03 カレーとの出会い
幸運なことに、抜け道の出口はウーバー山の近くだった。アンジュとマヤは、ひとまず、彼女達の小屋に王子を連れて行くことにした。一晩中歩き続けて集落に着いたら、朝靄の中、スジャータとクチュリが心配そうな顔で待っていた。
「何かあった?その行者は誰だい?」
スジャータが痩せた男を見て訊いた。アンジュは小屋の中で二人に紹介した。
「ブリタニアの総督?」
老婆達は目を丸くして王子を見た。彼は床に腰を下ろすと、室内履きみたいな靴を脱いで、
「そうだ。世話になるぞ。ところでマメが潰れた。手当てをしてくれ」
と血が滲んだ足を指差した。態度が大きい。アンジュは一瞬腹が立ったが、滑らかな足裏を見て怒りを飲み込んだ。ろくに歩いた事がないのだろう。ルマリだった頃の自分のように。仕方なく、桶に水を汲んで骨ばった足を洗い、適当な布を巻いてやった。
そこへマヤが朝食を持ってきた。
「朝ご飯ですよ。口に合うか分からないけど」
乳粥をよそった椀を王子に差し出したら、『これは何だ?』という顔をしている。
「山羊の乳で煮た米。美味しいから、食べてみて」
アンジュの言葉に、彼は恐る恐る1匙を口に入れた。すると目を見開いて、ガツガツと食べ始めた。女達は、朝食を食べながら今後どうすべきかを相談した。
「コルカタに出るには、どうしたってラジャ藩国を通らにゃ。逃げたと分かれば、指名手配されるだろう。ちょいと息子に探らせるよ」
スジャータの息子は行商人だそうだ。人頭税逃れで親を捨てたが、こっそりと手紙のやり取りをしているとか。クチュリは変装の用意を引き受けてくれた。アンジュは二人に頭を下げた。
「本当にありがとう。私がちゃんとコルカタまで送ってくる」
マヤが顔を曇らせた。『そこまでする必要あるの?』と目で語っている。当の王子は、乳粥を平らげると、横になって眠ってしまった。ガウンしか着ていない体は骨が浮き出て、貧相としか言いようが無い。だが高く通った鼻梁と長い睫毛には品がある。アンジュは力強く言った。
「シンドラ中の人頭税を無くしてもらう。この人には、それができるから」
彼女は、自分がマヤに救われたように、ウーバー山の老人達を救いたいと思ったのだ。
◇
トリスタンは、もう半月も貧民窟に潜んでいる。早くコルカタに行きたい。ネビルは無事に脱出できただろうか…焦りと不安で押しつぶされそうだった。
暮らしも不便極まりない。住まいは5メートル四方の小屋で、家具など一つもなく、夜は雑魚寝。美少女の寝姿が悩ましい。せめて衝立が欲しい。
もちろん風呂もない。湯浴みをしたいと言ったら、川に連れて行かれた。仕方なしに深みで体を洗っていると、8メートルはあろうかという大ワニに襲われた。何度場所を変えても大ワニが出る。逃げ回っているうちに、泳げるようになったが、毎回、命がけだ。
ただ一つ、満足できるのは食事だ。マヤの作るカレーは最高に美味い。トリスタンは極度の偏食だが、カレーならいくらでも入る。おかげで少し肉がついてきた。
美少女は17歳だというが、何故か死神の呪いが効かない。トリスタンと目が合うと、倒れるどころか容赦無く仕事を振る。
「暇そうね。野菜の世話をしてみたら?カレーの材料よ」
彼は毎日、農民のように畑を耕し、水を撒いた。カレーの為ならば耐えられた。そしてとうとう、天命を悟った。
(俺は、カレーを広めるために生まれたんだ)
愛する祖国の唯一の欠点、それは料理だ。何もかもが不味い。子供の頃は、祖母のスパルタ教育で泣こうが吐こうが、無理矢理に食べさせられたが、王太后亡き後、彼は偏食を貫いた。それが、今、運命と出会った。
「マヤ。俺に料理の指南をしてくれ」
熱心に頼むと、マヤは宮廷料理の技を伝授してくれた。食材の捌き方、道具の扱い方、火の通し具合にスパイスの調合と、覚える事は山のようにある。幸か不幸か、王子よりも調理人としての才能があったようで、トリスタンは驚異的な早さでそれらを習得していった。
◇
さらに半月が経った。王子は、皆に褒められるほどのカレーが作れるようになった。だが状況は良くない。スジャータの息子によると、ラジャ藩国だけでなく、周囲の数カ国にトリスタンの人相描きが回され、懸賞金がかけられていた。
「どこもその噂で持ちきりだって。作戦変更だね。遠回りになるけど、北のヒマ山を越えて、ビルマ王国に出てから、海路でコルカタに行くしかないよ」
スジャータは地図を指して説明する。直線距離なら数十キロなのに、数百キロも迂回しなければならない。トリスタンは心底ウンザリして尋ねた。
「このヒマ山って、高いんだろ?何メートル?」
「さあね。ワニ川の上流に、万年雪を被った山脈が見えるだろ?あれだよ」
老婆はサラッと言った。見えるなら、それほど遠くないだろう。そうと決まれば、すぐにでも出発したい。トリスタンは慌ただしく旅の支度を整えた。(実際は老婆たちがやってくれたのだが)
「青い目は珍しいから、シャングリー人に化けたら良い。ヒマ山に住む少数民族だよ。こんな感じの服を着てる」
クチュリは珍しい衣装を作ってくれた。襟を斜めに合わせた長衣に、鮮やかな帯を締め、長い袖を折り返して白い裏地を見せる。皮のブーツは歩きやすそうだ。
「こっちはニーナの。出稼ぎに来た夫婦で、故郷に帰るところだって言えば良い」
「え?!ニーナも来るのか?」
驚くトリスタンに、美少女は凄んだ。
「当たり前でしょ。人頭税廃止の勅令を出してもらうまで、離れないよ」
「…」
人頭税云々は、王子を匿い、脱出を手伝う彼女達への報酬である。口約束を信じられないと言うなら、連れていくしかないか。
「分かったよ。コルカタに着いたら、高速船を出して女王陛下にお願いする。でも往復3ヶ月はかかるぞ」
彼女は頷いた。それから、変装の仕上げとして、トリスタンが長い髪を切り落とすと、2人はウーバー山の集落を出発した。路銀は僅かだ。稼ぎながらヒマ山を目指す。
「気をつけて。ニーナ」
「お母さんも、お元気で…」
母と娘は涙で別れを惜しんだ。手を振りつつ歩き出し、やがて3人の老婆が見えなくなると、ニーナは言った。
「今から私をアンと呼んで」
「あー。偽名か」
「違う。アンジュが本名」
「え?ニーナじゃないのか?」
彼女は歩きながら身の上を語った。『ルマリ』という制度、叔父一家の仕打ちに、マヤの心の病。どれも初めて聞いた。どうりで、貧民にしては学もあり、立ち居振る舞いに威厳がある。
不意に、アンジュは立ち止まり、トリスタンを見上げた。
「私にブリタニア語を教えてほしい」
(えっ?!)
ドキッとした。だが、
「本当に女王に頼んだかどうか、確認したいから」
という理由であった。王子は落胆を隠して『良いよ』と言った。
(当然だよな。逃亡中の死神だもの。ああ。早くコルカタ城に入りたい。良い服を着たら、少しは見直してくれるか?登山とか、本当に嫌だ。ネビルが探しに来てくれないかなぁ…)
弱気な王子と美少女、偽の夫婦は北を目指して進んでいった。




