少女は潮騒の街で追走の合図を仰ぐ*二日目の旅 終盤からの延長*
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年齢不詳にして、巷では『軍神』とも呼ばれる歴戦の偉人。
しかしその内実は――こよなく睡眠を愛し、休日はゴロゴロすることに命を懸け、下手に起こそうものなら一撃必殺の拳が凄惨を作り上げる。引きこもりの一歩手前の生活を維持したいが為、参戦してきた戦は全て『とにかく早く終わらせる』ことに重点を置いていたそうな。当人がそう言っていたから、間違いないね。
そんなどうしようもなさを併せ持つ、究極の童顔。
それが、師ハイナス・フレイヴァルツである。
「師匠?」
「ん?……何だいルーア? おや。さっきから殆ど箸が進んでいないじゃないか。ほら、これをお食べ」
例の如く酒瓶片手に、ご満悦だ。いつから飲み始めたかは分からないが、既に出来上がっている。
また、師匠は蟒蛇である。睡眠の次に飲酒を愛する人だ。毎度のことながら、周囲が感心するほどのペースで樽、瓶、徳利、盃、どんどん飲み干していくのだから質が悪い。
見事な刺身の盛り合わせをどん、とテーブルに追加した師とテーブルを挟んで向かい合う弟子。
彼らの一方は満面の笑みで。もう一方は、やや引き攣った笑みを浮かべて対面している。『今、自分はとても陽気です』と宣伝したいのだろうか。そう思わせるほどに、機嫌は良好。具体例を挙げれば、始終鼻歌混じりだ。
「……いただきます。それと師匠、確か『氷花山脈の麓』に隠棲した筈では?」
「うん、そう。隠棲してからというもの、日々平穏を満喫しているんだ……ただね、今回の件をヴァイが僕の所に持ち込んできたんだよねぇ。だから、こうして君に会いに来たんだよ」
師匠の足元には元々あった椅子の代わりに、酒樽が三本。器用にバランスを取りつつ、丁度飲み干したのが西方地方の葡萄酒。おそらく『西方の葡萄畑』の新酒だ。
「西方の葡萄畑と言われるだけあって、なかなか美味しいよ。風味も良いね。……ルーアも飲んでみる?」
「……いただきます。ちなみに師匠、どうしてこの場所に?」
「んー? ああ、ルーアと会えたのは偶然だよ。ここはクルルが選別した店だから、入っただけさ。でも結果的にルーアとも合流出来たし、色々と手間が掛からなくて何よりだよ」
「……クルルは今どこに?」
「この店の裏で、近くの野良猫と戯れてたね。あんまり楽しそうだったから、そのままにして僕だけ店に入ったんだ」
戯れていた? いや、多分それは逃げ惑っていたの間違いだろうな。強制追いかけっこに参加させられた不運な野良猫たちに黙祷。手に取ったグラスを掲げ、ぐいっと一息に仰いだ。
すごく薫りが良い。これは間違いなく良酒だ。口当たりもまろやかで、申し分ない。
――うん、飲み過ぎに気を配ろう。
「ふふ、相変わらず言い飲みっぷりだね。君とお酒を囲むと普段よりもずっと楽しく感じるなぁ……ねぇ、ルーア? ――もし君が望むなら、僕とヴァイの二人は全力で君を海の向こうへ逃がしてあげるよ」
「……ありがとうね、師匠。だけど、最低限自分で逃げ続けると決めた。初めから二人の力を借りるわけにはいかない。ただ……その気持ちは嬉しいから取っておく」
言葉の最後の方で、何気なく告げられた言葉に苦笑もする。結局のところ、周囲は自分に甘すぎるのだ。だからこそ、本当の意味であれと――アルヴィンと向き合うことをずっと先延ばしにしてきた。そう出来てしまった今までと、これからは出来ないと知って逃避した、今回の旅路。
一言で言えば……そう。まさに時間稼ぎだ。意思を伝えるまでのささやかな、最後の悪あがき。
あれと共には在れないのだと、そう自覚した『嘗て』から。ずっと先延ばしにし続けた今までの長い日々。
大切な歳月であったことに、間違いはない。
それは全て、師匠がくれた二振りと――――ある人の言葉のお蔭。どちらが欠けても、今の自分は無かっただろう。だから、とても感謝している。
「ルーアは相変わらず頑固だねぇ」
「師匠は相変わらず、無駄に若々しいな」
何気なく称し合えば、いつしかそれは師と弟子というよりも……嘗て、養父と娘であった頃に重なった。
ふわりふわりと舞い上がる酒気の中、それは杯を傾け合う親子の風景。そのまま良い感じにまとまれば、何よりではあるのだが……。
実際のところ、周囲から見た絵面はそんなに可愛らしい範囲には納まらなかったりする。現実とは総じて儘ならないものであると、少女が学んだのは他でもない師匠に纏わる諸々が始まりだ。
酒場でその店にある酒を殆ど飲み干され、何も思わない店主がいたら見てみたい。代金こそ、嘗て貯めに貯めた数千枚を優に超える金貨によって楽々と支払える当人。だからこそ、余計に始末に負えなかったりする。
周囲への暗澹たる被害。酒場に来たのに、飲む酒は既に無いどころか――――カウンターでは店主が顔色を失くして佇んでいる。
そんな光景を見たら、実際飲む気も自然と失せるだろう。酷い話だ。思い出しただけで頭痛がする。
酒飲みの天敵として、今までに訪れたどの酒場からも『出入禁止』の旨を伝えられるのはもはや恒例行事だ。同じ酒場に二度以上足を踏み入れることが叶わない、そんな師匠の良酒巡り。もとい、酒場荒らし。
近年こそ風聞として耳に入ってくることは殆ど無くなっていたが――今夜の来店を機に、再び復活することも十分に考えられるね。やれやれだ。
加えて、後ろ背の喧騒が頭痛に追い打ちをかけて来るのだから堪らない。酒宴を囲む三者三様――勿論これは、白藍と葡萄と月の色。彼らは初めこそ、それでも気を使ったのか小声でヒソヒソと語り合っていた。しかし酒気が漂い出すにつれ、気遣いの心をどこかに置き忘れたものらしい。
「ねぇ、白鯨もその程度なのかしら? 御覧なさい、あの盃の峰を。貴方たち二人分を合わせても、峰の半分にも届かないじゃないの。嘆かわしいわ……」
煽らないでほしいんだ、マスター。勘弁してくれ。
「ふふ。師弟揃って規格外の酒豪、ね……これほど愉快な話は無いよ。こんなに楽しい夜は久しぶりだ。叶うなら、一手交えたいもんだなぁ……」
猛禽の目を向けるのはやめてほしい。切実に。君だよ、白藍の。見えなくとも背中からヒシヒシと感じるんだよ。これ以上刺激しないで貰いたい。ほら、師匠が横目でさり気なく位置を捉えた――ああ、もう。
「……うぉ!! なんか物凄い勢いで鉄製の箸置きが飛来してきたぞ。何だ、何処からだ?!」
ほら、酒気が入っている所為で標的がまともに捉えられていない。
溜息混じりに、ようやくここで後方の席へ振り返る少女。したり顔を向けて来る白藍をさらりと無視し、困惑したまま首を捻っている葡萄色の髪の青年の肩をトントンと叩いた。
「……それの返却先を知っているよ。代わりに返しておくから、渡してくれ」
「……あんたの周囲、まさに命がけといって過言でないんだな」
「今更だね。君も、命が惜しいならさっさとそこの白藍を連れて巻貝穴へ戻るべきだ」
「……出来るならとっくにそうしているさ。はは、酒だけが男の友とはよく言ったもんだな」
「相応にお疲れのようだね……。一先ず今宵は好きなだけ飲むといいよ。巨大な財布の機嫌次第では、君らの分もまとめて支払う幸運も期待できる」
「……仮にも師を財布扱いか……」
「それこそ今更だね」
因みに彼らが言葉を交わしている合間も、殆ど間をあけずに飛来する手近な危険物(師匠がわざわざ手の届かないモノに手を伸ばすような手間を掛ける筈もない)。当たり所が悪ければ、最悪即死してもおかしくは無い代物が大半を占めていた。止めれ。本当になんて迷惑な客だろうね。
マスターが三割ほどを、無難に手で受け止めている一方。残りの六割強を白藍が店の被害も考えずに床に撃ち落してゆくから堪らない。破片が飛ぶたびに、店主の形相が悪化の一途を辿ってゆく。
……なんという混沌。これ以上無いくらいの、最悪な飲み合わせだ。
「おい、ヒルト!! いい加減にしろ。これ以上店に被害を出したら降格は免れないぞ!!」
「……別に地位とかあんま興味ないかなぁ。首にならないなら、適当でいいよ」
「…………給金も半分以下だ。それでお前、食いつなげるのか?」
「それは無理」
ユギ青年は、この酒場における救世主と言って過言でない見事な操舵を披露した。こつは『食いつなぐ』の一言にあったようだ。
途端、ぴたりと破壊を止めた破壊の申し子。今までの態度が嘘のように、器用に飛来物を受け止めては合間にひらひらと店主へ手を振っている。自身の今までの行為を見事に棚上げした、満面の笑みだった。
その有無を言わさぬ微笑に、質の悪さをひしひしと感じるばかりだ。何という切り替えの早さだろうね。一方が睡眠欲を極めているのに対し、もう一方は食欲の権化らしい。その事実に戦慄も覚える。
ちなみに、呆れ顔の店主はもう放っておけと言わんばかりに明後日の方向を向いてしまった。
……なんという混沌。争いは沈静化の兆しを見せるも、救いは何処にもないのだ。
「師匠……」
「まぁまぁ。僕が売られた喧嘩を買わない筈がないだろう? 僕の弟子なら、その信念を忘れている筈がないよね?」
「……眠っているとき以外はどうしてそう好戦的なのかな、まったく」
「うん? 一言で言えばそれは――――」
紡がれようとした言葉は、結局のところ最後まで至らない。
声は、不自然なほど唐突に途切れた。
師匠が、言葉を続けずに「……来るね」と呟いた後。そのまま中空を仰いだ刹那。
覚えのある、その魔力。その圧倒的な懐かしさと禍々しさに――――その身を翻した少女。
その目の前で。
その視線の先で。
酒場の窓が、枠を残して全て弾け飛んだ。
そして店内へ吹き付ける、熱波。店内にいた大半がそれを浴び、床に転がっている最中。
「――――来たね」
ふわり、と微笑みすら浮かべて師匠が見上げたもの。それは、まさに『火柱』だ。
潮騒の畔から、やや北西の位置を中心に星空を緋色に染め上げるそれはまさに『天災』と呼ぶにふさわしい規模を体現していた。
周囲の大半が床に伏せる中、窓枠に並び立つ師弟。
彼らは知っている。その魔力を。それを顕現したであろう、人物の名を。
「……世話が焼ける弟子たちを持つと、師匠は苦労するものだねぇ」
「……あれと同じ頭数で数えられたくないなぁ」
苦笑する師へ、何かを諦めた様な表情で笑い返す少女。
その腕の中で、微妙に香ばしい匂いを立てながらも尚、健やかな寝息。さすがは飛竜だ。
もぞりもぞりと寝返りを打ったそれを、少女は溜息をついて抱え直した。
――――果たしてこの後、眠っている暇はあればいいのだが。
さて、どうなることやら。
轟々と、唸りを上げて未だに空を焼き続けている緋の柱を見上げながら。
その口許は、無意識にその名を紡いでいた。
――――ルヴィ。
それは、少女が旅路を選択した理由にして元凶。
今代の勇者の御名だった。




