11 血の取り引き
アンジュの相手はエマニエルという女だ。魔女、つまり魔術師のような者だろう。女は細長い棒を構え、呪文を唱えた。
「×××××××!」
何も起こらない。当然だ。ここはシンドラ、ドルーガ女神の領域で、アンジュは女神の依代なのだから。構わずに距離を縮めた。そして棒を掴み、女の過去を視た。
【女は何十年も息を潜めて生きてきた。それが、ある日突然、捕まった。仲間の一人が、『10人の魔女と引き換えに、見逃す』という取り引きを、異端審問官としたのだ。裏切られた女は、火炙りにされるところを、ある男に救われた】
「…!?」
女は驚いた顔で棒を手離した。
「視たわね!小娘!呪ってやる!」
「お好きにどうぞ。あの男と長生きしたければ、皇帝の秘宝なんか、忘れることね」
アンジュは棒を二つに折って、ポイっと捨てた。これが無ければ魔術は使えないと思ったのに、
「お前に何が分かる…行け!ブラックドッグ!」
と、魔女が地面に何かを投げた。それは黒い犬となって起き上がり、こちらに襲いかかってくる。アンジュは手のひらを犬に向けた。
「待て!!」
鋭く命じると、一瞬のうちに、犬は硬直して“お座り”をした。これがルマリの護身である。魔術師のような攻撃はできないが、神の力で魔術を無効化する。犬の主人である女までもが膝をついた。
「もう一度言う。手を引きなさい。さもなければ死ぬよ」
「黙れ!無知な小娘が!あれは我々のものだ!何も知らないくせに!」
一方、男達の戦いも終わりかけていた。トリスタンの剣が、胸毛の剣を真っ二つに折って、奴の手首を斬ったのだ。胸毛は傷を押さえながら後退った。
「アン!行くぞ!」
トリスタンは馬に乗ると、アンジュを引っ張り上げ、十分な助走をつけてから、柵を飛び越えた。勝負はついたはずだった。だが、
「撃て!!」
聞いた事のない轟音と共に、しがみつく体に衝撃が走った。そして、アンジュの頬に、生温かい何かが飛び散った。
(血だ)
トリスタンは呻きながらも、けっして手綱を離さなかった。
◇
何がどうなったのか、アンジュにはさっぱり分からない。弓で打たれたにしては、矢がない。トリスタンの脇腹から血が溢れ出し、布で押さえても、すぐにぐしょぐしょになってしまう。彼は歯を食いしばって耐えていたが、森に入ったところで馬を降りると、そのまま気を失った。
アンジュは眼鏡に助けを求めた。
「グレース!手当の方法を教えて!」
『ご主人様は銃で撃たれました。弾を取り出し、縫合します』
まず傷口を切らなくてはならない。内臓が傷ついていたら、そこも縫わなければ。
「そんなことできない…どうしよう。このままじゃ…」
彼女は血を押さえながら泣いた。いくら祈っても、どの神も応えてくれない。だが眼鏡は違った。飛び上がってアンジュの頬に体当たりしたのだ。
『しっかりしてください!貴女しか、ご主人様を救えません!いいですか、200メートル先の小屋に誰かいます。おそらく開拓農民です。行って、助けを求めてください』
「わ、分かった」
アンジュは暗い森を走った。小屋の戸を叩くと、若い夫婦が出てきて、血まみれの娘に驚いていた。彼女は事情を話して助けを乞うた。
「そりゃ大変だ。少し先のシルヴァニアっていう村に、良いお医者がいるよ。連れていこ」
夜中にも関わらず、農民夫婦は荷車に怪我人を載せて、運んでくれた。アンジュはずっと傷口を押さえるだけで、夫君が引いてくれる。妻君は馬を連れて一緒に来てくれた。ありがたくて、涙が止まらなかった。
途中、トリスタンがうっすら目を開けた。
「気がついた!?もうすぐお医者さんの所に着くからね」
勢い込んで言うアンジュに、彼は微笑んだ。そしてブリタニア語で言った。
「…俺の荷物の中に、手紙がある。ネビルに渡せば、通じるから…」
「何言ってるの?絶対、助かる。助けてみせるから」
「…大天使も…来ない…だろ…]
それっきり、彼は気を失ってしまった。
永遠にも思える程の時間の後、ようやく医者がいるという村に着く。農夫が大きな屋敷のドアノッカーを鳴らすと、すぐに下男が出てきた。
「急患ですか?」
「そうだ。なんか、腹に鏃が潜りこんじょるって。頼んます」
下男は細長い板のようなものを持ってきた。そこにトリスタンを移し、農夫と前後を持って中に運び入れる。窓のない白い部屋のベッドに怪我人を寝かせると、
「ここでお待ちください」
出て行ってしまった。人の良い農夫は「これで一安心だよ。腕の良いお医者だから」と言って、帰ろうとした。アンジュはお礼に馬をあげることにした。
「暫くは乗れないし、世話もできるか分からないし。どうか貰って」
「ええの?えらい立派な馬なのに」
「うん。本当にありがとう。あなた方に、女神ドルーガとアチャラ・ナータのご加護がありますように」
「あんたの旦那さんもね」
農民夫婦は喜んで帰っていった。入れ替わりに、医者が入ってきた。長い銀髪を一つに結び、白衣を着た男だ。シンドラ人ではない。真っ赤な瞳がアンジュとトリスタンを見た。
「銃創ですね」
医者は一目で見て取った。
「止血も上出来。大丈夫。助かりますよ」
「良かった!」
あまりの喜びに、アンジュは両手を合わせて泣き崩れた。ついさっきまでの不安が消え、グレースや農民への感謝でいっぱいだった。だが医者は、何故かアンジュの頬を触り、
「ただし、治療費は高いですよ」
と言った。もちろん金は無い。いざとなったら、あのネックレスを差し出すつもりだった。宝よりも彼の命の方が重い。アンジュが胸元からそれを出そうとすると、医者は首を振った。
「金は要りません。貴女の体で払っていただきたい」
◇
トリスタンは夢を見ていた。祖母が、クソ不味いパイを持って追いかけてくる。あんなものを食うくらいなら、死んだほうがマシだ。逃げるうちに、祖母は大ワニになった。もう怖くないぞ、と包丁を構えて立ち向かう。すると、大天使の大声が響いた。
『起きろ!この大馬鹿者!』
彼は目を開けた。白い天井が見える。同時に腹の痛みに襲われ、撃たれたことを思い出した。あのヒスパニア野郎どもめ。銃なんか使いやがって…しかし、想定しなかった自分にも落ち度がある。
(アンジュは?)
病院に運ばれて手当をされたようだ。ベッドの横を見ると、椅子に座ったアンジュがトリスタンの手を握って眠っている。指を微かに動かしたら、彼女も目覚めた。
「トリスタン?…ああ…」
みるみる、黒い瞳が潤む。たった一人で怪我人を抱え、どれだけ大変だったか。やつれても美しい顔に、胸がいっぱいになった。
ドアが開き、白衣を着た医者が入ってきた。トリスタンは驚いた。医者も、続いて入ってきた2人の看護婦も、銀髪に青白い肌の欧州人だったのだ。
「65。安定してますね。明日から食事を始めましょう」
医者が患者の脈を測り、看護婦はカルテに書き込む。起き上がって礼を言おうとしたが、トリスタンの体は全く動かなかった。
「では、約束通り」
突然、空気が変わった。医者はアンジュに手を差し伸べ、彼女は嫌そうに顔を顰めた。
(約束?)
訊こうにも、声が出ない。困惑するトリスタンの目の前で、アンジュはノロノロと立ち上がり、横のベッドに連れて行かれた。医者は白衣を脱いで看護婦に渡した。その赤い目は欲望に満ちている。
「や…めろ…」
ようやく掠れた声が出た。バカな。治療の対価がアンジュだなんて。早く、早く助けなければ。このクズを殺さねば…トリスタンは根性で起き上がった。だがすぐに、看護婦が彼を押さえつけた。
「動いちゃダメよ。傷が開くわ」
彼女達も、赤い目をギラギラ光らせて、唇を舐めている。ここは淫魔の巣窟だ。医者はアンジュの上にのしかかり、細い首筋に顔を埋めた。
「ああ…処女の香りだ。素晴らしい」
トリスタンは腹の痛みも忘れて、全力で抗った。しかし、異常な力にびくともしない。アンジュが医者から顔を背けて、諦めたように言った。
「目を瞑ってて。すぐに済むから」
怒りで全身が沸騰した。彼が魔女達を振り払い、床に転げ落ちた、その時だ。
「はい、ちょっとだけチクっとしますよー」
医者がアンジュの腕に針を刺した。針に続く管から赤い血が吸い出され、下に置いた瓶に溜まっていく。
「はあああーっ!処女の血!尊い!」
彼らは涎を垂らさんばかりに、アンジュの血を見つめていた。




