。やはり他力本願では解決できない。少なくとも自分はこのままだと捕食の一途だ。
あれに対して恋情の類を抱けない自分に、逃走以外の選択は名実共に存在しない。今までは理由を与えない為にも表だって動くことは無かったが、最早そんな事も言ってはいられない。あれが早晩、帰郷することが分かった以上は残された猶予は無いということだからね。
自由でありたい。囚われるのは御免だ。立ち向かう選択肢? 全くもって現実的でないね。あまり認めたくはない事実ではあるが、あれはこの大陸においては名実ともに最強戦力。あれと真正面からやり合うほど、無謀なことは無い。
それこそ、命をかけることになる。恋愛沙汰で命を無駄にするのは、それこそ御免だ。
現時点では大陸の外へ逃亡を図る。これが最善とは言えなくとも次善の策だろう。
「……っと、見えてきたか。しかし遠目にも巨大な岩山だ……話に聞いていたのと実際に見るのとではやはり違うな。そういえば、考え事をしながら歩くと感覚的には早く目的地へ到着できると師匠が言っていたことがあったっけ……事実だな。うん」
今度会うことが叶えば、実感したことを報告しよう。師匠は割と、共感を得ることに関心を抱くタイプだ。極度の人見知りであるにも関わらず、なかなか難解な性格をしている。
しかし当面の問題は、師匠に会う以前に捕捉されないよう、逃亡し続けなければならないという現実だろうね。
袋を背負い直し、残り僅かな丘陵地帯を進む。その視界には巨大な岩山と瀑布。この大陸でも有数の巨大な滝である。これもまた巨大貝が掘り進めた後に生じた副産物であるというのだから、その大きさは想像をはるかに超える。叶うなら一度は、実物を目にしてみたい。とは言え、風聞で聞くところ巨大貝はここ近年で異常に数を減らしたらしい。以前見たことのある稀少図鑑にも記載されていた。あの師匠でさえ、過去に一度見たきりだというのだから、余程に運が揃わなければお目に掛かれない代物だろう。
「巻貝穴のおススメは何だったか……。どうせなら、妥協はしたくないなぁ。でもあまり長居も出来ない……うーん。ジレンマだ」
ああでもない、こうでもないと脳裏を駆け巡る各地の名物情報。その出典は師匠もしくは時折村へ物資を配達してくれていた商人のおじさんの二択に限られるから、それなりに偏りはある。
これを機に、自分の五感全てを傾けて各種情報の充実に取り組んでいかなければなるまい。そう気持ちを新たにする。心なしか足取りも早まった。
ようやく丘陵を抜け、瀑布の影響か若干ぬかるむ赤土を踏みしめて、賑やかな巻貝穴へと到着した。見上げる程に大きな岩間の門は、地面と似た色をしている。巻貝穴は定められた都市、町、村のいずれにも相当しない為、余程のことがない限り往来は自由だ。湿り気のある風が絶えず吹きわたる中を、人混みに紛れるようにして進む。背中の荷物が往来の邪魔にならないよう、機敏に歩き回る様はさながら働きアリの如く見えるのだろう。行き交う商人の数人が物珍しそうに視線を寄越す。やれやれ、好奇心が旺盛でいけない。職業柄仕方が無いことだろうと思いながらも、暫く大通りを歩き回った少女は切りのいいところで路地裏へと移動した。
あまり人目に付くのは好ましくない。後々のことを考えれば、余計にだ。
鼻を頼りに、軒を連ねる飲食店を巡る。意外なことに大通りよりかは、こういう路地に面した店に限って美味しい食事にありつけることを経験で知っている。広範囲を旅した経験こそないが、少なくない旅の経験はこうした場面でモノを言うのだ。
「ふんふん、あの隅の店は魔獣肉専門……ちと敷居が高いな。どうせならもう少し安価に済ませたい。あ、……うーん。ここは酒気が濃いな。残念。メニュー自体は豊富で当たりは当たりなんだろうけどなぁ……」
冷やかすまではいかなくとも、店先を窺っては過ぎてを何度か繰り返す。料理の質だけではなく、客層のことも踏まえて入店するとなれば必然的に選べる店も限られる。年若い娘(少なくとも外見上は)が気軽に入店できるような飲食店というのは案外限られる。たとえ観光で栄える街であっても、同様だ。とにかく逃亡の半ばで騒ぎに巻き込まれるわけにはいかない。ましてや、騒ぎを起こす側になるのは問題外だ。足取りを掴まれないためにも、残す情報は少なければ少ないほど良い。こんなことは今更言うまでもないね。
いつしか閑散とし始めた路地の半ば。これは地味に骨の折れる作業だと溜息を吐きがてら、一旦立ち止まって荷物を抱えなおした。
空腹は辛い。生理的な欲求からは誰もが逃れられない。ましてや早朝に出立し、休むことなく歩き続けた体には少なくない疲労が蓄積している。
――――ふぅ。本当は海都へ出てから買い出しをしようと思っていたんだけどなぁ。
苦笑混じりで、少女は猫のように伸びをする。
仕方ない。順序を変えよう。
飲食店探しを一旦諦め、身を翻した少女の行く先には雑貨品のマーケット街。武具、魔法具、旅品、皮鎧から果ては日用の衣類まで、まるで犇き合うようにして軒を連ねている。とにかくその品揃えには定評がある。ただし、西一帯では特に物価が高いことでも知られている。つまり良いものは揃うが、その為には相応の代価を求められる場所。それが巻貝穴のマーケット街だ。
「ふぅ……本当は今後のことも考えたら余分な出費も避けたいところなんだけどな。派手な値段交渉も出来ないし……。比較的、良心的な売り手を探して歩き回るしかないか……」
加えて、口の堅い商人。これは外せない。
やれやれ女の一人旅は想像以上に面倒だ。今更ながらに覚えた感傷はひとまず横におき、大通りの比ではない混雑をみせるマーケット街へと足を踏み入れた。暫くは流れに乗って、一通りの店構えを確認する。大体の位置を把握した後は、幾つか目についた店を回って様子見をすることにした。一軒目は、他の客とのやり取りを聞いた時点でこりゃ駄目だと見切りをつけた。如何にも、金銭主義。ああいうのは虫が好かない。やれやれこれは、飲食店の二の舞かと幸先に不安を覚えて足取りも自然と重くなる。二軒目は店主云々では無く、人混みの多さに断念。疲労は確実に蓄積してゆくばかりだった。
しかし、結果からいえばまだ運は残っていたらしい。三軒目。マーケット街の四つ角の隅で、人の良さそうな店主が構える衣料店に巡り合えた。
「そこの可愛らしいお嬢さん、お使いかい? 良かったらこの髪飾りを序に見ていかないか? きっとその白い肌によく映えるよ」
「ありがとう、お兄さん。その髪飾りも素敵だけど、ここの品ぞろえは悪くないね」
「お嬢さん、なかなか古風な言い回しをするね。気に入ったよ。品物によってはサービスしちゃうよ。何をお探しだい?」
その言葉を待ってましたよ、お兄さん。
あとは不自然にならない程度の説明を加えれば、不審がられずに目的の物を購入できるというもの。よしよし、ここからが本領発揮だ。
「兄が瀑布に興奮しすぎて、衣服を濡らしてしまったの。男物の古着があれば、手ごろな価格で売ってもらえないかな?」
「……ははぁ、成程ね。日に何人かはいるよ、うん。お兄さんもその類かな? ちなみにお兄さんの身長は?」
「私よりも少し高いくらいよ。父方が小人族混じりだから、昔から背の低さを気にしているの」
「了解。ちょっと待ってて」
笑顔を一つ残して、店の奥に姿を消した青年の背を見送りつつ。
よくもまぁ、次から次へとそれらしい言葉が思い浮かぶものだと思った。表情にこそ出さないが、言っている当人が呆れすら覚える嘘八百。もとより、兄と呼べる存在はいない。そもそも両親すら正確なところを知らない自分に、兄妹云々という話は冗談以前に滑稽ですらある。息を吸うように思い浮かんでくる言葉の一つ一つがそら寒い。
そうこう考えている間に、両手に幾つかの衣類を掛けて青年が戻って来る。
「……これなんかどうだい? 東の平原で作られた高地夜兎の外套と、速乾性抜群の水蜘蛛の糸で織ったシャツ。今手元に置いてあるズボンはリネン素材の軽装用、行先が高地なら高地夜兎ほどでは無いけど保温性のある青鹿織も用意できるよ」
「ちなみに全て購入した場合、幾らになる?」
「お気に召して頂けたようで、何より。――ズボンも二種類でいいの? そうすると……全部で2,500ルクだね」
「2,000ルクでは駄目かな?」
「……素敵なお嬢さんに免じて、ここは思い切って1,890ルクでいいよ」
大好きです、お兄さん。もし再びこの地を自由の身で訪れる幸運があれば、もう一度財布の紐を緩めてもいいくらい。ちなみにこれは本心だ。偽りはない。
「親切なお兄さんに巡り合えた幸運を、巻貝に感謝しないと。今日の夕方には兄と一緒に海都へ出立する予定なの」
「ふむ……お兄さんの実力がどれくらいかは知らないけれど、日没後の移動は危ないから避けた方が良いだろうね。この近くで宿を探すか、隣町に続く巻貝行路の半ばに『花鶏亭』という宿屋があるから、そこで宿泊することをお勧めしておくよ。夫婦で営んでいる小さな宿屋ではあるけれど、価格も含めて良心的だ。参考にしてもらえたら嬉しい」
そう言って、購入した衣類を包んで渡してくれた雑貨屋のお兄さん。まさに好青年だ。清潔感のある装いも、商人としては好印象。ざっと見た限りでは何とも言えなかったが、実際に話してみればよく分かる。この人は信用してもいい部類だ。
「ありがとう、お兄さん。また立ち寄る幸運に恵まれたら、次は髪飾りも購入希望に加えておくから」
「その言葉、大事に覚えておきますよ。素敵なお嬢さん、貴女とお兄さんに良い旅路がありますように」
手を振って、雑踏へ再び踏み出す。うん、なかなかに良い買い物をした。空腹も多少は紛れた点を加えれば、想定外の出費であっても元は十分に取れたと思う。
とは言え、余分な荷物を早いところ纏めなおさなければならない。人の流れに暫く流された後は、先立って目を付けておいた一角へ駆け込む。
一か八かの賭けにはなるものの、その口許には笑みすらある。
旅先で、服装を変える際。通常は宿屋以外の選択肢は無いものだ。性が女性ならば、余計に。皆無といっても過言ではない。
――――ただし、例外的な『場所』がある。この土地柄だからこそ、使える手だ。
「昼食のためには、多少の遠回りもやむを得ないね」
巻貝穴によって、生じた副産物は何も滝だけに限った話では無い。少し考えてみれば分かるだろう。数多くの冒険者が、遠方からも足を運ぶ理由がただ穴を眺める、それだけである筈がない。その答えは、今ちょうど少女の目の前にある。
もくもくと上がる湯気。吹き付けてくる風に微かに混じるのは、硫黄特有の臭い。
――――そう、温泉である。巻貝が掘り当てた、もう一つの大きな副産物だ。
「さて、空腹よりも先に疲れを癒すところから始めようか……」
公衆浴場も充実している巻貝穴。その中でも一際こじんまりとした趣の一角を選んだのは『上がった』後の面倒を最少に留めたいからだ。いまいちピンとこない? では端的に纏めておこう。つまりはこういう流れになるね。――まず温泉に入る。温泉で疲れを癒して、一目が無い瞬間を見計らって男物の衣類に着替える。着替え終わったら、タイミングを見て脱出。
もちろん料金は事前支払で。着替えた後の姿を大勢に目撃される愚行を進んで行う必要もないからね。
その一連の流れを踏まえた上での選択基準。それはなるべく人気が無さそうなところ。
男装をする上で、本当なら髪もばっさり切った方が良いのだろうけれど。仕方もない。こればかりは『とある人』との約束もあって手を出せなかった。その辺りの事情はさておき、暫くの間は、団子状に丸めて誤魔化すほかないだろう。
公衆浴場特有の、入り口の青い布を捲って中へ入る。
夕刻になれば、昼時のような閑散から一転してそれなりの人目を気にしなければならなくなる。その点、時間的にはまぁまぁ良い時間を選べたようだ。
さて、癒しの一時を堪能することにしますかね。
長い髪を揺らし、楽しげな表情も隠さずに少女は湯気の向こうへ歩き始めた。
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「――――さて。何か他に言い残すことはある?」
「むしろあり過ぎて、選べないといいますか……」
「ふぅん……じゃあ、とりあえず逝っとく?」
「の、ノリが軽すぎる! あ、ちょ、待った。それ真面目に死ぬよ。死んじゃうって。な、ここは冷静に。な、話せばわかる。勇者が血まみれで帰還とか、ほら。外聞とかあれこれ……ぎゃあああ!!」
「やれやれ。君は本当に厄介なことをしてくれた……」
呟きながらも、その手は淡々と粛清を行う。その表情に躊躇いの色は全く見えない。周囲の驚愕の面持ちも、まるで気に掛ける素振りもなく手に持った瓶からどばどばと『何か』を注ぎ続けている。無論、それをもろに被っているのは足元の幼馴染兼魔術師である。悲鳴を上げる幼馴染を見下ろす表情には、欠片の情もなかった。水溜まりに浮かぶアメンボを見ているのとほとんど変わらない。彼からすればそれは当然の処置だったから不自然なことは何もなかった。
一見すると柔らかにも見える相貌。しかし、その実は冷酷無比だ。
共に魔王討伐に加わって旅をしてきた周囲は、既にそれを十分すぎるほどに知っていた。いや、正確には思い知らされたというべきか。見た目に騙され、安易に関わればその末路は悲惨の二文字。ただそれだけだ。確かにその面差しは、男女を問わず息を飲むほどに端整だろう。その年齢を鑑みれば、少年と称されてもおかしくは無い中性的な美しさを兼ね備えている。上背は見上げるほどは無いが、すらりと伸びた背筋と引き締まった肢体。淡いブロンドと緋葵の双眸が、ありとあらゆる美の権化とも称されそうな絶妙のバランスを保って一人の青年を形作っている。しかし、今やその端正な横顔は血塗れ。真白を基調とした鎧は夥しい量の血に染まっていた。
勇者として旅立った後、僅か七日の行程で魔境を蹂躙し尽したばかりか。最大の目的であった魔王討伐を果たした折でさえ「とっとと帰るよ」の一言を残し、共に旅をしてきたパーティの面々を一瞥もせずに魔境の牙城を背にした。
初日を除いては、先陣を切って進む勇者の後方を視界に入らない程度に距離を置いて他メンバーがついて行くという、全くもってパーティとは名ばかりの行程だ。どうしてそうなったかと言えば、その起因は魔境に入って二日目にあった出来事。そこで明かされた勇者の本来の姿に、元よりそれを事前に知っていた魔術師を除く全員が恐怖を抱いた結果だった。端的に纏めればそういうことになるだろう。ちなみにこの出来事で、パーティ内の女性陣が勇者を見詰める眼差しは熱の籠ったものから、急転直下。王国の第三王女であると同時に神官長補佐であったリーディア嬢。その付き人兼王国でも数少ない女性騎士の両名はもはや視界に入れることすら恐ろしいらしく、万一視線でも合おうものなら顔色を失くして木陰に飛び込んで行く始末。彼女たちは二日目に起きた出来事の起因となっただけに、いつ殺されるのか日々怯え続けていた。そのとばっちりを食う形となった治癒士の少女と、魔獣使いのマダム。彼女たちは何時しか絆を深め、マダムが連れてきた二頭の森狼の背後に隠れ続ける日々を過ごしている。また、影響を被ったのは女性陣だけに限らない。王国から遣わされた騎士を始め、魔術と暗殺術を兼ね備えた隠者、冒険者たちの中では最強の名を欲しいままにしていた天才剣士ですら、当初の覇気はどこにも見当たらない。行程の殆どを息を殺し、沈黙を共にして進み続けてきた彼ら。そこには常に潜在的な恐怖が渦巻き続けている。芽生える絆? いやいや、そんなものより大切なのは命。ただそれだけだ。彼らの結束は、ただその一点にのみあった。
そんな恐怖と畏怖とが混在する視界の先。
その手元からは、今もだばだばと滴り落ちていく腐臭。その液体の色は、なんとも言い表し難い鈍色だった。瓶の中身に見当がついたものは、殆どがその身を震わせるばかりだ。誰一人動こうとはしない。声を上げれば次の標的は決まったようなもの。誰もその愚を進んで犯したくはないのだろう。
魔術師が本来の能を発揮できる状況にあれば、液体を掛けられ続けるなどという恐ろしい事態には至っていない。しかしその両手両足は既に、勇者が有する膨大な魔力によって地面へ縫い止められている。その上での、冷酷な処断。幼馴染の間柄ですら、些かの酌量も含まれないのだ。その光景をまざまざと見せつけられた彼らは、声もなく立ち竦むばかりだった。
――――魔王こそ、討たれた。それは紛れもない事実である。他でもない彼らが目の当たりにしているのだから。しかし、大陸には恐怖の権化たる青年が今も健在。彼らが望み、大いなる決意を持って旅をしてきた果てに見つけたものは希望とはかけ離れた、魔王などよりか遥かに恐ろしい現実だ。
魔王討伐を成し遂げれば、大陸に存在する憂いは粛清されるものと信じて疑わなかった。しかし、現実はどうだ。魔王を遥かに超える脅威、恐るべき怪物を呼び起こした王国の勇者招致。もはや、誰の手にも余る。後悔しても、遅すぎる。
恐らく大陸中を探しても、これに対抗し得る猛者は存在しない。その絶望に打ちひしがれながらも、しかしそれを周囲に伝えることも儘ならない。口にした瞬間に、自分の命は風前の灯となることを本能的な部分で彼らは知っている。
諦観と怯えを同居させた視線の先で、鈍色の水溜まりは留まる事を知らずに広がり続けた。
「ちょ、まじで。死ぬ……っ、ぷ。溺れるわ!! 何なの、ねえ。後ろのストックが怖すぎで突っ込むのもやだけど。ねえ、いつそんなの詰める暇あった?!」
「……相変わらず無駄な生命力。教えてやってもいいけど、あと五本注いで生きてたらね」
「おま、発想が鬼畜すぎ……っ、ぶくぶくぶく……」
「やれやれ。本当はたかが粛清にこんなに時間をかけること自体、無駄なんだけど。……でも万一を考えれば、やむを得ないか。ルーアの居所に心当たりがあるなら何としても吐いてもらうからね、蛆虫。楽には死なせないよ」
溜息混じりに呟いた言葉に、ほんの僅かに色が滲んだ。常に無表情かつ無関心といって過言でない彼が、唯一表情を覗かせる存在。微笑みすら浮かべて、紡ぐ名。人間らしい欲求を抱ける、ただ一人の少女。――――カルーア・リルコット。
彼女の元へ帰れずして、帰還とは呼べない。
「いや、ちょ……仮にも十年以上幼馴染やってきたやつに対して蛆虫て……あ、御免なさい。冗談だよ。殺気立たないで。マジもんの殺気で微笑むって相当……ぎゃあああ!!」
「あと三本。ね、仮にも僕の幼馴染を自称するなら、これくらいで死なないでね……?」
「ぎゃああああ、悪魔、悪魔がここにいます!! 助けて、誰でもいいからあ!!」
「あと二本」
時は夕暮れを少し過ぎた頃。魔術師の悲鳴に野生の本能も危機を察知してか、周囲には魔獣の魔の字もない。早文の存在を早々に気付かれ、粛清を受ける魔術師が鈍色の水溜まりから生還できるかどうかは――――神のみぞ知る。