第十一話
一通り家の中を案内して二時間ほどが経過した。
高かった陽も夕暮れに近づく。窓から差し込む光はカーテンを透かし、ほんのりオレンジ色に染まっている。
好奇心を満たし、肌をツヤツヤにした斗羽とは裏腹に、胃痛がするのか白い顔で胃を押さえている霧也、急激に過度なダイエットでも行ったかのようにゲッソリしている乃衣の三人がリビングのソファーに座っていた。
霧也は斗羽と絡めず、乃衣は斗羽に構われすぎてそれぞれ多大なストレスが溜まったようだ。
テレビのちょうど真上に付けられている銀縁の丸時計を霧也が視界に入れると、時刻は五時半を過ぎたところ。そろそろ夕御飯の準備を始めなければいけない時間。
よっこらしょ、と重い腰を上げた霧也は、
「伊織、ご飯食べてく? 簡単なものしか作れないけど」
「ありがとう。でも、今日は私も家で料理当番だから帰らないといけないんだ。そろそろお暇するね。今日は楽しかったよ」
最後の時間を自分で作ろうとするも、無残に失敗した。その際、乃衣がさりげなく握りこぶしを作っていたのは見逃さない。
けれど、まだ作戦は残っている。本当にこれが最後なのだが、確実にもう少し一緒にいれる時間を作れる方法。
ソファーから腰を上げた斗羽がお礼を言ってその場から立ち去ろうとした時、
「あー、そういや晩御飯の材料がない」
ちょっと棒読みだったかもしれない。鈍感な人には分からないだろうが、気づく人は気づく。他人の変化に鋭いのか、はたまた身内の変化に鋭いのか、乃衣はジト目を惜しみなく霧也へと向けていた。
つい先日、霧也がパスタを含めた食材をちょっと多めに買い込んでいたのを見ていたのだから当然っちゃ当然である。
しかし、そんなこと大した問題ではない。
そもそも今この家にあるのは麺類のみ。日本人の家に米が常備されていると思うことなかれ。この家にはない。それは初日に確認済みである。
今の霧也は麺類ではなく、異様なまでに米を食したい。そう、米が無性に食べたいのだ。具体的に表現するとチャーハン的な米類。だから今から面倒くさいのだが買いにいかないといけない。本当に面倒なのだが、仕方がない。
「そうなの? じゃあ一緒に行く? 私も材料買って帰らなきゃいけなかったの」
「お、偶然だなー。っつーわけで、伊織送りに行きがてらチャーハン用の米買ってくるわ。他に欲しいものある?」
スーパーまでの距離だけだと予測していたが、なんともまあ偶然の賜物。
ニヤケ顔を力尽くで押さえ、それでいて無表情にはならず口元だけ綻ばせる。あくまでも面倒くさそうに。一応仕草だけでもと、頭を搔く。頭を掻いて、数秒フリーズ。
ありえないことが起こる。そう直感的に悟った。
目の前の引きこもり少女が青白い神妙な顔つきで、何やら指折り数えている。乃衣は数え終えて、頷いた。
一呼吸おき、両手で服の両裾を握り締めながら、
「わ、私も行く!」
声を裏返しながら同行を求めた。
無理しなくていいんだぞ、とは霧也には言えない。言いたかったけれど、言えるわけがない。理由はさっぱり分からないが、今にも吐きそうな青白い顔をして決心したことを折るわけにはいかなかった。
自分の計画には少しばかり支障が出るかもしれないが、より数少ない貴重なチャンスを尊重することにした。
いつになく真面目な表情をした霧也は乃衣に一言だけ。
「大丈夫か?」
「だ、だ、大丈夫に決まってるでしょ! 私が欲しいの言ったってあんたどうせ違うの買ってくるでしょ。だから、わた、私も行くんじゃない!」
「どんな理由だよ……」
「こんな理由よ! とにかく行くったら行く。文句あんの!」
「……ねえよ。そんじゃ、とっとと準備しろ」
ぱぁっと顔を綻ばせた乃衣は部屋へと駆け足で戻っていった。
いくら女の子だろうとこの状況で着替える時間を考えても十分程度か。
待っている間、斗羽ともっと仲を深めるために会話をしようと視線を交わらせた瞬間、
「ねぇ、霧也くん! 乃衣ちゃんともっと仲良くなるにはどうすればいいと思う?」
などと、一旦落ち着いたかと思われた可愛いものを愛でるモードが再発していた。
これは有香の言う通り、本当にやっかいな特徴である。
斗羽から乃衣攻略法を事細かに聞かれている間に、等の本人がやってきた。右肩だけが出ているグレーのトップス(胸に英語で何やら書かれているが読めない)に、ベージュのホットパンツといった格好。相変わらずラフな服装である。
壁際まで追いやられていた霧也の困惑した表情に首を傾げる乃衣だったが、すぐに飛びついてきた斗羽を回避するのに手一杯になった。
「ほら、行くぞ。二人共!」
なんとも言えないどことなく苦虫を噛み潰したような表情で、女子二人を外へと無理矢理促す。
玄関で靴に履き替え、外へ。
「そういえば、乃衣。お前チャリあんの?」
引き籠もる以前は学校にも行っていたのだから当然持っているだろうと思うのだが、一応聞いておくことにした。この家は一応ちょっとした小金持ちなのだ。だから車で送り迎えという手段と取っている可能性も否定できない。
「ちょっと待ってて、ママチャリ取ってくる」
どうやら持ってはいるらしい。しかし、少しの間でもメンテナンスをしていなかったらタイヤとかギヤなどに不具合が出ているような気もする。
家の裏手へと回り込んだ乃衣はすぐに一台の自転車を押して戻ってきた。
シルバーメタリックが夕日の光を浴び輝く。車体は軽量を目的としているのだろう。余分なパーツを全てとっぱらったシンプルなタイプ。ハンドルはペダルより低い位置にあり、下方向へとカーブを描きながら伸びるもの。空気抵抗を減らし、ダウンフォースを生み出しやすく基礎設定がなされている。
素晴らしいママチャ……。
「完全にロードバイクじゃん! ママチャリじゃないじゃん! てかこのタイプテレビで見たことあるぞ!」
記憶の中にあるこのバイクのお値段は確か七桁ほどした。子供に与えるように代物ではない。特に引き籠もりには。
もっとツッコもうと思えばいくらでも言葉は出てくるが、切りがないと霧也判断した。
ため息をついて、
「ほんじゃ出発ー」
ちょっと物欲しそうな目で乃衣のロードバイクをチラ見すると、自分の自転車の元へと歩いて行った。
『スーパーピグモット』という正式名称を持つ『アンデルセン』と同じくらいの規模があるスーパーへと三人はやってきた。ここは斗羽の紹介である。
しかし、ここでもまた不幸が霧也に降り注ぐ。
店に到着した途端、入口に白い拡張器をもった店員らしき男が「今からタイムセールを始めます!」と店内外に響き渡るよう大きな声でお知らせを伝えた。
タイムセールに過剰反応した斗羽は、ほんわかした表情を一転。戦場へと赴く兵士のような険しい顔つきで、
「行ってきます」
と一言残して店内でひしめき合う猛獣の中へと飛び込んでいった。
「…………」
「…………」
中の激しい闘争の様子に危機感を覚えた二人は、入口脇でしばし様子を伺うことにした。
どこにどのコーナーがあるかだけでも把握しておこうと目を凝らすが、夕日がガラスに反射しているのとセールに集る人ごみで諦めざるを得なかった。
すぐ後ろの道路を車が走る音とスーパー内の喧騒が相まって閑静な住宅街に真逆の変化を与えていた。
不意に視線を感じ、霧也が僅かに顔を右横に動かす。
「んだよ、人の顔をジロジロと」
「だ、誰が! っていうかあんたの顔なんて見てないわ。自意識過剰なんじゃないの!」
ふんっ、と怒ったように腕を組み、顔を逸す。逸した瞬間、数秒だが乃衣の時間が止まったようにピクリとも動かなくなった。
「あれ、八尋?」
名前を呼ばれた途端、乃衣の顔色が血の気が引いたように真っ白になった。普段から色白ではあるが、今は病人じみた青白い顔色。
これはただ事ではない。
ただ名前を呼ばれただけなのにも関わらず、乃衣はよろよろと数歩後ずさる。目には今にも溢れそうな量の涙を浮かべ、嗚咽を漏らすまいと口を両手で抑える。
店の入口から現れたのは白いワイシャツに黒いスラックス姿の少年。端正な目鼻立ちに、スポーツをしているのか捲くった袖から覗く腕には程良く筋肉がついている。服装からして中学生であることははっきりしているが、どこか大人びた雰囲気を持っていた。手には店のマークが入ったビニール袋を一つぶら下げている。
「学校にはいつくらいに来れそうなんだ? 皆お前が来るの待ってるんだぞ……って。八尋、大丈夫か?」
少年が同級生なりの優しい励ましの言葉をかけるも、乃衣は全く反応を示さない。今なお涙と嗚咽を堪えている。
そっと少年が手を伸ばし乃衣の体に触れようとした――が、霧也の体によって阻まれる。
「気になってたんだけど、あんた八尋の何?」
見知らぬ人物の介入に少年は嫌悪感を隠そうともせず、敵意を顕にした声音で訪ねてきた。
「おいおい少年。人のプロフィール尋ねんならまず自分から名乗れよ」
勢いに負けることだけはしない。ここで譲って優先権は確保しておかなければいけないと肌で感じた。
少年の睨みにも余裕の薄ら笑いを浮かべる霧也。しかし、頭の中では少年をあしらう方法と、乃衣をどうこの場所から連れ出すかを導き出すため、フル稼働までいかないまでも思考を回転させていた。つまり、そこまで余裕はない。
ここまでする理由にまだ確証はないが、すぐ分かるはずである。たぶん、次に少年が口を開いた時にはっきりするはずだ。
「ふん、自己紹介ね。まあいいさ。僕は久住恭平。八尋のクラスメイトだ」
(……やっぱこいつか)
この場から離れなければいけないかもしれない、という懸念に確証を得た。
有香からわざわざメールで知らせてきた要注意人物。
家の廊下でメールを見た後、どうしても気になった霧也はトイレの中で一度貰ったメモ帳に目を通していた。念を押して教えてくるような人物だ、一ページ目に書いてあるだろうと予想し、表紙を捲るなりビンゴ。最初の一行を読んだだけで危険人物だということが判明した。霧也にとってではなく、乃衣にとって危険だということが。
文章の一行目にはこう書かれていた。
『久住恭平は八尋乃衣を引き籠もりにした張本人』
学校でどのようなことが起こったかは知らないが、こいつは乃衣に会わせてはいけないと直感で悟る。だが、乃衣は家から外に出ないから一応の心配はないと、策を弄することをやめてしまっていた。
結果、乃衣の恐怖を蘇らせてしまった。
こんなところで無駄なエネルギーを使いたくはないが仕方ない。自分の甘さが引き起こしたことなのだから、自分で後始末くらいはしなければ。
霧也はゆっくり息を吸い、ゆっくり吐き出した。
「で、あんたは?」
「清良高校の一年、沢城霧也だ。乃衣との関係性は……」
続きを言おうとしたが、服の裾を引っ張られたことで思わず口をつぐんだ。
乃衣が背中でぼそぼそ何か呟いているが、スーパーから漏れる喧騒にも似た声とすぐ傍の車道を走る車の騒音で聞き取れない。
霧也はさりげなく左手を後ろに回し、空中でバツ印を描く。
(うぉっ!)
バツ印を描いた途端、背筋に悪寒が走り、すかさずくすぐったさが駆け巡った。
声が届かないと悟った乃衣はまさかの背中文字に切り替えをしたようだ。
だが、急にメッセージを変更されても一度で分かるような方法ではない。文字を判別するまでどうにかして時間を稼ぐ必要があった。
「関係性っつてもなー」
頭を掻いて困ったフリをする。
結構無理がある時間の稼ぎ方だと、霧也は自分でも思った。露骨すぎて一発でバレそうな伸ばし方。
だが、心配とは裏腹に久住は返答を律儀に待っていた。依然こちらを射抜くような鋭い殺気を放った視線を向けることは変わらない。
いい加減この視線の重圧から解放されたいと思いかけた矢先、背中に書いていた文字を解読した。
(……って、おいおい!)
解読した文字に驚いて思わず振り返りそうになったが、体中の筋肉に力を入れて無理矢理堪えた。
今後の展開が悪い方向に進むことは必至の言葉を乃衣は言えと言う。
霧也は霧也なりの答えで今後の対応をどうするか考えてもいたが、当の本人が言えと言うのならそれに従うのが道理か。
店の入口から誰も出てこないことを確認する。
「俺はこいつの彼氏だよ。文句ある?」
ビシっと親指で自分を指し、胸を張ってドヤ顔をしておいた。
こうなるともうなる様にしかならない。
一層険しい顔つきで今にも拳が飛んできそうな殺気を放っていた。
「どういうことだよ、八尋?」
久住が二人に詰め寄ってきた。
小さく悲鳴を上げる乃衣は霧也の服を引っ張りながら、久住が近づくたび後ろに下がる。
久住が霧也をすり抜けて乃衣に掴みかかろうと手を伸ばす。
しかし、伸ばされた手は霧也に掴まれ阻まれた。握った手に相当力を込めているはずなのだが、久住の顔色は全く変化しない。
「悪いけどいきなりうちの子触ろうとしないでくれる?」
「どけよ。お前に用はないんだ」
「そんな冷たいこと言うなよ。ちょっと人生の先輩のお小言くらい聞いていけって」
「……黙れゴミが。この僕に説教なんて百年早い」
「んだと、てめ――」
年下に悪態をつかれ続けイライラが溜まっていたのも事実。怯ませてやろうと掴んでいた久住の腕を離して胸倉を掴もうとした。
だが、解放された久住の手が逆に霧也の顔へと伸びた。
ただ伸びただけ。
顔を掴んでアイアンクローを食らわそうというわけでも、顔面を殴りかかろうとするわけでもない。単純に久住は霧也の眼前へと指先を向けて手を伸ばしただけ。
暴力行為でもない、全く当たり障りのない行動にも関わらず、霧也に堪えられない恐怖感を与えた。思わずよろっと一歩半程、後ろへ下がってしまう。
冷や汗が頬を流れた、怖気が走った、背筋を冷たいものが伝った、鳥肌が立った。
体に起こった変化は表現できるが、沸き起こった恐怖感を言葉にする事ができない。
しかし、問題はそんなことではなかった。
一歩半、後ろへ下がった。
さっきまでのやり取りの中で、久住に迫られ乃衣が霧也ごと後ずさっていた。
すぐ後ろは道路。
霧也からは確認することが出来なかったが、乃衣は久住から離れようと歩道の端ギリギリまで後退していた。
ギリギリ安全圏にいる状態で、一歩半だけでも後ろへ下がればどうなるか誰でも分かることだろう。
――見えていれば、注意していればの話だが。
今三人がいる歩道の端には飛び出し防止のために等間隔で体育などに使う三角コーン大の白い石柱が建てられている。また、その石柱と石柱との間には一つ飛ばしではあるが、たるませたチェーンが付けられていた。
霧也に体を密着させない程度に近づいていた乃衣は、突然霧也がぶつかって来たことに対応する術を持たなかった。
「あ……」
運悪くチェーン付きの石柱の前にいた乃衣は容赦なく足を取られる。
体が後ろに大きく反れ、歩道から車道へと体を投げ出した。
ここは住宅街。路側帯はあるものの、都心の道路のような大きなものではない。加えて車道には多くはないものの、決して少なくはない車の台数が走っている。
体が半分でも車道に飛び出せば、確実に撥ねられる。
霧也の視界の片隅には車の姿が映っている。黒いセダンタイプ。あまりスピードは出ていないが、当たれば相応のダメージは受けることだろう。
消え入りそうな声に自分の愚かしさを瞬時に悟った霧也は、腰の筋がどうなってもおかしくない程無理矢理腰を捻る。予想通り腰に激しい痛みが走ったが、構っている暇はない。
宙を仰いでいる乃衣の腕を辛うじて掴み、こちら側へ引っ張り上げる。
乃衣を引っ張ろうと体重差を考えても自分が反動で車道へ放り出されることはない、そう危機を脱すると気を抜いた中で甘い考えを浮かべてしまった。
この場にはもう一人いる。真後ろに、有香が名前を上げる程の危険人物が。
軽く右足を、払われた。
無情にもバランスが崩れる。ただでさえ、体が斜めを向いて地面に足をうまくつけていない状態なのに。
不意に、霧也の顔に笑顔が浮かぶ。
自分は一体何をしているのだろう。あのくだらない計画はまだ達成していないのに、なぜ自分はこんな自らの身を危険に晒すことをしているのか。
また、有香にドヤされることだろう。
(標的の一人に、俺がやられちゃどうしようもないな……。あー、笑える。けど――)
――けれでも、そんなことどうでもいい。今は目の前の少女を助けられれば、それでいい。
「ふっ……!」
霧也は崩れたバランスなどお構いなしに全力で乃衣を引っ張り、歩道へと連れ戻す。
反動で体が前方へと大きく揺らぐ。腕で宙を仰いでみるも、空気抵抗だけで勢いが消されることはない。
石柱と石柱を繋ぐチェーンに足が当たり、車道へと体が投げ出される。
車のクラクションが閑静な住宅街に鳴り響いた。
霧也の視界を黒い鉄の塊が埋め尽くす。
――刹那。
住宅街に金属がひしゃげる破壊音と金切り声のような悲鳴が木霊し、憎悪に満ちた微かな嘲笑と獣が獲物を発見した時のような鋭利な敵意は風によってかき消された。




