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会いたくて今 ~世界を救った英雄ですが、幼馴染のクソ野郎が逃亡したので追いかけます~

作者: いこい
掲載日:2026/11/01

会いたくて今 ~世界を救った英雄ですが、幼馴染のクソ野郎が逃亡したので追いかけます~

~逃げ足だけは一人前~


世界を救ったのは、リナだった。


そのことに異論を挟む者は、たぶん、この国には一人もいない。


世界の境界を食い破ろうとしていた異形の存在――所謂『境界の主』を打ち倒し、滅びる寸前だった世界を救った英雄。


王都では三日三晩の祝祭が催され、彼女の功績を讃える歌まで作られた。


王は褒賞を与え、神殿は祝福を授け、街の人々は彼女の歌を歌う。


リナ自身も、そこまでの扱いを受けることに異存はなかった。


マジで命懸けで戦ったのだ。褒められるのは悪くないし、褒賞だってありがたく受け取る。


ただし、一つだけ。


一つだけ、どうしても許せないことがあった。


「……あのクソ野郎」


王宮から与えられた立派な屋敷。その一室で恐ろしいほどの殺気を漲らせ、リナは一枚の手紙を睨みつけていた。


もう何度読んだか分からない。


紙が破れない程度に握りしめては広げ、机に叩きつけては拾い上げる。


そこには、こんなことが書かれている。


『よう、リナ!


 まずはお疲れさん!


 いやあ、万事うまくいったと思ったのに、最後の青い火柱のところは本当に参ったな。


 あそこでお前を置いて逃げちまったのは悪かったと思ってる。


 いや、マジだよ?


 でもまあ、俺にも命は惜しいわけで。ね?


 そんなわけで、俺はこのまま国を出ることにした。


 敵前逃亡の賠償金を払うほど金もないしな!


 何か言われたら、立て替えておいてくれるとありがたいね。無利子で頼むわ!


 まあ、お前ならきっと生きて帰れると思うし、もし五体満足で無事だったら、いつか許してくれよな!


 じゃあ、元気で!


 お前のカイル』


「…………」


リナは深く息を吸った。


「許すか、このクソ野郎ぉぉぉ!!」


机が一つ、犠牲になった。


新調したばかりの立派な執務机が、真ん中から二つに割れたのである。


廊下から侍女の悲鳴が聞こえた。


リナは少しだけ反省した。


机に罪はない。


悪いのは全部、カイルという男である。




カイルは、リナの幼馴染だった。


物心ついたころには一緒に遊んでいて、喧嘩もしたし、悪戯もした。近所の森を探検して迷子になったこともあれば、二人で村の大人たちに大目玉を食らったこともある。


昔からカイルはムカつくほど要領がよかった。


木登りも、かくれんぼも、鬼ごっこも、やたらと上手かった。


特に逃げ足だけは、昔から大したものだった。


「待ちなさい、カイル!」


「待てと言われて待つ馬鹿がいるかよ!」


そんなやり取りを、何度繰り返したか分からない。


ただ、二人の関係が少しずつ変わり始めたのは、リナが魔法の才能を開花させてからだった。


彼女の魔力量は桁外れだった。


普通の魔術師が十人がかりで張る結界を一人で張り、攻城兵器でなければ壊せない壁を魔法の一撃で粉砕できる。


剣を持たせても強かった。身体強化魔法を使えば、巨大な魔物も3枚におろせた。


そんな彼女を見て、カイルは呆れ顔で言ったものだ。


「お前、ほんとパワー全振りのゴリラだよな。力こそパワー村出身だっけ?」


「誰がゴリラよ! そもそも同じ村出身でしょうが!」


「いや、普通、敵の攻撃って避けるもんだろ? なんで上からかぶせてるのさ?」


「その方が早いじゃない」


「そういうところだよ」


避けるより先に倒せるのだから、わざわざ避ける理由もない。


言いたいことはわかるが、面倒なことばっかり言いやがってというのが本音である。


一方のカイルは、それほど強くなかった。


いや、正確には、一般的な冒険者や騎士としても十分に腕が立つ男だった。


剣も使えたし、魔法もそれなりに扱えた。機転も利く。


だが、リナとは比較にならなかった。


何より、こいつはすぐ逃げる。


大きな魔物が現れれば、まず逃げる。


未知の敵に遭遇すれば、まず逃げる。


こちらが勝てると判断した相手にさえ、どういうわけか逃げ出すこともある。


「大丈夫だって! あんなの私が一撃で倒せるわよ! というかいちいちチョロチョロしないでよ!」


「いやいやいや。あれはやめとこう。無理無理。ゴリラでも無理。」


「お前を先に血祭りにあげてやろうか……」


「ほら、あっちの、右の森から回ろうぜ」


「遠回りじゃない!」


「だって逆しんどそうなんだもん。俺をゴリラーズに入れるんじゃないよ。乳酸って知ってる?」


「……あんたの頭をひねりつぶしたら出て来るのかしら?」


そんな調子だった。


極めつけは、世界の危機に対処するために結成された討伐隊への参加である。


リナは当然のように選ばれた。


問題はカイルだった。


なぜか彼も、同行することになったのである。


「なんでよ!?」


リナは当然抗議した。


しかし、選抜を担当した騎士団長は首を振った。


カイルの危機察知能力と生還率は、過去の任務記録を見てもずば抜けている。戦力としてだけでなく、案内役や斥候としても極めて有用だというのだ。


確かにカイルは、今までケガらしいケガをしたことが無い。擦り傷で大げさに騒いでいるのは散々見るが。


結果的にうまくいった方針も多かったが、どう考えても無駄でしかなかった提言も山ほどある。


それを上層部は評価しているらしい……が、しかしリナに言わせれば、そんなものは逃げ足が速いだけのクソ野郎でしかなかった。


「足手まといにならないでよね」


「そっちこそ、言語外コミュニケーション以外にも世の中には情報伝達の方法があるって覚えてくれよ」


「拳の話かしら?」


「ちがいます」


そんな二人だった。


それでも、最終決戦までは一緒に戦っていたのである。


途中で何度口論になろうと、どれだけカイルの逃げ腰に腹が立とうと、最後の最後には背中を預けられる相手だと思っていた。


少なくとも、リナはそう信じていた。


だからこそ。


あの日のことだけは、どうしても許せなかった。


『境界の主』との戦いは、凄惨を極めた。


長い旅の果てに辿り着いた世界の境界。その最深部で、二人はついに世界を滅ぼしかけていた怪物と対峙した。


仲間の大半も脱落し、自分自身も何度も死にかけた。


カイルの剣は折れ、リナの魔力も底を尽きかけていた。


それでも二人は戦った。


カイルが怪物の攻撃をかわし、僅かに露出した核の位置を叫ぶ。


リナがそこへ、残った力のすべてを叩き込む。


そして最後の一撃。


リナの放った魔法が、境界の主の核を貫いた。


怪物が絶叫した。


空間を歪ませていた巨大な身体が崩れ、世界を蝕んでいた亀裂が閉じていく。


「……やった?」


「ああ……やったな。やれやれ」


カイルがへたり込んだ。


リナも壁に手をつき、荒い息を吐いた。


もはや指先に小さな火を灯す魔力すら残っていなかった。


カイルに至っては、剣を握る力もないらしい。


「……ほらね。最後は力で解決するのよ」


「最後の最後までゴリラじゃん」


「……誰がゴリラよ」


「弱弱しいゴリラだねえ」


「あんた絶対あとでひどい目に合わせてやるわ……」


そんな、いつもと変わらないやり取りを交わした。


その直後だった。


地面が、大きく揺れた。


「……え?」


境界の主の亡骸が、どす黒い光を放ち始めた。


天井に亀裂が走る。


崩れた肉塊の中から、無数の影が這い出してきた。


怪物は死んだ。


だが、その身体に取り込まれていた魔物たちは、まだ生きていたのだ。


さらに、死に際に解き放たれた魔力が、周囲の遺跡を破壊し始めていた。


青白い炎が壁を伝い、遠くで爆発音が響く。


「……冗談でしょ」


「……いや、これは、ちょっとまずいな。逃げるぞ」


二人は顔を見合わせた。


今の二人には、戦う力など残っていなかった。


それでも逃げるしかない。


カイルに腕を引かれ、リナは走り出した。


背後から、無数の魔獣が追いかけてくる。


崩れ落ちる天井。


足元で開く亀裂。


次々と作動する遺跡の防衛機構。


道中、何度もカイルに助けられた。


「右! 右に曲がれ!」


「そっちは行き止まりじゃなかった!?」


「いいから!」


直後、左の通路が崩落した。


「よくわかったわね!」


「行きしなに記憶してたんだよ……!」


しかし、どれほど足掻いても、限界は近づいていた。


出口へ続く回廊まで、あと少し。


そのとき、背後の壁が崩れ、巨大な魔獣が姿を現した。


「……っ!」


リナの足が止まった。


逃げ切れない。


そう思った瞬間だった。


「悪い、リナ!」


カイルが彼女を突き飛ばした。


「きゃっ!?」


リナの身体が、横の通路へと転がる。


魔物が集まってきていた、通路の方へ。


「ちょっと、何すんのよ!?」


「すまん! あとは頼んだ!」


「……は?」


カイルは彼女を振り返りもせず、反対側の回廊へと駆け出していった。


「は?」


その一瞬で、小さな魔物が足にかじりつく。


「はぁぁぁ!?」


だがそれを無視してリナは叫ぶ。


信じられなかった。


この男。


今、何と言った?


自分を置いて?


一人で?


逃げる?


「……っ、あんの、クソ野郎ぉぉぉ!!」


怒りで、頭の中が真っ白になった。


もう魔力など残っていない。


身体だって、とうに限界を迎えている。


そんなことは分かっていた。


だが、そんな理屈はどうでもよかった。


絶対に生きて帰って、あの男をぶん殴ってやる。


その一念で、リナは拳を握りしめた。


体の奥で、何かが弾けた。


「邪魔ぁぁぁ!!」


地面に振り下ろした拳から、凄まじい衝撃が走った。


足にかじりついていた魔物が吹き飛ぶ。


集まってきていた魔物も衝撃波で木っ端みじんになる。


崩れかけた天井すら、まとめて吹き飛ばした。


すでに使い果たしたはずの力。


それを無理やり、身体の奥底から引きずり出していた。


骨が軋む。


視界が白く染まる。


しかし、リナは止まらなかった。


怒りの衝動に突き動かされるまま、獣を殴り、瓦礫を蹴散らし、ついには遺跡の外壁を突き破った。


その拳は青い炎を纏い、残った魔物を纏めて吹き飛ばし、上空まで達する炎は、王都からすら見えたという。


「……カイル……!」


最後に口からこぼれたのは、あの男の名前だった。


怒りだったのか、それとも別の感情だったのか。


自分でも分からなかった。


慌ててこちらに駆け寄ってくる王国の兵士をうっすら確認して、リナは気絶した。





リナが目を覚ましたのは、それから三週間後だった。


無理やり引き出した力の反動で、半分死んでいたらしい。


治療にあたった神官によれば、普通なら3回位は死んでいてもおかしくなかったという。


「……あの男は?」


目覚めて最初に尋ねたのは、カイルのことだった。


しかし、その行方を知る者はいなかった。


遺跡は完全に崩壊しており、生きとし生けるものは何も残っていなかったとのことだった。



そして、彼が最後に滞在していた宿の部屋から、一通の手紙が見つかった。


それが、あのふざけた逃亡宣言だった。


リナは手紙を読み終えると、しばらく黙り込んだ。


そして。


「殺す……絶対に見つけ出してやる」


静かに、そう宣言した。


その表情を見た神官は、なぜか青ざめた。




それから、八か月が過ぎた。


世界は平和になった。


復興は進み、境界の主によって破壊された街にも人が戻り始めた。


英雄リナの名前はますます有名になり、彼女を讃える記念碑まで建てられた。


当の本人はというと、相変わらず一人の男を追いかけていた。


ただし、普通の意味ではない。


「……よし。これでどうかしら」


地下の研究室。


床一面に描かれた複雑な魔法陣の中央で、リナは一枚の手紙を机に置いた。


あれからカイルの行方を調べたものの、国外へ出たという確かな証拠は見つからなかった。


街道の関所にも、港にも、彼らしい男の記録はない。


もちろん、あいつなら人目を避けて逃げるくらい簡単にできるだろう。


なにしろ逃げ足だけは一人前なのだから。


しかし、そう思って探し続けても、一向に手掛かりが掴めなかった。


そこでリナは、発想を変えた。


今どこにいるか分からないなら、過去の居場所を調べればいい。


そこで昔の行動を追っていけば、いずれ現在の居場所も分かるはずだ。


我ながら名案である。


問題は、そんなことができる魔法が存在しないことだった。


「……ないなら、作ればいいのよ」


人に話せば、正気を疑われたかもしれない。


実際、相談を受けた宮廷魔術師は正気を疑った。


時間への干渉は、古くから研究対象ではあった。過去の出来事を再現する術式は理論上存在するが、それは記録された情報を僅かに読み取るだけであり、精度も低かった。


ましてや、一人の人物の過去を自由に追跡するなど、理論上も不可能とされていた。


しかし、リナは諦めなかった。


魔法陣を組み、失敗し、書き直し、また失敗した。


時間の流れを計測する術式を組み上げ、その方向を反転させ、残された魔力の痕跡を過去へと辿る方法を探した。


何度も失敗した。


実験室が爆発したこともあった。


実験に使った花瓶が三日前の状態に戻ったかと思えば、次の瞬間に粉々になったこともある。


それでも、少しずつ成果は出た。


そして、ついに。


「あっ……!」


魔法陣の中央に、淡い光が浮かび上がった。


見慣れた研究室が、ゆっくりと姿を変えていく。


机が消えた。


壁が透けた。


代わりに現れたのは、数か月前の宿屋の一室だった。


成功したのだ。


もっとも、そこに立つことはできなかった。


過去の光景は見えるが、触れることはできない。声も届かない。


その物質やその周囲の時間の流れを遡って観測するだけの、不完全な魔法。


だが、今のリナには十分だった。


「さあ、どこに逃げたのか教えてもらうわよ……!」


凶悪な笑顔を浮かべ、机の上の手紙に魔力を注ぎ込む。


過去の光景が、さらに遡る。


日が落ち、昇り、また落ちる。


部屋の中に、見覚えのある男が現れた。


カイルだ。


「……見つけた!」


リナは思わず声を上げた。


カイルは机に向かい、何かを書いていた。


あの置き手紙だ。


間違いない。


リナは思わず拳を握った。


「さあ、ここからどこに行くのか……」


しかし、次の瞬間。


彼女は首を傾げた。


「……あれ?」


窓の外には、討伐隊の旗が翻っていた。


宿の中庭には、最終決戦へ向かうための荷物が積み込まれている。


カイルが机から立ち上がり、荷物を背負う。


そして、部屋を出ていった。


「…………え?」


リナは、もう一度光景を確かめた。


間違いない。


これは最終決戦へ出発する日の朝だ。


つまり。


「……ちょっと待って」


リナは机の上に置いた手紙を見下ろした。


『いやあ、最後の青い火柱のところは本当に参ったな。』


青い火柱。


境界の主が倒れた後、その亡骸から噴き上がった炎。


それか私が最後にぶち上げた炎か。


いずれにしてもそれは最終決戦の最後の最後に起きた出来事だった。


出発前に知ることなど、できるはずがない。


『あそこでお前を置いて逃げちまったのは悪かったと思ってる。』


それもそうだ。


あの場面を、出発する前から知っていた?


「……どういうこと?」


最初に思いついたのは、計画的な裏切りだった。


最初から自分を囮にするつもりだったのかもしれない。


しかし、だとしたら青い火柱はどう説明するのか。


あれは誰にも予測できなかった、境界の主の最後の悪あがきだったはずだ。


それに、そもそもカイルが逃げると決めていたなら、もっと早く逃げればよかったのだ。


なぜ、最後の最後まで一緒に戦っていた?


「……まさか」


リナは、嫌な予感を覚えた。


カイルは、いつも妙に勘が鋭かった。


危険な場所を避けたがった。


自分が勝てると確信している相手にも、時々、異様なほど強く撤退を主張した。


その判断は、後になって正しかったと分かることが多かった。


もし、あれが勘ではなかったとしたら。


「……未来が、見えていた?」




口にした瞬間、背筋が寒くなった。


同時に、別の疑問が浮かんだ。


未来が見えるのなら。


なぜ、あんなに逃げ回っていたのだろう。


リナは、さらに時間を遡った。


カイルの行動を追った。


一日、二日、一週間。


彼は討伐隊が出発する前、何度も一人で街へ出かけていた。


夜中に抜け出し、明け方になって帰ってくることもあった。


毎回、同じような場所へ向かっている。


王都から少し離れた、古い住宅街。


そこに、彼が借りていた小さな家があった。


リナもその家の存在は知っていた。


だが、何度調べても彼の行方に繋がるものは見つからなかった場所だ。


過去のカイルは、家の奥にある書棚の前に立った。


そして、棚の一部を押し込む。


「……え?」


書棚が、音もなく横に滑った。


その奥には、狭い階段があった。


「……隠し部屋?」


カイルは階段を降りていく。


リナも時間の光景を追った。


そこで目にしたものに、彼女は言葉を失った。


部屋の壁という壁が、紙で埋め尽くされていた。


机の上には、山のような書類が積み上げられている。


床にも、棚にも、椅子の上にも。


数え切れないほどの紙束。


そのすべてに、何かの文字がびっしりと書き込まれていた。


だがぼやけていて見えない。


カイルは椅子に座ると、一枚の紙を引き寄せた。


何かを書き始める。


一度、ペンを止める。


右のこめかみに手を当て、苦しそうに顔をしかめる。


そしてまた、何かを書き込む。


その動作を何度も繰り返した。


机の端には、何本もの折れたペンが転がっていた。


「……何よ、これ」


リナは呟いた。


未来を見ているのだろうか。


だとしたら、何をそんなに書いているのか。


もっと近くで見たい。


だが、過去の光景に触れることはできない。




リナは術式を解いた。


そして、その日のうちにカイルの家へ向かった。


隠し部屋は、過去の光景で見たとおりの場所にあった。


書棚を動かし、階段を降りる。


長い間閉ざされていたらしい、乾いた空気が頬を撫でた。


部屋の中は、驚くほど静かだった。


そして、そこには。


時間魔法で見たものと、まったく同じ光景が残されていた。


膨大な書類。


壁に貼り付けられた図面。


床を埋め尽くす紙束。


ただ、違っていたのは、そこにカイルがいないことだけだった。


リナは、机の上の一枚を手に取った。


『西側街道を選択。三日目、魔物の襲撃。リナ死亡。』


「…………」


次の紙。


『東側を選択。渡河中に橋が崩落。リナ死亡。』


さらに次。


『野営地を変更。翌朝、討伐隊が包囲される。リナ死亡。』


『敵本隊への奇襲を中止。境界の崩壊が進行。リナ死亡。』


『単独での先行偵察を提案。リナが追跡。リナ死亡。』


「……何、これ」


ページをめくる。


そこには、見覚えのある地名や、覚えのある戦闘の記録が並んでいた。


しかし、どれも少しずつ違っていた。


通った道が違う。


戦う相手が違う。


野営した場所が違う。


同じ戦闘でも、誰がどこに立っていたかが違う。


そして、そのほとんどが。


『リナ死亡。』


『リナ死亡。』


『リナ死亡。』


その文字で終わっていた。


リナは、別の紙束を掴んだ。


『能力を本人に説明。リナが作戦変更。死亡。』


『能力を本人に説明し、戦闘を回避。境界の主が成長。死亡。』


『討伐隊から離脱。リナ単独で最終決戦へ。死亡。』


『自分が同行しない場合。リナ死亡。』


『リナを戦場から遠ざける。世界崩壊。リナ死亡。』


「……嘘」


声が震えた。


カイルは、ずっと未来を見ていた。


それも、一つや二つではない。


あらゆる選択肢を試していた。


自分が行動を変えれば何が起きるか。


別の道を選べば、誰が生き残るか。


そして、どの未来でも。


自分が死んでしまう。


「……何よ、これ……」


さらに紙束をめくる。


最初のころの記録は、整った文字で書かれていた。


細かい状況分析や、敵の行動予測まで記されている。


しかし、後になるほど文字は乱れていた。


似たような未来が、何度も何度も繰り返されている。


ほんの僅かに条件を変えた記録。


一刻だけ出発を早める。


夜営の順番を入れ替える。


魔法を使うタイミングを変える。


敵を倒す順番を変える。


そのたびに、違う未来が記されていた。


けれど最後は、ほとんど変わらない。


リナは、そこで初めて気づいた。


机に転がっているペンの一本。


持ち手の部分が、黒ずんでいた。


乾いた血だった。


強く握り続けたためだろう。軸には指の形に沿って赤黒い染みが残り、机の上の紙にも、ところどころ血のついた指の跡があった。


カイルは、どれほどの時間、ここに座っていたのだろう。


何度、未来を見たのだろう。


何度、自分の死を見たのだろう。


リナは、床に膝をついた。


紙束の山は、いくらめくっても終わらなかった。


その中には、幼いころの出来事まで記されたものがあった。


『北の森。リナ転落。回避。』


『川遊び。増水。リナ死亡。回避。』


ずっと昔の記録だった。


リナは覚えていた。


子供のころ、川に遊びに行こうとした自分を、カイルが無理やり森の方へ引っ張っていった日がある。


結局、二人とも泥だらけになって帰り、村の大人に叱られた。


自分は、いつまでもそのことをからかっていた。


あのときも。


もしかして、あのときから。


「……ばか」


ぽつりと声が落ちた。


「……なんで、言わないのよ」


返事はなかった。


ただ、机の上には、あの男が一人で積み上げた膨大な記録が残されていた。


最後の紙束は、別の棚に置かれていた。


他の記録とは違い、丁寧に紐で束ねられている。


その表紙には、短くこう書かれていた。


『最終案』


リナは、震える指で紐を解いた。


『境界の主の核を破壊。成功。』


『残党出現。遺跡崩壊開始。』


『東側回廊。落盤。』


『白い回廊で分岐。』


『リナを退避路へ押し出す。』


『自分は魔獣を誘導。』


そこまでは、実際に起きた出来事だった。


リナは息を止めた。


『リナ、魔力限界を突破。』


『西側外壁を破壊。脱出成功。』


『リナ、意識喪失。生存を確認。』


そして。


『自分、右眼喪失。』


『魔獣に捕捉される。』


『逃走不能。』


『死亡。』


最後に、小さく一文が書き添えられていた。


『現状唯一の生存ルート』


リナの手から、紙が滑り落ちた。


「…………嘘、でしょ」


思い出した。


あの日、カイルは自分を突き飛ばした。


反対側の回廊へ走っていった。


自分を置いて、一人で逃げたのだと思っていた。


でも、違った。


カイルは最初から、逃げるつもりなどなかったのだ。


自分を逃がすために。


魔獣たちを、別の方向へ引きつけるために。


一人で残ったのだ。


「……じゃあ、あの手紙は……?」


国外逃亡。


自分が逃げたという告白。


ふざけた調子の、あの置き手紙。


全部、嘘だった。


カイルが死んだと知れば、自分はきっと苦しむ。


自分を助けるために死んだと知れば、もっと苦しむ。


だから、あいつは。


最後の最後まで、嫌われ者でいるつもりだったのだ。


「……何よ、それ」


いつものように、馬鹿な男だと罵ってやろうと思った。


だが、声が出なかった。


代わりに、涙が落ちた。


一滴。


また一滴。


カイルの記録の上に、丸い染みが広がっていく。


「……あんた、ほんとに……クソバカよ」


そこで、言葉が途切れた。


リナは、紙束を抱きしめた。


ずっと、あいつは逃げているのだと思っていた。


危険から。


面倒事から。


戦いから。


けれど本当は、ずっと。


自分が死んでしまう未来から、逃がしてくれていた。


どれほど泣いていたのか、分からない。


やがてリナは顔を上げた。


涙を拭い、机に置かれた手紙を見た。


カイルの最後。


彼が自分を逃がした後、何が起きたのか。


まだ、見ていない。


「……このままで終わる?」


過去は変えられない。


時間魔法を研究していたリナ自身が、誰よりもよく分かっていた。


過去を見ることはできる。


そこにある物に触れることも、声を届けることもできない。


どれだけ力を注いでも、その制限だけは覆らなかった。


それでも。


自分のために死んだ男が、どのような最期を迎えたのか。


せめて、それだけは知っておきたかった。


リナは隠し部屋の床に、魔法陣を描いた。


書類を端へ寄せ、持ってきた手紙を中央に置く。


彼が最後に書いた記録も、その隣に置いた。


魔力を注ぎ込む。


淡い光が部屋を満たす。


そして、時間が逆行した。


崩れゆく遺跡。


無数の魔獣。


そして、走る男の背中。


リナは、カイルが自分を突き飛ばした直後の光景を見ていた。


「俺は先に逃げる!」


あの日と同じ声が響く。


カイルは反対側の回廊へと駆け出した。


しかし、リナが覚えているのは、そこまでだった。


今なら、その先が見える。


カイルは走りながら、折れた剣を壁に叩きつけた。


金属音が響く。


魔獣たちが一斉に振り向いた。


「ほらほら! こっちだ、化け物ども!」


カイルが叫ぶ。


魔獣の群れが彼を追い始めた。


一匹。


二匹。


十匹。


さらに奥から現れた獣たちまで、カイルを追っていく。


彼は笑っていた。


いつもの、あのふざけた顔で。


「いやぁ、人気者はつらいねぇ!」


「……こんな時まで……」


リナは呟いた。


カイルは走った。


しかし、すでに力を使い果たしていた彼に、いつものような余裕はなかった。


足がもつれる。


息が切れる。


それでも、魔獣たちを引きつけながら、リナが逃げたのとは反対方向へと走り続けた。


やがて、激しい衝撃とともに天井が崩落した。


カイルが床を転がる。


「ぐっ……!」


崩れた石材が脚をかすめ、血が飛び散った。


それでも彼は立ち上がった。


足を引きずりながら、さらに奥へと進む。


しかし。


「……っ!」


背後から飛びかかった魔獣の爪が、カイルの顔を引き裂いた。


右目から、血が噴き出した。


「……あ、あああっ!」


彼は片目を押さえて倒れ込んだ。


折れた剣が床を滑っていく。


魔獣たちが、ゆっくりと近づいてきた。


カイルは壁に背中を預けた。


呼吸が荒い。


身体中が傷だらけだった。


もう、まともに立ち上がることすらできそうになかった。


「……ああ、そうか」


彼は血に濡れた右目に触れた。


そして、小さく笑った。


「……見えないってこういうことか」


リナは息を呑んだ。


片方の目。


あの目で、未来を見ていたのだ。


失われた右目は、もう何も映していない。


カイルはしばらく黙っていた。


やがて、左目だけで崩れかけた天井を見上げた。


「……青い炎、か」


遠くで轟音が響いた。


遺跡の奥から、眩い青い光が噴き上がる。


カイルは、それを見て安堵したように息を吐いた。


「……よし」


力の抜けた声だった。


「……ちゃんと行けたな。多分だけど」


リナは口元を押さえた。


男は、もう自分の未来を見ることができない。


それでも、事前に見た光景と同じ出来事が起きていることを確かめ、彼女が無事に逃げ切ったと信じたのだ。


カイルは懐を探った。


取り出したのは、小さな硝子瓶だった。


透明な液体が、僅かに揺れている。


「……何、それ」


リナが呟く。


答える者はいない。


しかし、すぐに分かった。


毒だ。


この先、自分がどうなるかを知っていた。


魔物たちに捕まり、ゆっくりとなぶり殺しにされる未来。


逃げ道もない。


助けも来ない。


だから、せめて苦しまないように。


そういうことだった。


「……やめて」


リナは手を伸ばした。


だが、その手は過去の男をすり抜けた。


「やめなさいよ……!」


カイルは震える手で瓶の蓋を開けた。


「……まあ、俺にしては上出来だろ」


彼は、小さく呟いた。


「あの世でシバかれるかなぁ」


そして。


「……じゃあ、行くか」


瓶を口元へ運んだ。


「やめてぇぇぇ!!」


リナは叫んだ。


届かない。


分かっていた。


過去には触れられない。


何度試しても、何百回研究しても、決して越えられなかった壁だった。


それでも、リナは叫んだ。


魔力を注ぎ込んだ。


さらに注ぎ込んだ。


魔法陣が軋む。


術式が崩れ始める。


構わなかった。


「カイル!!」


過去の男が、僅かに顔を上げた。


「…………えぇ?」


リナは息を呑んだ。


男が、こちらを見ている。


「……リナ?」


カイルの手が止まった。


彼の目の前に、淡い光をまとったリナの姿が浮かんでいた。


半透明の、今にも消えそうな姿。


しかし確かに、彼女だった。


「……おいおい」


カイルは、呆然と呟いた。


「……なんで、お前がここに? え、幽霊?」


「……違うわよ!」


「いや、待て。お前は今頃、外に逃げて……」


「逃げたわよ! 八か月も前にね!」


「……は?」


カイルが間抜けな声を上げた。


リナは涙を流しながら、怒鳴った。


「戻ってきたのよ! 全部見たわよ! あんたの隠し部屋も! あの山みたいな記録も!」


「…………」


カイルの顔から、笑みが消えた。


「……あー」


困ったように、頭を掻こうとする。


しかし腕が上がらず、そのまま下ろした。


「……ばれた?」


「ばれた?、じゃないわよ! この大ボケ!!」


リナは怒鳴った。


「なんで言わなかったのよ! なんで一人で全部決めたのよ! なんで私を置いていくのよ!」


「……いやぁ」


カイルは、困ったように笑った。


「……言ったら、お前、死んじまうんだよ」


「…………」


「どんなにやり直しても、何を変えても、そうなるんだ。……あれしか、なかったんだよ。なんか勝手に決めてすまんな」


リナは唇を噛んだ。


分かっていた。


あの膨大な記録を見たのだから。


カイルが、どれほどの可能性を探したのか。


どれほどの未来を諦めたのか。


全部、分かっていた。


でも。


「……それでも」


声が震えた。


「……それでも、勝手に決めないでよ……」


カイルは何も言わなかった。


ただ、少しだけ悲しそうに笑った。


「……悪かったな」


その言葉で、何かが切れた。


「謝るくらいなら、生きて帰ってきなさいよ!!」


リナは叫んだ。


「逃げ足だけは一人前なんでしょ!? だったら逃げなさいよ! 何でそこで諦めるのよ!」


「……いや、それは」


カイルは周囲を見た。


魔獣たちが、こちらへ近づいてきている。


天井は崩れかけ、身体は傷だらけだ。


「……さすがに、ちょっと無理があると思うんだけどねぇ」


「知らないわよ!!」


「いや、知らないって……」


「今まで散々逃げ回ってたくせに! こんなときだけ諦めるんじゃないわよ!! ふざけんじゃないわよ!!!」


カイルは、ぽかんと口を開けた。


そして。


「……ははっ」


小さく笑った。


「……まったく、無茶苦茶だな、お前は」


「何よ!」


「いや、ほんと……ゴリラだなぁって」


「誰がゴリラよ!!」


いつものやり取りだった。


何度も繰り返してきた、くだらない喧嘩。


けれど、その声が届くことが、今は何より嬉しかった。


カイルは、ゆっくりとリナを見つめた。


「……なあ、リナ」


「……何よ」


「俺、もう未来が見えないんだ」


彼は潰れた右目に触れた。


「ここから先、どうなるか分からない。逃げられるかどうかも、分からないんだよ」


「……だから何よ」


「……お前が来る未来も、知らなかった」


カイルは笑った。


「俺が見た未来には、お前はいなかった。……だから、もう俺にも何が正しいのか分からない」


「……だったら」


リナは、涙を拭った。


「……今度は、私を信じなさいよ」


カイルが目を見開いた。


「……私が、帰ってこいって言ってるの」


その瞬間。


リナの身体が、淡く透け始めた。


「……っ!」


時間が、限界を迎えようとしていた。


術式が崩れる。


繋がっていた過去が、少しずつ遠ざかっていく。


「待って!」


リナは叫んだ。


「カイル! 絶対に、絶対に帰ってきなさいよ!」


「……おい、リナ!」


「帰ってこなかったら、許さないんだから! 地獄でゆっくりできるだなんて思わないことね!!!」


男の姿が遠ざかる。


声が薄れていく。


最後に見えたのは、カイルの顔だった。


彼は、泣きそうな顔で。


それでも、いつものように笑っていた。


「……まったく」


その手の中には、まだ小さな硝子瓶があった。


「……しょうがねぇお姫様だなぁ」


そこで。


時間が、途切れた。


「……っ!」


リナは目を覚ました。


冷たい床の上だった。


カイルの隠し部屋。


魔法陣は黒く焼け焦げ、床には細かな亀裂が走っていた。


身体が動かない。


魔力を使い果たしたのだ。


それだけではない。


もっと根本的な、何かが失われていた。


「……あ……」


時間が、見えない。


今までは意識を向ければ、僅かにでも感じ取ることができた、時間の流れ。


それが、完全に消えていた。


「……嘘……」


リナは震える手を伸ばした。


術式を組み直そうとする。


だが、何も起きなかった。


時間へと繋がっていた感覚が、跡形もなく失われていた。


「……もう、駄目なんだ……」


過去へは戻れない。


もう二度と。


最後に見たカイルは、死にかけていた。


毒を手放したかどうかさえ分からない。


仮に飲まなかったとしても、あの状況から生き残れるとは思えなかった。


結局、自分には何もできなかったのかもしれない。


「……」


涙が溢れた。


「……大馬鹿野郎……」


床に手をつき、うなだれた。


どれほど、そうしていただろう。


ふと、机の上に置いていた手紙が目に入った。


「あれ……?」


何かがおかしかった。


手紙が、違う。


ずっと持ち歩いていた、あのふざけた逃亡宣言。


何度も読んだ。


何度も握りしめた。


だから、間違えるはずがない。


そこに置かれていたのは、別の手紙だった。


封筒こそ似ていたが、紙も、文字の並びも違う。


リナは震える手でそれを開いた。


『リナへ。


 改まって手紙を書くのも変な話だけど、今まで言えなかったことを、ちゃんと伝えておこうと思う。


 まずは、ありがとう。


 小さいころから、ずっと俺と一緒にいてくれて。


 変な子供なのに付き合ってくれたのはお前だけだったよ。


 お前と過ごした時間は、俺にとって何より大切なものだった。


 喧嘩もしたし、散々ひどい目にも遭ったけど、振り返ってみれば楽しいことばかりだった気がする。


 俺は、お前の笑っている顔が好きだった。


 お前が怒っている顔も、泣いている顔も、全部覚えてる。


 ……いや、泣いている顔は、できればあまり見たくないけどな。


 ずっと言えなかったけど。


 俺は、お前のことが好きだった。


 子供のころから、ずっと。


 今も、変わらずに。


 お前が幸せでいてくれることが、俺の一番の願いだ。


 俺と出会ってくれて、ありがとう。


 どうか、これからも笑っていてほしい。


 カイル』


「…………」


リナは、手紙を見つめた。


何度も、読み返した。


そこには、もう逃亡の言い訳など書かれていなかった。


ふざけた軽口も、ほとんどない。


ただ、彼の本当の気持ちが綴られていた。


「あ……ああ……」


涙が、ぼろぼろと零れ落ちた。


最後の時間魔法が、何かを変えたのだろうか。


自分の声が、届いたから。


その未来を見て、手紙を変えたのか……


カイルが、最後に本当の気持ちを伝えようと思ってくれたのだろうか。


けれど。


「……何よ、これ……」


こんなもの。


こんな手紙。


「……ずるいじゃない……」


好きだった。


ずっと好きだった。


そんなことを、今さら。


そんなことを、もう会えない相手から聞かされて。


「……私だって……」


言葉が、うまく出てこなかった。


「……私だって、あんたのこと……!」


リナは手紙を胸に抱きしめた。


声を上げて泣いた。


英雄と呼ばれたことなど、どうでもよかった。


世界を救ったことも。


王から与えられた褒賞も。


何もかも。


ただ、あの男に会いたかった。


一度でいい。


もう一度だけ。


あの馬鹿みたいな笑い声を、聞きたかった。


そのときだった。


背後から。


ふわりと、腕が回された。


「……いやぁ」


聞き覚えのある声がした。


「……そんなに泣かれるとは思わなかったなぁ」


「…………え?」


リナの身体が、固まった。


心臓が止まりそうになった。


聞き間違えるはずがない。


何年も、何十年も聞いてきた声だった。


「……まあ、何というか……」


声の主は、少し困ったように笑った。


「……ただいま?」


リナは、ゆっくりと振り向いた。


そこにいたのは。


「…………カイル?」


「おう」


男は、いつものように笑った。


ただし、その顔には大きな傷跡があった。


右目には黒い眼帯。


身体中に包帯が巻かれ、片脚を少し引きずっている。


それでも。


間違いなく、カイルだった。


「……あんた……」


「いやぁ、帰るのにずいぶん時間がかかっちまってさ」


「……生きて……?」


「まあ、なんとかね」


リナは、震える手を伸ばした。


男の頬に触れる。


温かかった。


透けてもいない。


ちゃんと、そこにいた。


「……どうして……」


「いや、ほら。帰ってこいって言われたからさ」


カイルは、少し照れたように笑った。


「……頑張ってみた」


「…………」


「まあ、途中からは本当に運任せだったけどね。毒を折れた剣に塗ったら、案外よく効いてさ。まあ、あとは崩れた壁の隙間からどうにか抜け出して、その先でまた落っこちて……」


「…………」


「運よく通りかかった旅商人に拾われたんだけど、ひどい怪我だったもんでさ。国境近くの治療院で何か月も寝込んでたんだよ。まともに喋れるようになったのも、つい最近で――」


「…………」


「……リナ?」


男の説明が途切れた。


リナが、じっと彼を見つめていたからだ。


「……どうした?」


「……あんた……」


「……うん?」


「……生きてたの……?」


「そう見てない?」


「……じゃあ……」


リナは、手紙を持ち上げた。


「……この手紙は?」


「ああ、それ?」


カイルは、少しだけ視線を逸らした。


「……いや、その、さ」


珍しく、歯切れが悪かった。


「前の手紙、あれは全部嘘だったろ?」


「…………」


「そろそろ本当のことを言わなきゃいけないと思ったんだけど……」


カイルは、頭を掻いた。


「……面と向かって言うのも、なんか恥ずかしくてねぇ」


「…………」


「それで、手紙にしようと思ったんだよ」


「…………」


「この家に帰ってきたら、お前がなんだかすごい魔法を使っててさ。声をかけても反応がないし、ちょうどいいから書いておいた手紙を置いとこうかと」


「…………」


「あ、前のはちゃんと回収しておいたから。あんなの、もう必要ないだろ?」


リナは、無言で手紙を見た。


もう一度、最初から最後まで読み直した。


『今まで言えなかったことを、ちゃんと伝えておこうと思う。』


『お前と過ごした時間は、俺にとって何より大切なものだった。』


『俺は、お前のことが好きだった。』


『お前が幸せでいてくれることが、俺の一番の願いだ。』


『どうか、これからも笑っていてほしい。』


「…………」


リナの肩が、ぷるぷると震え始めた。


「……ねえ、カイル」


「……ん?」


「……一つ、聞いていい?」


「おう。何でも聞いてくれ」


リナは、手紙を突きつけた。


「この文章、どう見ても遺書じゃない!!!」


「…………」


カイルは、手紙を受け取った。


一行目から、ゆっくりと読み直した。


二行目。


三行目。


最後まで。


そして。


「…………」


少し考えて。


「…………確かに……!!」


「こんのアホンダラァァァ!!」


リナの拳が振り上げられた。


カイルは、反射的に身をすくめた。


しかし。


拳は、振り下ろされなかった。


代わりに。


「……ばか」


リナが、男の胸に顔を埋めた。


「……ほんっとに、ばか……」


カイルは、しばらく目を丸くしていた。


やがて、ゆっくりと腕を回した。


「……悪かったよ」


「……もう、勝手にいなくならないでよ……」


「……ああ」


「……約束して」


「……分かった」


カイルは、彼女の頭を撫でた。


しばらく、二人はそのままでいた。


長い沈黙だった。


けれど、不思議と居心地は悪くなかった。


やがて、リナが顔を上げた。


「……ねえ」


「ん?」


「……もう、未来は見えないの?」


カイルは右目の眼帯に触れた。


「ああ。これっぽっちも」


「……そっか」


「……まあ、もう未来が見えないからな。今度はもうお前から逃げきれないだろうさ」


カイルは、いつものように笑った。


リナは少し考えた。


そして、にやりと笑った。


「……じゃあ、今度は私が未来予知を覚えようかしら」


「…………」


カイルの笑顔が、固まった。


「……いや、ちょっと待て」


「何よ?」


「……お前、まさか」


「時間魔法を作れたんだから、未来予知だって何とかなるかもしれないじゃない?」


「…………」


カイルは真顔になった。


そして、心の底から言った。


「……本気でできそうだからやめてね」


「逃げなきゃいいのよ」

ちょっと思いついた小ネタを出しました

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