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え、家ですか?継ぎませんよ?

作者: 花庫
掲載日:2026/09/26

夕暮れ時、魔法光でぼんやりと灯る領主館の執務室に、分厚い書類の束が叩きつけられる音が響いた。


「なんだこの大雑把な魔導会計報告は! 王都の文官たる私の目をごまかせると思っているのか! そもそも、貴族の妻でありながら領地の魔導事業にしゃしゃり出ること自体、浅ましいとは思わなかったのかね、アルメリア!」


机の向こうで怒声を上げるのは、十年ぶりに王都勤めから帰領した父、レナード子爵だった。

長男である私、アレンが成人したのを機に爵位を譲り、悠々自適の隠居生活を送るつもりで戻ってきた男だ。……帰ってきた瞬間から、我が家に地獄のようなモラハラとパワハラの日々が訪れることになったのだが。


父の怒声に対し、母アルメリアは優雅に魔力保温の効いた紅茶を口に含み、静かにカップを置いた。その背筋は美しく伸び、取り乱す様子すらない。


「あなた。その報告書にある『魔導水車による自動紡績機』も『氷結属性の魔石を使った温室栽培』も、すべて私がこの十数年で立ち上げた事業の収益ですのよ。王都からの雀の涙ほどの送金だけでは、領民を養うことすらできませんでしたもので」


「口答えをするな! 夫の送金を『雀の涙』だと!? 養ってもらっている立場でありながら、なんという言い草だ!」


真っ赤になって怒鳴り散らす父を、私は冷ややかな目で見つめていた。

扉の隙間からは、妹のセシリアと弟のルーカスが、心底蔑むような目線で父を覗き込んでいる。


(……相変わらず惨めな男だな、あの男は)


父は知らないのだ。

このモントフォール子爵家を裕福にした知恵のすべてが、母のものであることを。

そして——母が「異世界からの転生者」であるという秘密を。


母はこの世界にはない「現代日本の科学知識」を、この世界の「魔導技術」と掛け合わせることで、潰れかけていた子爵領を王国屈指の豊かな地に変えた。母はその秘密を隠しているつもりだったが、幼い頃から母の「現代知識によるうっかり」を目撃してきた私たち三兄弟は、とうの昔にその秘密に気づいていた。そして、母の努力と苦労を一番近くで見てきたからこそ、私たちは母を世界で一番尊敬していた。


それなのに。王都で大した手柄も立てられず、ただ文官としてのプライドだけを膨らませて帰ってきた父は、顔を合わせれば母への暴言と、魔法技術者や使用人たちへの理不尽な威圧を繰り返す。

使用人たちも、既に全員が父に対して限界を迎えていた。


その日の夜、父が自室で酒をあおっている頃、母の部屋に私たち三人が集まった。


「アレン、セシリア、ルーカス。急な話で申し訳ないのだけれど……お母様、あの人とは離縁することにしました」


母は申し訳なさそうに、一枚の手紙をテーブルに置いた。

それは母の実家であるロレイン子爵家——現在は母の弟、叔父様が継いでいる領地からのものだった。


『姉上。父上が亡くなった今、姉上が我慢する必要などどこにもありません。子爵家を出て戻ってきなさい。子供たちが望むなら、三人とも喜んで迎えます』


「お母様……!」

妹のセシリアが叫んだ。

「当然です! あんな身勝手で威張るだけのお父様なんて、こちらから捨ててやりましょう!」

「そうだよ」と弟のルーカスも頷く。「お母様が作った魔導回路の特許も事業も、あの人には何ひとつ扱えない。僕たちも全員、お母様について行くよ」


私は母の手を優しく握りしめた。

「母さん。俺は子爵家を継ぐことなんて、どうでもいいんです。俺たちが守りたいのは、モントフォール子爵家の家名じゃない。母さんです。俺も母さんについて行きます」


母は一瞬驚いたように目を見開き、やがて瞳に涙を溜めて微笑んだ。

「ありがとう……みんな。でも、大丈夫よ。ただ出て行くだけじゃ、私の気が済まないもの。あなたたちも、子爵領の民も私が守るわ。」


母の目の奧に、転生者特有の「覚悟を決めた理系の光」が宿るのを私は見逃さなかった。

母の反撃——「離縁準備」が始まった。


◇


母の離縁工作は迅速かつ苛烈だった。

まず、領内の全魔導事業の知的財産権、魔法陣の設計特許、そして主要な取引先との契約関係を精査。それらの多くは「子爵家」ではなく、「アルメリア個人」または「母の実家であるロレイン子爵家」の名義で結ばれていた。母は嫁いできた当時から、万が一の時のために手回しをしていたのだ。


さらに強力な助っ人が現れた。

隣領を治めるローゼンベルク伯爵家の次男、ギルバート様だ。高位の風属性魔法使いであり、伯爵家の財政も任されている切れ者である。


「アルメリア、ついに決断してくれたんだね。……長かった」


伯爵家の豪奢な飛空魔導馬車から降り立ったギルバート様は、母の幼なじみであり、昔からずっと母に想いを寄せていた男性だ。母が不憫な結婚生活を送っている間も、密かに魔法素材の流通や法的な面で母を支え続けてくれていた。


「ギルバート、ごめんなさい。またご迷惑をおかけして……」

「何を言っているんだ。君と子供たちが幸せになれるなら、私の領地の財力も騎士団も法務官も、すべて好きに使ってくれて構わない」


ギルバート様は母の手を取り、至極真面目な顔でそう言った。目線が完全に情熱的な騎士そのものだ。私たち三兄弟は顔を見合わせ、「早く母さんと結婚すればいいのに」と無言のアイコンタクトを交わした。


ギルバート様の協力により、王都の法務審議会へ「夫の不貞(王都での愛人発覚)、不勤勉、および領地経営における著しい無能さ」を理由とした離縁申請書が提出された。父が王都でこっそり作っていた違法な魔石の買収による借金の証拠も、ギルバート様の手下が見事に突き止めてくれた。


◇


そして、決戦の日。


父は機嫌よく執務室で高級ワインを飲んでいた。私に爵位を譲る手続き書類にサインをさせ、自分は子爵家の豊富な財産で優雅に暮らす……そんな皮算用をしていたのだろう。


そこへ、母、私たち三兄弟、そしてギルバート様と王都から派遣された法務官が足を踏み入れた。


「なんだ、騒々しい。アルメリア、お客様の前だぞ……って、ローゼンベルク伯爵家のギルバート殿!? なぜここに……」


慌てて立ち上がる父に、法務官が冷淡に書類を突きつけた。


「レナード・モントフォール子爵。アルメリア夫人からの離縁請求および、財産分与・事業返還の異議申し立てが受理されました」


「は……? 離縁!? なにをバカなことを! アルメリア、貴様正気か!? 私に捨てられたら生きていけないのだぞ!」


母は冷ややかな微笑みを浮かべ、一枚の目録を机に置いた。


「あなた。あなたが『大したことない』と仰っていた子爵領の事業ですが……魔法温室の制御回路特許、魔導織物の販売ルート、そして主要な魔石醸造所の所有権は、すべて私個人の財産です。本日をもって、それらすべてを私の実家と、ご協力いただくローゼンベルク伯爵家へ移管します」


「な……ッ!? 何を言っている!? それを取ったら、この子爵家に何が残るというのだ!」


「何も残りませんよ」と、私が一歩前に出て言った。


「父上。あなたが王都で溜め込んだ多額の借金と、魔力が枯渇して誰も買い手のつかない痩せた土地だけが残ります。あ、それから技術者や使用人たちですが……本日をもって全員が辞表を提出し、母さんの新しい領地へ移籍することになりました」


「な、なんだと……!? アレン! お前は何を言っている! お前はこの家を継ぐのだろう!?」


「継ぎませんよ、そんな泥船」

私は吐き捨てるように言った。

「俺も、セシリアも、ルーカスも、全員母さんについて行きます。あなたのような人と家族でいること自体、反吐が出るほど嫌だったんです」


「バ……バカな! 子を育ててやった親に向かって! 恩知らずどもめ!」


父が狂ったように怒鳴り散らし、腕を振り上げて母に襲いかかろうとした。しかし次の瞬間、ギルバート様が放った不可視の風魔法の圧迫感によって、父はその場に膝をついた。


「レナード殿。これ以上、私の大切なアルメリアと子供たちに無礼を働くなら、伯爵家の名において君の王都での不正をすべて公表することになるが……どうするね?」


「くっ……あ、ああ……」


顔を真っ青にし、ガタガタと震えながら崩れ落ちる父。

十数年、家族を放置し、たまに帰ってくれば威張り散らし、他人の功績を自分のものだと錯覚していた哀れな男の末路だった。


◇


それから数ヶ月後。


モントフォール子爵領は、主要な産業も魔導技術も人材もすべて失い、一気に衰退した。父は王都での借金を返すために屋敷や土地を切り売りし、今や一人で荒れ果てた屋敷で惨めな生活を送っているらしい。誰も彼を助ける者はいない。


一方、私たちは母の実家であるロレイン子爵領、そしてギルバート様の伯爵領の隣接地域で、新たな生活を始めていた。


「アレン、この新しい温室の温度管理だけど、もう少し魔法陣の出力を調整できるかしら?」

「お母様、僕がやるよ! 魔法計算なら任せて!」

「あ、ルーカスズルい! 私も手伝う!」


楽しそうに笑い合う母と弟妹たち。

その傍らには、すっかり我が家に馴染み、母に甲斐甲斐しく焼き菓子を勧めているギルバート様の姿があった。


「アルメリア、街で評判の洋菓子店から買って来たんだ。君の故郷(※母が昔言っていた異世界の記憶)の味に似ていると思うんだが……」

「まあ、ギルバート。ありがとう、嬉しいわ」


頬を染める母を見て、私たち三人は顔を見合わせてクスクスと笑った。


(爵位や地位なんて、最初からどうでもよかった)


太陽のような母の笑顔と、魔法のように賑やかで温かい家族の日常。

それさえあれば、私たちはどこでだって幸せになれるのだから。

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