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22 喜び

 アンジュは、ロンディニウムの下水道で暮らし始めた。寒くなると浮浪児達が集まるらしいが、今はまだ、臭い地下には誰もいない。夜はそこで寝て、昼間はエディと動物芝居を続けた。


 パレードの時とは違う姿が良い、とグレースが言うので、試しに仮面をつけて街を歩いてみたら、狙撃されなかった。


(つまり、顔を晒さなければ大丈夫)


 敵はアンジュの顔を知っている。そして、彼女がトリスタンに近づくのを待っているのだ。ならば密かに彼と連絡を取ろうと、鳩にお使いを頼んでみたが、辿り着けずに戻ってきた。会った事がないとダメらしい。


「そんな落ち込むなって。住所がわかれば、ジョージに届けさせるよ?」


 エディが励ますように言うと、小猿もキイと鳴いた。暗い下水道の中で、蝋燭の灯りが二人と一匹の夕食を照らす。アンジュは首を振った。宮殿の名前すら知らない。


「そっか。元気だしなって。ほら、フィッシュフライあげる」


 相棒は、新聞紙に包まれた揚げ物を、ポイっと投げて寄越した。


「ありがとう」


 しかし、一口齧ったものの、生臭さが鼻について、それ以上食べられない。それを見たエディは眉を下げた。


「最近、全然食べないね。調子悪いの?まあ、命を狙われてる状況だし。仕方ないけどさ。無理しても食べないと、倒れちゃうよ」


「大丈夫。食べる」


 アンジュは何とか食べ切った。本当は、もっとさっぱりしたものが欲しい。パーティーで食べたレモンゼリーみたいな。綺麗なドレスを着て、お姉さんとお喋りしたのが、夢のように思えた。


『アンジュ↓↓』


 その時、グレースが矢印で下を差した。手元を見ると、油の染みた新聞紙に“トリスタン王子”の文字がある。アンジュは慌ててそれを広げた。


【トリスタン王子、ついに結婚か/去る10月31日、バッキンガム宮殿にて戦勝祝賀パーティーが開かれ、トリスタン王子に大ブリタニア勲章が授けられた。(中略)…その中で、最も王子妃に近いと噂されるのがR伯爵令嬢である。近頃、王子とR嬢が二人きりで語らう姿が、しばしば目撃されているのだ。更に、令嬢の父親と王子の間を、頻繁に使者が行き来しているらしい。恐らく、年内には婚約の発表があるだろう】


 結婚。トリスタンが。急激に気分が悪くなり、アンジュは下水に吐いた。


「アン?!大丈夫?」


 エディが懸命に背を摩ってくれるが、胃が空っぽになるまで吐いても、えずきは止まらない。あまりの苦しさに涙が出てきた。


「ど、どうしたの?何が書いてあった?」


「彼が結婚するって。R嬢って誰?下剤女の誰か?エディ、私、どうしたら良いの?」


 アンジュは生まれて初めて大泣きした。目玉が溶けるくらい泣いて、そのまま、倒れるように眠ってしまった。



          ◇



 目が覚めたら、灯りが消えていて、エディも眠っていた。アンジュは水筒の水で口をゆすいだ。少しだけ、気持ちが落ち着いた。


『アンジュ。ちょっと良いですか?』


 枕元に置かれた眼鏡に、遠慮がちな文字が浮かぶ。アンジュはグレースを掛けると、エディを起こさないよう、小さな声で話し始めた。


「取り乱して、ごめん」


『いいえ。…寝ている間に、あなたの体を調べました』


 グレースはそこで言葉を切る。辛いことばかりなのに、この上病気なんて。深いため息をつくアンジュに、眼鏡は告げた。


『妊娠しています』


 衝撃が全身を貫く。


『眠気、目眩、吐き気、食欲不振。微熱もあったはずです。最後に月のものがあったのは?』


 パーティーの日に、同じ事を医者にも訊かれた。でも、ただの問診だと思っていた。そういえば、ここ最近、全く無い。


「シルヴァニア村を出る、少し前…」


『では、妊娠15週でしょう。アンジュ?大丈夫ですか?』


 気づかないうちに、涙が溢れていた。嬉しい。早くトリスタンに教えたい。だが、果たして彼は喜ぶだろうか?結婚相手に申し訳ない、堕ろしてほしい、と言うだろうか?


(絶対に産む。でも、ここではダメだ)


 ルマリの少女は、やっと本来の自分を取り戻した。この子を育てるのは、ドルーガ女神の御許、神気溢れる、故郷の大地でなけれならない。


「シンドラへ帰ろう。どうすれば良い?」


『一番早いのは、ストーン・ヘンジを使う事です。これは私の考えですが、あなたの転移が成功したのは、お腹の子が、アーサー王の子孫と認証されたからです』


 アンジュは驚いて、思わず腹に手を当てた。そして天空神殿の事を思い返し、


「でも、トリスタンの血が無いよ?」


 と訊いた。


『ブリタニアは、各地の魔法陣への出発点と考えられます。恐らく、鍵が無くても起動するかと。こればかりは、実際にやってみないと分かりませんが』


 その可能性に賭けてみたい。しかし、グレースはそれで良いのだろうか。


「トリスタンの所に帰る?エディに頼めば、宮殿に届けられるかもよ?」


 眼鏡は、即座に“NO”と言った。


『もう、ご主人様に、私は不要でしょう。あなたを助けたい。今はそれだけですよ。アンジュ』


「グレース…」


 アンジュは、また泣いた。今日はよく泣く日だ。でも、希望が見えた日でもあった。その後、彼女はブリタニアの神に祈った。


(シンドラに帰るまで、この子をお守りください。そして、どうか、一目だけでもトリスタンに会わせてください)



          ◇



 翌朝、アンジュはエディに事情を打ち明けた。もちろん、お腹の子の父親が王子であるとか、眼鏡に霊が憑いているとかは伏せた。


「へえ。貴族だったんだ、彼氏。どうりで新聞に載るわけだ。でもさー。誰が、赤ん坊ごとアンを消そうとしてんの?彼氏?実家?今カノ?どう考えてもやり過ぎでしょ。オレが成敗してやるよ!」


 と、エディは朝食のパンを振り回した。


「彼じゃない。彼の家族も違う。良い人達だった」


「甘いね。金が絡むと、誰でも鬼になるもんさ。例えば、兄夫婦に子供いた?いなかったら、アンの子が跡取りになるかもよ。親だって、外国人の平民より、金持ちの家から嫁を取りたいわな。持参金が入るもん。今カノなんか、一番怪しいじゃん。結婚相手に子供がいるなんて、とんでもないスキャンダルだよ。何百ポンド払っても、揉み消したいに決まってる」


 凄い勢いで捲し立てられ、アンジュはぐうの音も出ない。トリスタンの家族は皆、直感で良い人だと思ったが、今カノ…R嬢は、確かに怪しい。でも、グレースが聞いた更衣室の女がR嬢だとして、下剤女とは別人の気がする。


「あれこれ考えても仕方がない。とにかく、そういう訳で。今までありがとう。ここからは…」


「ソールズベリーだっけ?よく分かんないけど、善は急げだ。飯食ったら出よう」


 ポカンとするアンジュを尻目に、エディはパンを口に詰め込むと、散らばった荷物を背嚢に入れ始めた。ジョージもせっせとそれを手伝う。


「エディ。聞いて。敵は銃を使う。危険だから」


 しかし、エディは構わず荷造りを続ける。


「オレも地方に行こうと思ってたんだ。どうせ仮面は外せないんだろ?稼ぎながら移動しようぜ。そんな顔するなよ。お腹の子の発育に悪いぞ」


 アンジュは涙を袖で拭った。エディはトリスタンに似ている。どんな時も明るくて、優しい。ブリタニアの神は、小さな騎士を遣わしてくれたのだ。それで十分だった。


 二人は衣装を着て、小猿のジョージを先頭に、鳩たちを連れて歩いた。街から街へ、動物芝居を見せながら行く。懐のグレースが常に警戒をしてくれたが、襲撃は無かった。



          ◇



 今日もアンジュは見つからなかった。トリスタンは、報告書をグシャリと握り潰した。ブリタニア中の占い師、シンドラ人コミュニティ、臨時雇いの労働者、遺体安置所。考え得る全ての場所を探した。でも、どこにもアンジュはいない。


「恐れながら。まだ調べていない所が」


 気遣いのカケラも無く、ネビルが娼館のリストを出してくる。トリスタンはそっぽを向いた。


「妊婦なんだぞ。そんな所で働けるもんか」


「3ヶ月なんて、まだぺったんこですよ。本人だって、気づいてないかもしれません。まあ、こちらはルーマス伯爵にお願いしましょう。そうだ、令嬢からも報告がありましたよ」


 ネビルが綺麗な模様の封筒を差し出した。受け取って開封すると、アンジュを心配する優しい言葉と、トリスタンへの労りが綴られていた。そして、ルーマス嬢が慰問で行く救済院に、アンジュが身を寄せているのではないか、良かったら、一緒に探しに行かないか、と書かれていた。


「ネビル。明日の予定は?」


「私は殿下の秘書ではありません。良い加減、屋敷にお戻りください。ついでに、うちの庭でカレーを作るの、やめてください」


「仕方ないだろ。全部追い出したんだから。あと、飯が不味いんだよ。それより、これ、行くぞ。さすが慈善事業のエキスパートだ。救済院か。思いつかなかったな」


 手紙を提督に押し付け、トリスタンは、ネビル家に設けた執務室に駆け込んだ。そこで書類やら手紙やらの仕事を片付け、明日一日、動けるようにした。


(きっとそこにいる。待ってろ、アンジュ!)


 ルーマス嬢には感謝しかない。彼女だけが、アンジュを理解し、応援してくれる。今や、トリスタンにとって、ルーマス嬢は親友と言える程、心を許せる相手であった。


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