07 シジミの恩返し
夜になってもトリスタンは戻ってこなかった。アンジュは彼を探しに出たが、市場はもう閉まっていたし、湖の周囲も静まり返っている。何が起こったのだろう。過去視をしようにも、本人が目の前にいないとできない。
(もしかして、賞金稼ぎに攫われた?)
恐ろしい想像に足が止まり、彼女は遊歩道のベンチに座り込んでしまった。すると、眼鏡がピョンっと膝に飛び乗ってきた。
「グレース!」
『ご主人様が拉致されました!犯人は金髪碧眼の女。身長169センチ・体重56キロ、B98、W58、H98。年齢は不明です』
眼鏡のガラス面に、文章が怒涛のように流れる。アンジュは顔を顰めた。
「まさか、自分からついて行ったんじゃ…」
『違います。薬物を空気中に撒いて、ご主人様を気絶させました』
グレースは一部始終を映した。信じられない程胸の大きな女が、彼の腕に縋った途端、視界が地面になる。倒れて気を失ったようだ。だが眼鏡はその後の会話も聞いていた。
<ルマリの娘の方は?>
<今夜、再度接触を試みるそうです>
奴らの目的は、トリスタンとアンジュ、両方だ。胸毛の男に見つかる前に、トリスタンを救い出さねば。でもどうやって?ーー考え込んでいると、グレースが袖を引いた。
『左前方、シジミが落ちています』
「暗くて見えない」
『私をかけて下さい』
言われるままに眼鏡をかける。すると、昼間のように明るく見えた。確かに、遊歩道に並行する道路に、小さな貝が1つ落ちていた。
『馬車の振動で溢れ落ちたと推測。おおよそ10メートル間隔で落ちています』
「じゃあ、これを辿っていけば良いのね」
アンジュは点々と落ちた貝を目印に歩き始めた。
◇
トリスタンは真っ暗な場所で目を覚ました。両手首を後ろで縛られ、絨毯の上に転がされている。足首も同様なので起き上がれない。
(油断した。俺もお尋ね者だったのに。何とか、アンジュに逃げろと伝えなきゃ)
縄目を解こうと、必死にもがいてみたが、少しも緩まない。すると、目の前の扉が開いて光が差し込んだ。
「気分はいかがですか?トリスタン殿下」
ランプを持った男と、あの金髪女が入ってきた。男はランプと食事が載ったトレイを床に置いて出ていった。
「お腹が空いたでしょう。もう夜中ですもの。羊の腸詰めパイをお持ちしました。さあ、どうぞ」
女は跪いて、フォークに刺したパイを彼の口元に差し出した。流暢なブリタニア語だし、こんな料理を出す所を見ると、同胞のようだが、味方とは思えない。トリスタンは顔を背け、
「無礼者。まずは身分と名を名乗れ」
わざと高慢に言った。女は立ち上がり、優雅に貴婦人の礼をとった。
「これは失礼いたしました。私はヒスパニア貴族、バンデラス伯爵に仕えるエマニエルと申します。敵ではございません…と言いたい所ですが、それは殿下次第です」
「私が死んだとて、大ブリタニアには何の痛手も無い。疾く首を取るが良い」
「急いではいけませんよ。まずは我が主人の話を聞いて下さいませ」
そう言って、女はドアを開けた。すぐに昼間のヒスパニア野郎が入ってくる。トリスタンは奴の喉笛を掻っ切りたい衝動を抑えた。開けた胸元には金の鎖、指には宝石の指輪と、更に豪華な装いで、実にムカつく。
バンデラス伯爵は、無様に転がる王子に慇懃な礼をした。
「手荒な真似をして申し訳ない。こうでもしないと、殿下と交渉できないので」
「交渉だと?」
「さよう。貴方をコルカタまで責任を持ってお送りします。その代わり、協力していただきたい。“シンドラの星”はご存知か?」
自分だけ椅子に座り、美女が差し出すワイングラスを受け取る。すっかり奴のペースだ。トリスタンはますます不愉快になった。
「知らん」
「ルマリの娘が持つ、スターサファイヤですよ。簡潔に言いましょう。シンドラ皇帝の秘宝、山分けしませんか?」
「話が読めんな。勝手に奪い取れば良いだろう」
「そう単純じゃないんです。ここからはエマニエル、頼む」
金髪美女が進み出て、小さな本を広げて見せた。ラテン語で、摩訶不思議な文章がぎっしり書かれている。白い指がその一部分を指した。
<×××は天空神殿にあり。シンドラの星に従え。アーサー王の血×××××を捧げよ。さすれば×××は開かれる>
擦れて読めない文字が多い。だが不吉な意訳が出来る。
「俺の血を捧げれば宝物庫が開くようだな。1パイントか?しかし、ここはシンドラだ。なぜアーサー王が出てくる?」
「天空神殿は、大魔法使いマーリンが作ったと言われています。ここがブリタニア領となる未来を予知していたのでしょう。私の一族は、この予言を数百年以上、守ってきました。相応しい者に秘宝を託すために」
トリスタンは絶句した。伝説上の人物が、王子の総督就任を知っていたなど。到底信じられない。女は本を閉じ、バンデラス伯爵が再び話し始めた。
「お分かりいただけたかな?殿下の血なんぞ、何パイントでも奪える。でも、しません。マーリンの時代と今とでは、世界が違いすぎるからですよ。古代だったら、巨万の富があれば皇帝になれたでしょう。だが今、継承権の無い者が玉座に着くのは不可能だ」
「…」
段々見えてきた。埋蔵金を半分やるから、ヒスパニア王になる手伝いをしろと言いたいのだろう。
「殿下はブリタニア王になってください。そして貴方の姉上をいただきたい。そうすれば、晴れて、私も継承権持ちだ。どうです?ヒスパニアとブリタニアが組めば、世界が手に入ると思いませんか?」
トリスタンが口をつぐんでいると、伯爵は『朝まで時間をやる』と言い、出ていった。
「すぐにルマリの娘も連れてきます。彼女の命も、殿下の返答にかかっていますよ」
金髪女も嫌な事を言って去る。ランプを持っていってしまったから、トリスタンは再び暗闇に残された。
(何で、俺が喜んで王位に就くと思ってんだ?協力するフリだけしとくか。どうせアイツも、どこかで裏切るだろうし。ああー。嫌だ。あんなエロ伯爵と手を組むなんて。死んでも嫌だ)
苦悩していたその時、何かが頭にぶつかった。顔のすぐ近くに光る文字が浮かんだ。
『ご主人様。救出に参りました』
◇
王子との話を終えて、バンデラスは自室に戻った。残るもう一つの鍵を回収しようと、豪華なマントを羽織り、エマニエルに告げる。
「そろそろ宿に戻った頃だな。行ってくる」
先程訪ねた時、ルマリの娘は留守であった。可哀想に、王子を探し歩いているのだろう。一緒に探してやると言って、馬車に乗せてしまえば、こちらのものだ…不埒な事を考えていたら、魔女が冷めた声で言った。
「あまり舐めない方が良いわよ。異能力者なんだから」
「俺の魅力には抗えないさ。君のようにね」
そこへ、部下が飛び込んできた。
「お、王子が逃げました!!」
「何だと?!」
バンデラスらは、急いで監禁していた2階の部屋に戻った。夜風がカーテンを揺らし、床には切れた縄が落ちている。開け放たれた窓から下を見れば、1頭の騎馬が駆け去るところであった。
「馬引け!」
激怒した伯爵は、階段を駆け下り、外に飛び出した。しかし部下は手ぶらで走り寄ってきた。
「1頭もおりません!全部盗まれました!」
◇
数分前。トリスタンの前に眼鏡が現れた。彼は飛び上がらんばかりに喜んだが、
『お静かに』
と言われて黙った。誰かが背後で縄を切っている。手足が自由になると、アンジュの声が聞こえた。
「グレースをかけて。逃げるよ」
彼女は窓を指差して、“ついてこい”という仕草をする。手すりに縄が括りつけてあった。先にアンジュが、次にトリスタンが下りた。外に出て、ここが初めて湖岸の豪邸だと知った。
「ちょっと待ってて」
彼女は屋敷を囲う木々の中から、一頭の馬を連れて戻ってきた。
「乗れるよね?」
「もちろん。その…ありがとう」
女の子に助けられてしまった。微妙に恥ずかしくて、ぎこちなく礼を言ったら、アンジュは首を振った。
「奴らが追いつく前に、マハールを出ないと。急いで」
「分かった」
後ろにアンジュを乗せて、一旦、市街地に戻り、宿の荷物を引き上げた。だが、街の様子がおかしい。松明を持った警備兵のような男達が騒いでいる。
「シャングリー族の若い男女だ!逃すな!」
「生きたまま捕まえろ!」
2人は急いで街を離れようとした。しかし、至る所に篝火が焚かれ、
「いたぞーっ!」
あっという間に見つかってしまう。トリスタンの馬は湖岸の遊歩道を全力で走ったが、二人乗りで荷もある。どんどん距離が縮まってきた。
(クソっ!森に入るには、対岸まで回らなきゃならん。このままじゃ…)
「良いぞ!挟み討ちにしろ!」
気づけば前方からも追手が来る。逃げ場を失った逃亡者は、桟橋に追い詰められてしまった。
(一か八か、飛び込むか。アンジュ1人なら連れて泳げる…気がする)
トリスタンが腹を括った時、背後の湖からゴボゴボという異音が聞こえた。ジリジリと近づく追手もそちらを見た。空には満月が浮かび、湖面には光の道が向こう岸まで続いている。その光の終点、トリスタンのすぐ後ろの水面から、ザバッと何かが出てきた。
「アプサラーだっ!」
男達は恐怖の声を上げた。出てきたのは青い髪を結い上げ、豊満な身体に金の装飾品をジャラジャラつけた巨大な女だった。3メートルはある。どういう仕組みか、水の上に立っている。
「…誰?」
放心したトリスタンが呟くと、グレースが教えてくれた。
『水の精霊、マハール湖の女神です』
女神は出し抜けに質問した。
「あなたが落としたのは、金のシジミ?それとも銀のシジミ?」
何の話かさっぱり分からない。だがアンジュがキッパリ答えた。
「普通のシジミです」
「正直ね。ご褒美に両方あげましょう」
「いえ、結構です。それより、向こう側に渡りたいのですが」
「良いわよ」
なよやかな手が2回、打ち鳴らされる。すると、月光の道の真ん中が黒く変じた。
「行きなさい。シジミを助けたお礼よ」
訳が分からないが、アンジュが「大丈夫。走れる」と言うので、トリスタンは湖に馬を飛び込ませた。何故か沈まず、そのまま月光の道に乗った。
「ありがとう!アプサラー!」
アンジュの声と、後ろでドボンと水に落ちる音や悲鳴が重なる。追手は乗れなかったようだ。走りながら、落ちたシジミを辿ってトリスタンを見つけた話を聞いた。
「ザルもないし。拾っては湖に投げてたんだけど」
「俺、決めた。もう二度とシジミは食わない」
2人を乗せた馬は対岸まで渡り切った。そして無事に森に逃げ込んだ。




