10 大天使
教会の裏庭はかなり広い。元々、信徒のための宿泊施設を作ろうと考えていた場所だ。そこに、アンジュとトリスタン殿下がジャックフルーツの種を植えている。その上から、ストロング牧師がバケツの水を柄杓で撒いた。
カンテラに照らされる少女を横目に、牧師は先程の会話を思い返した。
『今すぐ、実が成るほどに育てる。ここにいる女神の力を借りて』
本当であれば、十分、子供達を養っていけるだろう。更に女神ときた。半信半疑で『それは在来の神か』と尋ねると、アンジュは聖母像を見上げて言った。
『あの女神。大丈夫。協力してくれるって』
それを訊いた瞬間、戦慄が走った。悪魔や魔女とは何度も対峙してきた。だが、未だ神を知覚した事はない。
(幻覚、あるいは妄想か…いずれにしても、見れば分かる)
種を埋め終わると、彼女は一番大きな子供を起こした。今夜は決して教会から出ない事、明日から牧師が保護者である事、ジャックフルーツの世話をする事など、細々と言い残していた。
「行っちゃうの?こんなに急に?」
「言ったでしょ。逃亡中なの。必ず、みんなの親が迎えにくるから。待ってて」
「本当?」
「本当よ。ね?トリシュナ」
殿下は渋い顔で頷いた。“死神王子”と聞いていたが、とんでもない。亡き先王陛下にそっくりの美男子だ。おまけに慈悲深い。会ったばかりだが、牧師はこの王子が好きになった。少女の尻に敷かれているのが、また面白い。
「じゃあ始める」
月明かりの中、少女は地面に座り、両手を上に向けて祈った。内容は聞き取れない。次に合掌して、その手を頭上に上げると、
「あっ!出た!」
トリスタン殿下が声を上げた。祈り始めてまだ1分も経っていないのに、もう芽が出ている。双葉は葉を増やしながらぐんぐん伸び、あっという間に大人の背丈を越えた。そこで一旦、縦の成長を止め、今度は幹を太らせていった。そしてまた、上へ上へと伸び始める。
(!!)
ストロング牧師は、手にしたカンテラで周囲を照らした。アンジュが植えた種は今や林となり、教会の屋根に届く程に成長している。
(奇跡だ)
呆然と見上げていた時、夜空を横切る影に気づいた。
「危ないっ!」
アンジュに襲いかかるそれを、トリスタン殿下が長包丁で斬った。真っ二つになったカラスを見て、牧師は叫んだ。
「使い魔です!」
アンジュは一心不乱に祈り続けているが、果実は成り始めたばかり。奇跡はまだ完成していない。
「使い魔?なんで?」
「彼女が魔力を使ったから、魔女に見つかったんです!じきにブラックドッグが来ますよ!」
かつて悪魔祓い師だったストロングは、素早くロザリオを拳に巻いた。そして懐から聖水の瓶を出して、両拳にかけ、即席の神聖武具を作った。
「黒い犬?あ、俺のにもかけろよ!ぎゃーっ!ほんとに犬だ!」
包丁にも聖水をかけると、殿下は、喚きながらもブラックドッグを鮮やかに捌いた。見事な腕だが、なぜ剣ではないのか。訊く暇もないほど、大量の使い魔が押し寄せて、いくら殴り潰しても追いつかない。牧師は二人に言った。
「保ちません!早く逃げて!」
だがしかし、アンジュは空に向かって、大きく手を振った。
「アチャラ・ナータ!ここです!」
次の瞬間、強烈な光が裏庭を照らした。牧師は思わず目を瞑った。
(!?)
光は徐々に弱まった。目を開けると、獣は一匹残らず消えており、鎧をつけた美しい戦士が立っている。黄金の髪に、燃えるような金色の瞳。手に剣を持ち、背には大きな羽、輝く光輪が辺りを照らす。
「誰?!え?ミカエル?大天使の?」
殿下が眼鏡と喋るのを聞いて、牧師は頭が真っ白になった。大天使はツカツカと殿下に歩み寄り、ラテン語で怒鳴った。
「愚か者!そんなモノで聖女が守れるか!ほらっ!」
と、王子に持っていた剣を渡す。
「ありがとうございます。あのー。鞘もくれませんか?」
「図々しい奴め!さすがアーサー王の子孫だ!」
怒りながらも、大天使は鞘も授けた。王子は剣を鞘に納め、跪いて首を垂れた。牧師も慌てて平伏した。心臓がとんでもなく激しく打ち、汗が止まらない。
「よくやった、ストロング。受け取れ」
牧師は顔を上げた。賜ったのは、大天使が着けていた手甲だった。この世のものとは思えぬ輝き。見ただけで、破魔の聖具だと分かる。彼は震える手でそれを押し戴いた。
「…ありがたく…」
それ以上、言葉が出てこない。
最後に、大天使はアンジュの手を取って立ち上がらせた。彼女は酷く疲れた様子だった。
「ありがとう、アチャラ・ナータ…」
「今はミカエルだ。無茶をしたな」
大天使はアンジュの肩に手を置いた。みるみる顔に生気がみなぎる。そこでようやく、牧師は、ジャックフルーツがたわわに実っていることに気づいた。彼女は見事にやり切ったのだ。
美貌の天使と少女は微笑み合う。それを見たトリスタン殿下は不機嫌そうに眉を寄せた。
「下世話な事を考えるな。痴れ者め」
大天使は燃える目で殿下を睨んだ。
「いいか、この先に教会は無い。助けられるのもここまでだ。心して行け」
それだけ言い残し、ふっと消える。牧師は深く感動していた。大天使がおられた場所の土を保存しておこうとすら思った。だが殿下は苦い顔で言った。
「あれが俺の守護霊?めちゃくちゃ良い男じゃないか。なんかムカつく」
「文句言っちゃダメ。アチャラ・ナータは滅多に顕現しない。ここの女神が特別に遣わしてくれたのよ。…そろそろ行きましょう、トリスタン」
アンジュは今すぐ発つつもりだ。魔女に居場所を知られたからには、ともかく移動しなければ。支度が整うと、牧師はトリスタン殿下と握手をした。
「道中、お気を付けて。子供達は責任を持ってお預かりします」
「よろしく頼む。コルカタに着いたら、必ず金を送るから。一筆書こうか?」
「結構です。殿下は、とてつもない保証人をお持ちですから」
誰も信じないだろうが、あの手甲と裏庭の果樹園が奇跡の証だ。牧師はアンジュとも握手を交わした。
「ありがとう。素晴らしい体験だった」
「こちらこそ。女神に感謝を伝えて。アチャラ…ミカエルにも祈りを」
牧師は深く頷いた。
「もちろん。ここはその為の場所だ」
二人は馬に乗り、去っていった。大天使が降臨した教会には、聖なる気が満ちている。悪しきものは二度と入ってこないだろう。だが彼らの道のりは険しいに違いない。
(主よ。彼らをお守りください)
ストロング牧師は祈った。願わくば、王子と聖女が、無事に目的の地に着きますように。
◇
二人を乗せた馬は、すぐにボンベイの街外れまできた。15人の養い子を手放し、トリスタンは鼻歌でも歌いたいほどだったが、急にグレースが警告した。
『700メートル先に不審な一団がいます』
彼は馬を止めた。こんな夜中に山賊の集会でもなし、おそらくは追手だ。
「避けられるか?」
『次の十字路を左折してください』
指示に従い迂回する。だが、また別の一団が道を塞いでいて、グレースが別の道を探す。そんな事を3回繰り返した。
『すみません、ご主人様。罠に落ちたようです』
手薄な場所を探していたら、あのヒスパニア野郎が待ち構えていた。
「お久しぶりです。殿下」
レイピアを下げたバンデラスは、大仰な礼をした。相変わらず洒落た服を着て、金髪美人を侍らせている。背後にはバリケードが作られていた。
「これが最後のチャンスです。私と手を組みますか?それとも、囚人になりたいですか?」
「…」
「ルマリのお嬢さんも選ぶんだ。シンドラの星は、正当な持ち主にしか道を示さない。今、降伏すれば、丁重に扱うと約束しよう」
(嘘だ。一度捕まれば、俺は生きてるだけの肉塊にされる。アンジュは…)
おぞましい想像に腹が煮える。すると、アンジュが背後で囁いた。
「貴方はあの男を。ミカエルの剣なら負けない。魔女は任せて」
「大丈夫か?」
「うん」
一瞬迷ったが、二人は馬を降りて敵と対峙した。
「答えはノーだ。彼女もな」
トリスタンが大天使の剣を抜くと、バンデラスも自信に満ちた笑顔でレイピアを抜いた。




