第二話
出会って数十秒で突然吐かれた暴言に憤りを感じながらも、霧也はとりあえず目的の風呂場を探した。少女をすぐに追いかけて文句を言わなかったのは、怒りよりも疑問が大きいせいかもしれない。考え事をするには頭が空っぽになる風呂場が一番なのだ。
霧也は一階東側一番手前の扉を開く。不幸の後の幸運なのか、一発正解。これまた広々とした脱衣場が現れた。銭湯にあるような脱いだ服を入れる棚が一つ悠々と収まるくらい広い。
これは風呂場自体も期待できそうな雰囲気。
霧也はワクワクを抑えられず、服を脱ぐ前にまず風呂場の広さを拝むことにした。
――ガララ。
と、曇りガラスを横にスライドさせる。
風呂場自体は期待していた銭湯のような広さではなかった。しかし、天井ライトがシャンデリアで、大理石を土台に使ったジャグジー付きの丸型浴槽があったり、蛇口が金色で彩られたライオンの頭だったりと金持ち臭が漂って置いた。
「ん?」
霧也が風呂場の仕様に驚いていると、微かに苺の甘ったるい匂いが鼻を通った。
どこからか、という表現はしなくてもいいだろう。なにせ脱衣所でこのような香りは一切なかったのだから。
この匂いは確実に風呂場から漂うもの。まず真っ先に霧也が予想したのはシャンプーやボディーソープ、及び入浴剤の匂い。女性が住んでいる家なのだから、香りがキツイものを使っていてもおかしくはない。
「っつーことはまだお湯流してないってことか。洗わなきゃいかんわけね」
シャワーを使うだけなのだが、ジャグジー付きの浴槽に興味を惹かれた霧也だった。
靴下を脱いで、滑らないよう気をつけながら浴槽に近づく。薔薇色に染まった液体が浴槽を満たしていた。
「やっぱまだ残り湯抜いてなかったか。浸かり終わったら抜けよな、ったく」
ぶつくさ文句をいいながら、霧也は腕まくりし、栓から伸びるチェーンを掴むため残り湯に手を突っ込んだ。
ヌチュ。
霧也の全身にゾワっと、かつてないほどはっきりくっきり鳥肌が浮かび上がった。
ここは風呂場で、目の前にある薔薇色のものは液体だと思う以外に何があろうか。これが初見で凝固体だと判断することはまずない。
不意を突かれた霧也は数秒間謎の凝固体に手を突っ込んだままフリーズしていた。
十秒近く固まっていた所でようやく覚醒。熱湯を沸かすヤカンに触れてしまったかの如く跳ねるような速度で薔薇色の凝固体から手を引き抜いた。引き抜いたと同時に謎の凝固体がプルプルと微かに揺れる。
どこかで見た事のあるような。いや、どこかで食べたことのあるような匂いと揺れ方。
「ゼリーのような香りに、ゼリーのような弾力、食べてはないけどゼリーのような触感を彷彿とさせるこれは――まさしくゼリー!!」
すでに霧也は混乱のあまり自分で何を叫んでいるのか理解できない。
どのような経緯でこの高級浴槽にゼリーが浮かんでいるのかは分からないが、とにかく霧也は浴槽を洗うことを決意する。混乱していても自分の目的を達成させようと本能が働くようだった。
作られてから時間が経過していたことと風呂場に溜まった湿気で完全な状態からある程度液体に戻っていたゼリーだったことが幸いし、お湯で勢いをつけて排水溝へ流すことが出来た。
またもや余計な労力を使った霧也は頭を掻いてため息をつきながらも、なんとかシャワーを浴び、念願のジャグジー風呂に浸かることが叶ったわけである。
「日曜の昼間から何やってんだ俺。ってか風呂に入るだけでこんだけ手間かかる家ってどんなんだよ……。あー、喉乾いた。台所で何か飲も」
またもや場所探しになるわけだが、残りの部屋はあと一つ。別に苦労するわけではない。
扉を開いた瞬間絶句。本日何度目になるのか、うんざりするほどだ。
自分の部屋の三倍の広さはあるリビング。白いフワフワな絨毯が敷いてあり、大型のテレビに赤いコの字型のソファー、八人が腰かけられる大きさの食卓テーブル。
視覚だけで表現するならば、なんら違和感はない。視覚だけで表現するならば、だ。
異臭がした。
はっきりと言い表せる生ゴミの臭い。まだ見てもいないのに台所のイメージが頭に浮かんだ。
鉛の玉を括りつけられたかのように重くなった足を引き摺るような形で動かして、リビングからキッチンへ移動する。
「うーーーーーーあーーーーーーー」
鼻を摘まんでも、妙なおぞましい嫌な臭いは鼻腔を通った。心なしかタマネギを刻んだ時のように目も痛くなってくる。完全にキッチンは異空間と化していた。
調理台にはどうやってバランスを取っているのかピザの箱やカップ麺の器、お菓子の袋に飲み終えたペットボトルなど様々なゴミが積み上げられていた。
そして問題はシンクの中。キャベツ、にんじん、レタスにトマト、エトセトラエトセトラエトセトラ。捨てられているのは野菜のみ。どれだけ時間が立っているのか分からないが、腐敗が進み異臭を放っている原因となっていた。
霧也は眩暈を覚え倒れそうになり、キッチンの縁をなんとか指先で掴んで支える。
「いつ誰が何でどんな風にしたらこんなヒドイ状態になるんだ……」
答える相手がいなくとも口に出して尋ねなくては絶望しそうな切なさが抑えられなかった。
ぐらり――。
積み上げられた空き袋やペットボトルが静かな音を立てて霧也目掛けて崩れ落ちた。
自分がキッチンで体を支えたせいか、それともバランスの限界に達したのか、そんなことはどっちでもいい。
食べ残りカスにまみれ、腐臭に包まれたことで、霧也の理性がプツっと引き千切れるように弾けた。
鬼神のごとき表情で立ち上がり、まずはリビングの窓を全開にして換気を始める。次にキッチン上下の収納扉からゴム手袋とゴミ袋、スポンジに洗剤各種を血走った眼で探し出し、千手観音の腕の如く腕を六本に増やすスピードで動かし始めた。
キッチン掃除を始めて何時間経過しただろうか。
昼過ぎにこの家に到着したはずなのに、今はもう日が沈んできている。
疲れ果てだるくなった体をコの字型ソファーに預け、霧也は外から吹く柔らかい風を受けながら何をするわけでもなく天井を眺めていた。
白地にうっすら花柄が入れられた天井の壁紙に、長短大小様々なガラスがぶら下がっているシャンデリアが霧也の視界に写る。
そんな安らいでいる霧也の耳に、ガチャリとドアが開く音が聞こえた。音のした方角に視線だけ送る。
そこには階段で出会った髪ボサ女の姿。今度は白い布を巻き付けておらず、銀色のラメで何やら英語が書かれたピンクのシャツに、白いショートパンツという格好。だが、相変わらず前髪はだらんと垂れ下がり、顔がほとんど隠れている。
髪ボサ女は眠たそうな目を擦り、リビングに足を踏み入れた。
「…………っ!」
髪ボサ女と距離が近づいた瞬間、霧也は眉間に深い皺を寄せる。また自分の中でぷつっと何かが切れた音がした。霧也は立ち上がって髪ボサ女に近づく。
霧也に気付いた髪ボサ女は一歩後ずさって、
「あ……! この糞虫野郎、まだいたの? 早く出ていけって――」
強制退去を命じるが、急に近づいてきた霧也に慌てふためく。
「え、何! 来ないで! 嫌――」
「ちょっと来いやあ!」
そう叫んで髪ボサ女の腕を掴んで、リビングから出る。霧也は服を着たまま髪ボサ女を風呂場へと連れ込み、給湯器の電源を入れた。そして無理やり鏡の前に髪ボサ女を座らせると、否応なしにシャワーを浴びせる。当然最初の数秒は冷水だが、そんなことはお構いなし。
ある程度髪ボサ女の髪の毛が水分を含んだところで、鏡の前にあるシャンプーを自分の右手に向けて四回ほどプッシュする。ノズルからピンク色のドロッとした液体が乗るのを確認すると空いた左手でシャワーを止め、力任せに目の前の少女へシャンプーを始めた。
「痛い痛い痛い痛い! 髪の毛引っ張ってる、引っ張ってるってば! っていうか触らないで、セクハラよ! それに頭くらい自分で洗えるんだから!」
「うるっせえ! 臭いんだよお前! どんだけ洗ってねえんだ!」
「失礼な事言わないで! 二週間洗ってないだけでそんな言われる筋合いない!」
「十分汚ねえわ! この髪ボサ臭女が!」
思わず勢いに任せて少女の頭を叩く。
頭を押さえてこっちを睨みつけてくる少女は、
「うるさい、この糞虫野郎! なによ髪ボサ臭女って。私にはちゃんと八尋乃衣って名前があるんだから――痛ったーい!」
と、乃衣は名乗ってみたものの、シャンプーが目に入って最後まで威勢は続かなかった。
放っておいてもいいのだが、さすがに可哀想だと思い霧也はシャワーを乃衣の顔にかけてやる。かけてやる。かけてやる。
「ぶはあっ! 殺す気かああああ!」
シャワーを持つ霧也の手を跳ねのけて、乃衣が叫ぶ。
水分を含んで重たくなった自分の長い髪の毛を全部後ろに持っていき、霧也の正面に向き直った。
「何がしたいのよ、この糞虫野郎!」
「いや、顔の脂も一緒に落としてやろうかと。ほら、ティーシャツも脱げよ。背中洗ってやるから」
躊躇も違和感も覚えることなく発した霧也の言葉に乃衣は、
「馬っっっっっっっ鹿じゃないのあんた! エッチスケベ変態痴漢変質者! 身体くらい自分で洗えるわよ!」
と今にも噛みついてきそうな表情をし、甲高い声を風呂で反響させ霧也の鼓膜を揺さぶった。キーンと嫌な耳鳴りが鼓膜の奥に残る。
疑り深い霧也はこのまま無理やりにでも服を引っぺがしてやろうかとも思ったが、よくよく考えてみると完全にセクハラの域を超えている。このまま警察を呼ばれれば確実に弁解もなく逮捕されるのがオチだった。
仕方ない、と諦めた霧也はシャワーで手に付いた泡を落とし、
「絶対ちゃんと洗えよ。もし出てきてまだ臭ったら今度こそ本当に服引っぺがして俺が洗うからな」
と、言い残して風呂場を後にした。
残された乃衣は閉められた扉を潤んだ瞳で睨みつけ、
「何なのよあいつ……」
火照って赤くなった手が白くなるほど強く拳を握りしめた。
「よりにもよって男なんて。私はどうすればいいのよ……!」
奥歯を噛み締め、視線を真下に落とす。
瞬きの速度がゆっくり上がり、視線が泳いでいく。呼吸も心なしか荒くなり始める。
髪から水滴が滴り落ち、床に幾度となく降り注ぐ。服が含んだ水は空気に熱を奪われ、身体を少しずつ冷やしていった。
体温が貼りつく服が原因か、あの出来事を思い出したのか原因なのか。ぶるっと一度身震いすると、乃衣は両腕で身体を抱きしめる。
「男なんて……嫌いだ」