*挿話 秘境より*
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山脈特有の、やや湿り気を帯びた空気。
幾年か振りにそれを吸い込みながら登る高地は、軽装の鎧を身に着けているとは言え、ほどほどに寒々しいものだった。
麓の街から、歩き続けること約半日。ようやく見えてきたそれに、一旦立ち止まって気配を探る。
周囲に広がる景色へ、懐かしさ以前に気になったこと。それは想像以上の霧深さ。辟易もする。
ほぅ、と溜息を吐きだして青年は小屋の前に立った。
「…………いるかな。いや、そもそも居てもらわないと話にならないけど」
周辺にその小屋以外の住居らしい建物は一切見当たらない。それもその筈だ。ここは王都から北東へ徒歩ならば約十日。山脈の為か、大気の歪みは大陸の中でも随一。飛竜はおろか、伝書鷹さえも辿り着くことが困難な秘境中の秘境である。
そこを敢えて住処に定めた『当人』の意図。実際のところはこれ以上無いくらいにシンプルだ。要するに他者との一切の接触を絶つこと。これに尽きる。
「居ますよね、返事は良いです。入りますよ」
ノックも丸ごとすっ飛ばし、両手開きのドアを開け放ってずかずかと中へ入り込む青年。その灰色の髪が室内の快適な風でふわりと膨らんで落ちる。部屋の中央に立ち、そのまま切れ長の目でざっと暖炉脇、布張りのソファ、次いで寝室へ通じるドアへと視線を向けた。
「やっぱ寝室か」と。口の中だけでぼそりと零した青年はつかつかと歩み寄るや、寝室のドアをこれまたノックも無しに開け放った。
それと同時に漏れ出でるのは――――これ以上無いくらい健やかな寝息だ。通常運転らしい。自然と懐かしさよりも苛立ちに似た何かが脳裏を占める。
幾年経ても、この人はまるで変わらない。その心の在り方は勿論、傍から見れば怠惰にしか見えない有様も……そして容貌もまた。
長々とドアの横で溜息を付いた後は、寝台のふくらみに向けて最後の距離を詰める。少しの躊躇も持たず、毛布の端を両手でむんずと掴み、一息に捲り上げた。
ばさり、と毛布が手元に残ると同時にゴロゴロと転げ出た物体。そのまま勢い余って、寝台から転がり落ち――――掛けるも、欠伸混じりに伸ばした手を支えに、ひょいとそのまま床に立つ。
初めて見るものがいれば、恐らくその一連の動作に目を瞠ったことだろう。しかし、対面に立つ青年は既に見飽きて久しい。冷静な表情を崩さず、久方ぶりに訪ねた当人に対して淡々と挨拶を口にした。
「目は覚めました? お久しぶりです、師匠。変わらぬようで何よりです」
「……ふぁああああっ。――と、その傲岸不遜を地で行く声はヴァイレットか。うん、君の起こし方は毎回ながら乱暴でいけない。少しカルーアを見習った方が良いよ」
「ルーアの起こし方が一番お気に入りなのは知ってますけど、あれを同性の私に期待されても困りますよ。普通に考えて嫌でしょう?」
意見を求めれば、片手に枕を抱えたままで暫し黙考していたようだ。立った姿勢からそのまま寝るんじゃないか。そう危惧を抱くほど、不安定なバランスを器用に取りながら考えて出した答えは、予想はしていたものの、やはりどうしようもない結論だった。
「うーん、そうか。確かに言われてみればそんな気もする……じゃあ、ルヴィの……いや、あれはもっと直接的だったな。ふむ、思えば弟子たちの中で真っ当な起こし方をするのはカルーアだけだったという切実な現実……あー哀しい。寝よう」
「あー哀しい、寝ようじゃないですよ。睡眠過多で死にますよ。それよりも、話があって来ました。こう見えて、貴方よりか時間が制約されている立場なんですよ。――ほら、お茶を入れてあげますよ。さあさあ」
手慣れた様子で、ずるずると己が師匠を引き摺って居間へ戻る。始終、耳を通り過ぎていくささやかな不平不満は適当に返して、ひとまずソファへゴロリと転がした。ここからは時間との勝負だ。寄りかかるものさえあれば、いつでも眠りに導入可能な極度の睡眠体質。目覚めのお茶を手早く差し出す。
予めこんなことになろうかと、持参したものだ。
「僕の眠りを妨げるほどの重要な話なんてそうそうないと思うけどなぁー」
「……結構あると思いますけどね。ほら、着替えて……いや、ひとまずそのままでいいか……寝巻のままでも良いですから。兎に角、今は話が優先です。ほら、座って。ほい、お茶」
「んー……この芳しい香りは王都の最高茶葉だね。うんうん、あそこは本当に面倒臭いばかりで虫が好かないけど、でも出されるお茶だけは文句ないなぁ。特に花茶。久しぶりに蜂蜜ヶ丘にでも出かけようかなぁ……」
よし、掴みは悪くない。そこまで判断し、彼は徐に口火を切ることにした。
「師匠、その蜂蜜ヶ丘を先だってルーアが訪れていましたよ。勇者が――いや、あの唯我独尊根暗根性悪が帰還する報せを受けて、とうとう逃亡に踏み切ったらしい。今更言うまでもないですけど、私はあの子の味方ですから。今日は、一応師であるあなたの意思も聞いておこうと思って来ました」
「…………ふぅ。成程ね。ヴァイ、君の来訪した目的は分かったよ」
ふわりふわりと立ち上る湯気越しに、久しく見せない理知的な色を宿した目。それはぼんやりと虚空へ向けられている。朝焼け色の不可思議な色彩には相変わらず底というものがまるで見えない。
続く沈黙。
先ほどまでは少し熱いくらいだった室内。そこにいつしか薄ら寒さすら感じて視線を戻し、思わず息を飲む。言葉にしなくとも伝わる、独特な気。それを発しているのは紛れもない。目の前で、いつしか冴え冴えとした双眸を戻しつつある師――――ハイナス・フレイヴァルツ。
嘗て、王国の『軍神』として名を馳せた名誉騎士。その名をして、武勇は留まる事を知らず。一騎当千の四文字を地で行った規格外にして、鬼才。周辺国の武力抑止をもその名一つで成し遂げたと、まことしやかに噂された稀代の武人。それがハイナス・フレイヴァルツだ。
しかし、その内実は実際のところ謎に包まれている。弟子として、衣食住を共にした経験もあるが。今思い返しても、その一端にすら触れることは敵わなかったと個人的にはそう言わざるを得ない。
普段は怠惰と旺盛な睡眠欲に紛れて殆ど顔を出さない『本来』の色。それが束の間露わになる瞬間に立ち会うたび、絶対にこの人の敵側には回りたくないと。常々そう思わされるだけだ。
「うん、流れとしては予想通りと言っていい……ルーアはとうとう決断したのだね。あの子には一通りの事情は話してある。けれどもルヴィに伝えるのを控えていたのが仇になったな……やれやれ、相変わらず手のかかる子だ。――ヴァイ、ルーアは『浮島』へ立ち寄るルートを選択したかい?」
「……ええ。でもそれを聞いて、どうするつもりで……え、まさか師匠自ら?」
「うん? 何だい、君の意図しているのは僕を動かすことでは無かったのかい? いくら僕でもその驚嘆の表情にはいろいろ言いたいことがあるけどね」
「……どうしたんです、師匠。もしや熱でも……」
「君が普段から僕をどういう視点で見て来たのかは分かった。――――ふぅ。まあ、今回に限り不問に付そう。時間も無い。直接的に手を貸すかはルーアと話してから決めることにしようか」
未だに背後で体温計を探している弟子を放って、念の為に数日前から詰めていた荷を背負う。そのまま外へ出た。その足取りに普段の億劫さは微塵も無く、すたすたと進む先には今にも崩れそうな『厩』がある。とは言え、その名に反して嘗ての用途ではもう使われなくなって長く経っているが。
山蔦に覆われ、山間ともはや一体化していると言って過言でないそこへ、ヒュイと。彼は指笛で合図を送った。暫くは何も変化は無かったが、次第に地響きにも似た音が『厩』を中心にして辺りへ響き始める。
まるで遠雷のような音を立て、ふいに飛び出してくる影。
その体一杯に喜びも露わに主へ体当たりし、ぐるぐると喉を鳴らすのは白猫だ。ただし、そのサイズは一般的なそれを大きく上回る。見上げるほどのそれに纏わりつかれながら、よしよしと宥めた。
「クルル。久しぶりに山を降りよう。――――カルーアの匂いは覚えているね?」
「ニャア」
勿論とばかりに嬉しげに鳴いた白猫クルル。一匹と一人の付き合いは今年で半世紀を数えるかどうかといったところだ。不本意ながらも『軍神』として名を馳せた頃から、彼の傍らには常に白猫がいた。時にその白い毛並みを鮮血に染めていることから、戦場では『軍神の赤猫』として同じく有名であったその猫も、主であると同時に友人でもあるハイナスが秘境へ隠棲した折に、同じく戦場からその姿を消したのだった。
「じゃあ、先に降りるよ。ヴァイ、小屋の施錠は君に任せる」
「え、ちょ…何でいつになくそんなに準備万端なんですか?! あ、もしや私が来ることも分かってましたね?!――――って、聞いちゃいない……ああ、もうあんなに遠くに……」
最後まで聞き終わりもせず、ひらひらと白猫の背で手を振って出立していった師匠の背。それを見送る弟子。その横顔にはただ呆れがあった。
先ほどまでの怠惰ぶりが嘘のような、颯爽とした旅立ち。あの様子を見る限り、自分が訪れようと訪れまいと今日の内には出立する気でいたのだろう。改めて面倒な人だと思った。
「……ていうか、あの人まだ寝巻のままだったよな。……はぁ」
返事を待つ時間も無く、しなやかな跳躍を見せて山を猛烈な勢いで駆け下っていった白猫とその主。嘗て戦場で実際に彼らを見たものがいれば、泡を食って逃避しかねない恐怖の組み合わせだ。だがしかし、身に纏うのは軽装鎧どころか、寝巻だ。全くもって様にならない。
「どうせ降りるなら一緒に乗せていって欲しかった……」
思わずそう呟きながらも、あの白猫の背中のスペースを見る限り、それ程の余裕は無かったかと。思い直して踵を返す。返事こそ返す間もなかったが、一応施錠はしてから後を追うつもりだ。
まさかこんな状況になるとは欠片も予想していなかった彼の心境は、察するに余りある。その背中には哀愁すら見て取れるほどだ。
がちり、かちりと。無数に配された隠し扉も含めて鍵をかけて回る間、こういう所は着実に弟子にも引き継がれているのだと苦笑する。勇者として、アルヴィンの名が挙がった時点で彼は一度『西方の葡萄畑』を訪れている。その折も、再三に渡って逃亡の補助を申し出た。しかし、カルーアはその首を結局縦に振ることはなかった。ただ一言「気持ちだけ、貰っておくよ」と。
そんな暢気なことで大丈夫かと、内心では溜息を隠せずにいた。けれども今思えば、懸念していたのだろう。逃亡を手助けしたとなれば、自分は否応なくあれの粛清の対象になることを。
カルーアが暮らしていた小さな屋は、一見して普通に見えるように工夫はされていたが。その実、ざっと目を凝らしただけでも五つ程の隠し扉が確認できた。
おそらくその全てが、基本的には対アルヴィン用であったことは想像に難くない。
自分がとある事情から、師匠の下へ弟子入りを志願しに訪れた日。その時から長い歳月が過ぎ、自分も今や隊を率いる立場まで昇格した。周囲には面倒を起こす面々も少なくないが、それでも師匠と自分以外の弟子二人を思えば可愛いものだと心底感じる。彼らは一様に規格外であり、カルーアはまだ一般良識を弁えているからまだ良いが、残りの二人はそこすらも危うい。
「……それにしても変わらないな、あの人。あの童顔はむしろ呪いの類と言われても納得できる」
最後の扉を施錠し終えて、鬱蒼とした木々の合間から夕空を見上げた。今から海都へ戻ることを考えると憂鬱は禁じ得ないが、仕方も無い。
「ルーア。君の兄弟子として出来ることは手を惜しまないよ。……君に救われたこの命、君の為に掛けることを厭う理由は何処にも無いから」
まるで宣誓するように、ひっそりと零したその言葉を聞き届けるものは誰もいない。
こうして秘境の小屋を背に、帰路についたヴァイレット・スカイピア。
彼が去った後、秘境にはただ静寂だけが残された。




