少女は猫の背に乗り、夜明けを目指す*海都到達編*
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頬を掠めていく風と、ほのかに火の気を纏う空気。
その中を、駆け抜けるのは闇夜と対照的な白い猫だ。しなやかに闇の中を疾走する白猫の上で、少女は赤々と染まる夜空を仰いでいた。
その表情には、僅かだが陰りがみえる。
「……ふむ。カルの『聖樹の加護』があれの魔力によって飽和状態になったか。前にも注意するように伝えておいたんだがなぁ……余程に焦っていたか、それとも」
まさかにあの深慮深いカルが、こと魔法式に纏わることで見誤る事態など、なかなか考えにくい。けれども、少女の中の第六感とも呼べそうなそれは、大凡の経緯を察していた。
以前にも、たった一度だけカルがあの魔法式を発動するところを見ている。
いや、正確なところを言えば『当事者』として目の当たりにしたと言っていい状況だったな。思えばあの日を機に、カルと自分、そしてあれとの関わりが一層強くなったといっても間違いではなかっただろう。カルにとっては不運としか言えない巡り合わせだ。
こうして今、猫の背に揺られながら思い返せば。
あの緻密な、加護の葉のざわめきの中で。一度は断ち切れるかと思った因果も、結局のところは根強くこの身に巣くったまま、今に至っている。
人生と言うものは、往々にして儘ならないものだ。
「クルル、そういえば街で腹ごしらえして来たのかい?」
「……フニャア」
「……うーん。やっぱりそんな暇は無かったか。生憎とクルルの口に合いそうなものは手元にないなぁ」
何やら物悲しい声を返し、クルルが耳をくたりと下げる。これには申し訳ない気持ちにもなった。元より、自分の逃亡劇に付き合わせてしまっている負い目がある。
さて、どうしたものかな。
少女がそれでもと肩の荷物をゴソゴソと漁り始めた最中、ふいに視界の端に飛び込んで来た影が一つ。
闇夜にも、その見事な跳躍ははっきりと捉えられた。潮騒の畔を出て、東へと駆け抜ける間にいつしか『生息地』に入り込んでいたらしい。初めは一つしか捉えられなかった姿も次第にその数を増やしていく。ざっと見渡しただけでも、生い茂る草の間から六つほどの気配が窺えた。群れに遭遇したらしい。
こいつはしめた。細められた猫目に、構わないと首肯した直後だ。
狙いを定め、その背を束の間弓なりに反らせて一足飛びに距離を詰めたクルル。一つの無駄も無い動作に加え、正確に前足でもって捕らえた。そのままガブリと食らい付く。
「キュイ」と甲高く鳴いたのを最後に、くたりと長い耳が垂れ下がった。闇夜にも見事な毛並みが窺える。
――――そう。高地夜兎である。
「相変わらず見事な腕だねぇ……さすがクルルだ」
「ウニャン」
得意げに振り返るその口許には、いつの間にやら二兎が咥えられている。目にも留まらぬ早業でもって、どのようにしたかもう一兎を捕らえていたものらしい。
もしゃもしゃと頬張る間にも、器用にその牙でもって皮を剥ぎ、得たばかりの馳走を平らげていく。
白猫の口周りはあっという間に真紅に染まった。若干猟奇的である。しかし当の少女はこの食事風景にも顔色一つ変えずに見守っている。単純に慣れているのだ。
「お腹は膨れたかい?」
「ニャア」
ぺろりと下で口周りの血をなめとった後は、片手で器用に顔を洗っている。因みにその間も、速度こそ落ちるものの歩みを止めてはいない。活力の戻った足取りに、うんうんと少女が背の上で首肯する。
「ニャ」
「……うん? くれるのかい。有難う、クルル。それにしても見事に剥いだものだね……」
期せずして、剥ぎたての高地夜兎の毛皮が手に入った。若干残る生臭さを省けば、この先の旅費にも成り得るだろう。有難く頂き、背負っている袋にしまい込んだ。
そうこうしている間にも、白猫は少女を背に乗せて風のように駆けてゆく。出立した直後よりもその速度は格段に上がり、視界を通り過ぎていく宵の草原にはいつしか光虫が飛び交っている。光の筋のように入り乱れては、点滅を繰り返す様は幻想的ですらあった。時折手を伸ばし、光を散らして進む。
「……光の草原と呼ばれるのも、納得の光景だなぁ」
『――――うーん。何だか体中がこそばゆいの』
もぞもぞと香ばしい体を揺すりながら、ここでようやくパチリと目を開いた灰色である。
抱えられた体勢のまま、幾度か寝返りを打って左向きに落ち着いたらしい。大きな双眸でこちらを見上げて、端的に問うてきた。
『ここは?』
「海都へ向かう途中の草原だ。朝までには海都へ辿り着かないとならない」
『そう。……今の季節は海都も騒がしいと思う。わざわざ騒がしいところへ向かうヒトの気持ちが知れないの』
「……君からすれば、安眠第一だろうしなぁ」
『そう。今のうちに寝るの』
そう伝え終わると同時に、再びウトウトと眠たげに瞬く。そのまま様子を見ていると、やはりというか寝息が聞こえてくる。寝着いたらしい。
ふと思い立ち、鼻を寄せてみる。ようやく香ばしい匂いも消えてきた。
灰色の塊を抱え直し、視線を上げたところで前方に見えてきたのは――『夜光の森』だ。
その名の由来は、夕闇の訪れた後に森を訪れることで分かるだろう。西域とは異なり、灰色がかった緑の木々が鬱蒼と茂る森の中。そこに自生する『夜光茸』は知る者ぞ知る珍味として、王都では高値で取引されているらしい。陽光の下では、地面に積もった朽ち葉に同化してしまうことから採取が困難な茸として有名だ。また、夜間に採取しなかった夜光茸はその風味が著しく損なわれるとも聞く。ならば夜間に取りに来ればいいだろうと誰しも思う。しかし、そんなに簡単な話では無いそうな。
「……なるほどね。中級以下の冒険者の立ち入りを禁じられているだけはあるな」
「ニャア」
一旦、森の入り口で足を止めたクルル。その目は欠片も臆していない。優美な尻尾をゆったりと振りながら、振り返って鳴く。察するに「準備は良いか」と確認したものらしい。
「うん、ゆっくり散策するゆとりこそ無いけれど……進むこと自体に問題はないよ」
「ニャ」
じゃあ行くぜ、と言わんばかりに一足飛びに森へと踏み入れた。クルルが森に入ると同時に、ざわりと森の灰色がかった緑が揺れる。風によるところもあっただろうが、樹上からは既に複数の獣が爛々と目を光らせてこちらの様子を窺っていた。――勿論この獣、ただの獣では無い。大陸にいる多くの獣たちの中でも、変異種として知られる『魔獣』である。
彼らは賢い。相手の内包する魔力と相性を見極め、自身が不利だと判断すれば闇雲に襲い掛かってきたりはしない。ただし、万一にも弱みを見せればその限りではないが。少なくとも白猫と少女に限って、そんなへまをする道理もない。
そして、話に聞いてはいたものの息を呑む光景が広がっている。微かな月明かりが差し込む森の至る所で、薄緑の色彩を含んで発光するのは月夜茸の群生である。
その中を、まるで散歩をするような足取りで進むクルル。それでも牽制の為か、時々周囲へ向けて唸りを挟む。その長い尾を俊敏にくねらせ、木の葉を散らすように払う。まさに、手慣れた動作だった。
他ならぬクルル自身が『魔獣』の括りに入るか入らないか微妙なところである以上、この対応についても色々と腑に落ちるところが多い。魔獣の中には人語を話すモノも存在すると聞くが、残念ながらクルルは意思を解しても、言葉を直接やり取りするまでには至らない。実際のところは確認の仕様がないのだ。
「……師匠も、多分としか言わなかったしなぁ」
「ウニャ」
「いや、何でもない。海都へ着いたら、新鮮な海産物をご馳走するよ」
「ウニャア」
夜間、さらに森の暗さも加わった暗闇の中でクルルの猫目が興奮の色に染まった。ぶわりと逆立った毛もその影響だろうか。一段とやる気を触発されたらしい。入り組んだ森の中でも縦横無尽に跳ね回り、東の方角へ向けて迷うことなく駆け抜けていく。
うん、まぁ……あれだ。やる気があるのは何よりである。
躍動する背中に器用にしがみ付きながら、時折背中の荷物を振るう少女。クルル同様に牽制を忘れない。
そのようにして夜光の森を進むこと、暫し。徐々に上から差し込む光に月明かり以外の淡さが混じって来たことに気付いた。その瑪瑙色の髪をふわりと靡かせ、木々の合間を見上げる。そこに朝焼けの色を認めて、微かに吐息を零した。
そして不意に、視界が開けた。ざあっ、と木々の間を飛び越える音と共に――――潮の香りが頬を掠める。
夜光の森を抜けたクルルは、そこで一度足を止めた。吹き渡る潮風にヒゲを靡かせ、ひくひくと薫りを確かめているようだった。
その背の上から、眼下に見渡した景色。きっと死ぬまで忘れることは無いだろう。
朝日に照らされて、キラキラと輝く海面の青さは遥か遠くまで続いている。扇状に配された七つの桟橋の其々に大小さまざまな船が停泊し、こうして見下ろしている丘にまで、その活気に満ちた様子が伝わってくるようだ。広大な潟の上に築かれた水都――それは王都、副都に次ぐ主要都市にして、国の心臓部とも言われる最大の交易地でもある。縦横無尽に張り巡らされた運河と美しい市街。類まれな景観美をして、大陸で「水晶海の女王」と称される海都。
水晶海の向こう、二つの大陸と白亜諸島を結ぶ玄関口でもある。
……とうとう、ここまで辿り着いた。その感慨に深く浸っている間は、実際のところそう長くは無い。
潮の香りにヒゲを蠢かせていたクルル。一度大きく伸びをした後に、もう待ちきれないとばかりに軽快な足取りで岩場をトントンと降り始めたのだった。
夜光の森での『ご馳走』発言が起因となっていることは明らかだ。その嬉しげな様子に、思わず逃亡劇の最中にあることすら忘れそうになる。苦笑を押し隠した少女を背に乗せたまま、白猫は海都へ至る道を颯爽と進む。
森を抜けた後。続く道には、西一帯とは違うやや黒みがかった砂地へ這うようにして夕花蔓がびっしりと生い茂っていた。ラッパ状に広がる大きな花弁が、まるで一面に敷き詰められるように朝風に靡いている。壮観だった。それは岩間へと伸びていき、急な足場へと続いている。通常ならばそちらを慎重に降りていくところだろうが、今回はそれに当たらない。クルルであればこそ、迷うことなく最短距離を選び取れる。
「……海都を訪れたのは、実を言うと初めてなんだ。クルル、その鼻も使って案内を頼めるか?」
「ウニャン」
任せておけと言わんばかりの一声を受け、頷いた少女がその背からするりと地面に降りた。革袋を背負い直し、腕の中の灰色も抱え直す。前も後ろも荷物で占められている。横目で少女が背中から降りたのを確認したクルルは、大きな欠伸と同時にスルスルと縮んでいく。その縮尺が本来の大きさから、往来を歩いている成猫程度まで小さくなったところでピタリと止まる。
初めて見るものがいれば、己が目を疑うことだろう。少女は慣れてこそいるが、その仕組みに関して実は何も知らなかったりする。
しかし、クルルは縮尺変更が可能な魔獣(?)なのだ。だからこそ、師匠も街へ降りる際にはクルルを人目に付かない場所へ置いて行くなどの手間を取らずに済む。「そこが特に気に入っているんだよ」と師匠当人が臆面も無く言っていたくらいだ。
「さあ、行こう。まずは腹ごしらえだ」
「ウニャア」
言われるまでもない、とばかりに駆け出した白猫の背を追い、少女は海都の門へ向かって歩き出した。
その背には、海上から照り付ける陽光がまぶしいばかりに降り注いでいる。




