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06 魔女の誘惑

「3分保たなかったって?弱すぎだろ。お前ら」


 ジャイプール屈指の高級ホテルの部屋。バンデラス伯爵は、悄然と跪く男達を見下ろした。昨夜、ついに魔女がルマリの娘を見つけた。何でも、怒りに我を忘れて魔力を垂れ流していたらしい。急いで部下に追わせたのに、あっさり返り討ちにされた。


「悪漢に追いつめられた娘を、俺様が颯爽と救ってやる計画だったのに。1時間も待ってた俺がバカみたいじゃねぇか」


「お、恐れながら。眼鏡の手練れが護衛についておりーー」


 手足に包帯を巻いた部下が言い訳しようとする。バンデラスはそいつの肩を蹴り飛ばした。


「失敗の理由なんか聞いてない。で?その眼鏡の男と、ルマリの娘は何処にいる?」


 別の部下が報告した。男はトリシュナ、女はアンというシャングリー族の夫婦で、食堂で働いていた。元から1週間という契約で、昨夜、街を発ったらしい。行き先は不明だが、故郷に帰ると話していた。


「チッ。結局、振り出しに戻っちまった。どうだ?エマニエル。何か分かったか?」


 魔女はソファに座り、水晶球を覗いている。


「街道を逸れて、森を行くみたい。凄いわね。豹や虎がいるのに。北を目指しているなら、次に出る街は、マハールだと思う」


 水晶球には鬱蒼と茂るジャングルが映っている。こんな獣と虫だらけの密林を行くなんてゴメンだ。


「では先回りして、マハールで待っていよう。王子はどうだ?行者の中には、いなかったぞ」


「…これは偶然?王子も森にいる、と出るのよ」


 エマニエルが困惑したように言う。蹴られた部下が、またしても顔を上げた。


「恐れながら。眼鏡の男の剣術に、見覚えがございます。ブリタニアのネビル提督と似ていました。同じ流派か、もしくは弟子と思われます」


 伯爵と魔女は顔を見合わせた。それが本当なら、2つの鍵が一度に手に入る、絶好の機会であった。



          ◇



 北上するにつれ、暑さが和らいでくる。ジャイプールを出て2週間、アンジュ達はマハールに出た。シンドラでは珍しい、大きな湖沿いに発展した街である。


 アンジュは街に泊まる事に反対だった。追手がいた場合、森の方が安全である。まだ路銀は充分あるから、減った食料や必需品だけ補充すれば良い。しかしトリスタンが限界だった。


「虫のいない所で寝たいっ!川じゃなくて風呂場で体を洗いたいっ!」


 と、駄々を捏ねる。仕方がないので、マハールで少しだけ休養する事にした。



          ◇



「はいよ。マハール湖名物、シジミカレー2つね!」


 食堂の給仕が、2人の前に皿を置いた。サラッとしたスープ状のカレーで、トリスタンは興奮して食べている。眼鏡が推奨するだけあって美味しい。彼はあっという間に食べ終わり、『作り方を教えてくれ』と厨房に押し掛けた。カレー中毒だ。


 残されたアンジュは、チャイを飲みながら、窓の外の湖を眺めていた。すると、


「お嬢さん」


 背後から声をかけられた。振り向いたら、黒髪を整髪料で撫でつけ、口髭を蓄えた外国人の男が立っていた。


「ご一緒しても?」


「…」


 男は向かいの席に腰を下ろした。鎖骨の下まで大きく開けたシャツの胸元には、トリスタンに無いものが見えている。


(そう言えば、生えてる人と、いない人がいる。年齢?髭と関係ある?)


 アンジュの凝視を好意と捉えたのか、男は白い歯を見せた。


「実は占い師に言われてね。今日、運命の女性に出会うって。君の事じゃないかな」


「違う。貴方は既に出会っている。金髪に青い目の女性。彼女を火あぶりから救った、その選択は正しかった」


 男の笑顔が引っ込んだ。


「驚いたな。もしかして、心も読める?」


「いいえ。彼女を大切にしなさい。そうすれば長生きできるから」


 この男は救った女を愛する限り、幸運な人生を送る。今会ったばかりのアンジュと結ばれる運命ではない。だが彼は、アンジュの目を見つめながら囁いた。


「2人で世界を手に入れないか?」


 次の瞬間、彼女と男の間に、ヌッと包丁が割り込んだ。


「人の女房口説くんじゃねぇ」


 いつの間にかトリスタンが戻っていた。男はパッと身を引き、立ち上がった。2人は一瞬、激しく睨み合った。


「それはすまなかった。ヒスパニアでは、美しい女性は口説くのが礼儀でね。また会おう。お嬢さん」


 外国人の男は食堂を出て行った。トリスタンがその背に罵声を浴びせた。


「ここはシンドラだ!二度と来るな!クソが!ボコすぞ!」


 日に日に下品なシンドラ語が板についてくる。アンジュはこめかみを押さえて、ブリタニア語で言った。


「落ち着いてください。殿下」


「あんな男と喋っちゃダメだ。ヒスパニア男は皆、女ったらしなんだよ。これ見よがしに胸のボタンを外して。いやらしい。俺はシジミ屋を見に行ってくる。アンは宿に戻りなさい。あいつがその辺にいたら危ないから」


「はい。殿下」


「…」


 少し品位が戻った王子は、アンジュを宿まで送った後、市場に出かけて行った。どうせ習った料理を作りたいのだろう。夕食はまたシジミカレーか。


(それにしても、“女房”…)


 踊り出したいような、不思議な気分だった。



          ◇



 市場に並ぶ珍しい食材を見ているうちに、怒りは失せた。トリスタンは新鮮なシジミといくつかのスパイスを買った。早くカレーを作りたい。弾む足取りで帰る途中、湖沿いの遊歩道で、白いものを見つけた。


「?」


 彼はそれを拾い上げた。レースに縁取られた、絹のハンカチだ。すかさずグレースが分析する。


『媚薬成分が付着。エジプト産の香水だと思われます』


 全然分からない。スパイスを嗅ぎ過ぎて、鼻がバカになっているようだ。


「あ、あの人が落としたんじゃないか?」


 前方に日傘をさした女性がいる。トリスタンは早足で追いつき、声をかけた。


「もし。これを落とされましたか?」


「はい?」


 振り向いた女性を見て、彼は驚いた。金髪碧眼の貴婦人だったのである。彼女はハンカチを受け取ると、ブリタニア訛りのシンドラ語で言った。


「ご親切に、ありがとうございます。よろしければ、屋敷まで一緒に来ていただけますか?今、何も持っていなくて」


 グレースが効かないという事は、若くはない。シワ一つない美貌に、豊かな胸と細い腰。実に魅力的な女性だが、何かが引っ掛かる。


「お気遣いはご無用です。レディ」


 丁寧に辞退したのに、婦人は馴れ馴れしくトリスタンの腕を引いた。


「そんな事言わないで。そうだ、食事はどうですか?腕の良い料理人がいますから。ニシンのパイはお好き?ウナギのゼリー寄せもありますよ」


「結構です!」


 彼は魚料理の生臭さを思い出し、立っていられない程の目眩に襲われた。そこでようやく、貴婦人から漂う甘い香りに気がついた。


『危険!今すぐ退避してください!』


 グレースが激しく訴えるも、トリスタンはその場に崩折れてしまった。



          ◇



 エマニエルは王子を覗き込んだ。人相描きと全く違う。同じなのは目の色ぐらいだ。ブリタニア人なら気を許すかと、有名な伝統料理で誘ったのに、拒否された。なかなか手強い。なので、魅了作戦は終了、すぐさま拉致に切り替えた。


「夫人」


 物陰で見ていた部下達が近づいてきた。


「運んでちょうだい」


「はっ」


 遊歩道はそれとなく人払いしてある。部下は王子の両脇を支えるようにして、馬車に乗せ、彼の荷物を馬車背面の荷物置きに放り込んだ。魔女も乗り込みながら、伯爵の守備を尋ねた。


「ルマリの娘の方は?」


「人目が多く、一度撤退なさいました。今夜、再度接触を試みるそうです」


(自信満々に出かけて行ったけど。フラれたようね)


 馬車はその場を去った。遊歩道には、丸眼鏡だけが残されていた。


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