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14 雪豹

 タリムは朝方戻ってきたが、やはり、子供を外で寝かせるのは良くない。2日目の夜、トリスタンは『小屋で寝たら』と誘ってみた。標高が上がった分、寒くなったからだ。しかし、あっさり断られた。


「新婚の邪魔をするほど野暮じゃない」


「余計なお世話だ!」


 チャパティの生地を捏ねながらやり合っていると、手洗いから戻ったアンジュが、怪訝そうに外を指した。


「ねえ。空から何か降ってくる」


「?」


 二人は作業を止めて外に出た。凍えるような寒さの中、白いものがヒラヒラ舞っている。


「雪だ。見たことないんだっけ?」


 そういえば、彼女は南シンドラの人間だった。不思議そうに手を伸ばす姿が、実に可愛らしい。子供が生まれたら雪だるまを一緒に…トリスタンの妄想をタリムの大声が破った。


「こんな時期に?ありえない!」


 と言って、急に山の方に向かって走り出す。


「おい?どこ行くんだよ?チャパティは?」


「教えた通りに作っとけ!小屋から出るな!」


 残されたトリスタンとアンジュは、先に夕食を食べてタリムを待った。だが真夜中を過ぎても帰ってこない。気にしつつも寝て起きたら、翌朝、小屋の外は真っ白だった。鈍色の空からは乾いた雪が降り続き、すでに30センチ近く積もっている。


 そこにタリムが帰ってきた。雪まみれで、中に入る前に、ブルっと体を揺すって落としていた。動物みたいで面白いが、本人は深刻な顔で言った。


「ナーガの聖域に、誰かが入ったらしい」


「ナーガ?」


 トリスタンが尋ねると、アンジュが答えた。


「天候を司る神よ。ヒマ山はナーガの結界だったのね」


 タリムは頷いた。


「侵入者が出ていくまで雪は止まない。親父がそう言ってたから、間違いない」


 彼の家はこの近くなのだろうか。それはともかく、食料と燃料はあと5日分しかない。吹雪く前に峠を越えるか、止むまで待つか。早く山を越えたいが、アンジュは雪の上を歩いたことがない。トリスタンは迷いに迷って、


「凄い早さで雪が積もってるから、もう下山はできない」


 というタリムの言葉で、先に進むと決めた。3人は朝食を済ませてから、準備にかかった。毛皮の上着を着て、ブーツの上にかんじきという滑り止めを付ける。もしも万年雪の上を歩く事になったら、と道具屋に買わされたものだ。


 支度が整うと、「オレの足跡の上を歩け」と言うタリムを先頭に、アンジュ、トリスタンの順で出発した。アンジュは意外と上手に歩いている。この分なら予定通りに行けそうだ。


 だが、斜面に作られた細い道を通っていた時、急にタリムが立ち止まった。


「カラスだ」


 暗い空に、一羽の黒い鳥が旋回している。悪天候な上、標高3千メートルを越えている。不自然だ。トリスタンは、荷物から大天使の剣を出そうとした。しかし、頭上から、最も聞きたくない声が降ってきた。


「よく生きていたな。トリスタン王子」


 張り出した岩棚の上に、バンデラスがいた。それどころか、高所から幾つもの銃口が向けられている。


「不思議かね?麓の街はモラハラ藩国の領土で、既にこちら側なんだ。君たちの情報も流してくれるし、ラジャ藩国軍も通してくれる。さあ、一緒に来てもらおう。山分けは無しだが、命は助けてやろう」


 道具屋の店主もスパイだった。かんじきの件で感謝していたのに。心の中で、モラハラ藩国も制裁対象に加えつつ、トリスタンはグレースに脱出方法を探らせたが、


『ありません。一旦降伏すべきです』


 などと言う。しかし、アンジュが小さな声で言った。


「大丈夫。弾は防げる」


 看護婦達との特訓のことか。彼女は自信に満ちた顔で、シンドラ兵の前に進み出た。


「威勢が良いな。お嬢さん。悪いが、手加減はしないよ」


 バンデラスが手を振り下ろし、銃口が一斉に火を吹く。だが不思議なことに、銃弾はトリスタン達に届かなかった。見えない盾があるかのようだった。


「今のうちだ!走れ!」


 トリスタンはアンジュの手を取って、走り出した。


「ダメだ!」


 タリムの悲鳴と同時に、斜面の上から大量の雪が流れ落ちてきた。銃声で雪崩が起こる訳がない。不自然な雪崩は、シンドラ兵諸共、3人を押し流す。トリスタンはタリムに手を伸ばしたが、掴み損ねた。


「ナーガの怒りだ!馬鹿野郎どもめ!」


(その馬鹿には、俺たちも入ってるのか?)


 と思った瞬間、トリスタンの視界は雪で覆われてしまった。



          ◇



 どれくらい経ったのか、気づいたら、トリスタンは雪の上で寝ていた。腕の中でアンジュが気を失っている。周りは、目も開けられない程の猛吹雪である。タリムも、グレースも流されてしまった。トリスタンとアンジュの荷物は無事だが、ほとんどの食料と燃料を失い、現在地すら分からない。


「アンジュ!起きろ!寝たら死ぬぞ!」


 体を揺すっても、頬を(軽く)叩いても、彼女は目を覚まさなかった。よくよく見ると、二人の周りだけ、半球状に雪が無い。アンジュの魔法が雪崩から守ってくれたのだ。


 また救われた。彼は荷物を前面に抱え直し、力尽きたアンジュを背負った。彼女の荷は捨てる。今はとにかく、吹雪を避ける場所を探さねばならない。


 柔らかな雪の上を一歩一歩、確かめながら進むうち、何かが近づいてくるのが分かった。風雪の中から現れたのは、大きな雪豹であった。剣を出す暇はない。トリスタンはゆっくりと後退しようとしたが、


「ついてこい。良い洞窟がある」


 と、雪豹が言った。夢か、いやいや、眼鏡だって話す国だ。喋る動物がいても不思議じゃない。トリスタンは雪豹についていった。だいぶ下に流されたようで、登りがキツイ。息を切らしながら峠を越すと、大きな岩の裂け目に着いた。


「昔、魔法使いが使っていた。中で待て。雪が止んだら、迎えにくる」


 雪豹はそう言って、去ろうとした。トリスタンは慌てて呼び止めた。


「ちょっと待ってくれ!なぜ、助けてくれるんだ?」


 水色の目が少し細くなった。


「息子を助けてもらった。遠い南の街で。ありがとう、異国の王子よ」


 途端に、窓から放り投げた子豹を思い出した。


「ああ…。ところで、眼鏡を無くしてしまったんだ。見かけたら、拾っておいてくれ」


「承知した」


 雪豹氏は頷いて、吹雪の中に消えていった。トリスタンはアンジュを背負い直し、洞窟に足を踏み入れた。



          ◇


 

 長い通路の突き当たりに、木製のドアがあった。鍵はかかっていない。トリスタンは中に入った。アンジュを床に下ろし、手探りで蝋燭を出す。かじかむ指でマッチを擦り、火を灯すと、欧州風の部屋が照らし出された。


「ここは…?」


 そこでアンジュが目を覚ました。


「後で話す。とりあえず着替えよう。そのままじゃ風邪をひく」


 しかし、アンジュの荷は無い。トリスタンのシャツで我慢してもらうことにした。薪があったので、暖炉に火を入れて、濡れた服や荷物を干したら、どっと疲れが押し寄せてきた。だがもうひと頑張り、手持ちの鍋で外の雪を溶かして湯を沸かし、スープを作る。それに持っていたチャパティを添えて食事にした。


 食べながら、彼女に雪豹の話を聞かせた。


「…と言う訳さ。とりあえず、雪が止むまでここで避難だ。ああ、食い物のほとんどはタリムが持ってたからなぁ。塩とスパイス、失敗作のチャパティしかない。雪豹氏に頼めば良かったな」


 トリスタンがぼやくと、アンジュは真っ青になった。


「わ、私が、タリムを盾の中に入れておけば…」


 しまった。彼女は、自分のせいでタリムが死んだと思っている。トリスタンは慌てて言い直した。


「違う!まだ、『持ってる』んだ。奴はポーターだよ?大丈夫。絶対、生きてる」


「…」


「そうだ、埋蔵金を手に入れたら、デカいレストランを開こう。タリムにチャパティを焼いてもらって。マヤにカレーを作ってもらうんだ。ストロング牧師に預けたガキどもも、大きくなったら雇おう。君専用の占いスペースも作るよ。店名は、どうしようか?『死神亭』じゃ売れないな」


 気を逸らそうと、楽しい話をしてみた。すると、アンジュはまじまじとトリスタンを見た。


「あなたは?そこで何するの?」


「俺はオーナー兼料理長だ。弟子をいっぱい作って、本国に輸出する。フハハハハっ!クソ不味いブリタニア料理を駆逐してやる!」


「ブリタニアに帰らないの?」


「総督の任期が終わったら、一緒に行こうよ。家族に紹介したいし。その、妻としてさ」


 暫しの沈黙の後、アンジュは頷いた。トリスタンは飛び上がる程嬉しかった。美しいアンジュ。優しくて、勇気に溢れ、女王のように気高いアンジュ。いくらでも彼女の美点が挙げられる。


「君は?俺のどこが好き?」


 舞い上がった王子は、恋人に尋ねた。彼女は彼の胸元を見つめて、


「胸がツルツルな所?」


 と言った。


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