Episode04:公爵夫人と側室の公女ビアンカ~裏切りの宮廷、一夜の夢と王位継承の記憶~
今回は、中世ミラノのヴィスコンティ城にて、公爵夫人の過食嘔吐のシーンから始まります。過食嘔吐というのは、食べきれないほどの食物を胃に詰め込んでは嘔吐を繰り返すと言う摂食障害の症状のひとつです。
初めの内は肥満を回避する「過食症」の症状とみなされてきましたが、「拒食症」でも食べ物を拒否したあとの反動でやはり過食嘔吐することが今ではよく知られています。
嘔吐はしだいに中毒症状と化し、「吐かずにいられなくなる」一種の依存症でもあります。英国王室の故ダイアナ元王妃もこの症状に悩まされたことをご存知の方も多いでしょう。
今回も主役はシビル=公女ビアンカに転生しているので、ビアンカです。
現代のシビルがそもそも摂食障害をわずらっているという設定です。
自分自身とまったく同じ症状をわずらっている公爵夫人に、娘としてビアンカはどう寄り添っていくのでしょうか?
様々な人たちの愛や悲しみが交差する王宮文化とともに、、
その1 公爵夫人の過食嘔吐~紺碧の間で~
ビアンカは朝食の広間に戻ると、異様な光景に立ち止まった。
侍女たちは物々しく動き回り、泣き出す者、窓辺で祈る者もいる。騒然とする中、上座で黙々と食べ続けるのは、公爵夫人ただ一人だった。
こわばった表情、うつろな瞳。卓上の一点を凝視しながら、スープ、チキン、ケーキ、果物を乱暴に口へ運び、ワインで流し込む。カトラリーは散乱し、やがて夫人は手づかみで生菓子をかじりだす。口元はよごれ、ドレスが油やクリームにまみれようと気にもしない。
(ああ、まったく同じだ――私がいつもやっていること!)
驚愕するシビル=ビアンカは、ゆっくりと夫人の側へ歩み寄った。
「奥方様、もうおやめくださいませ……」 いたたまれなくなった侍女が夫人に触れようとしたが、ビアンカがきつく制止した。
「止めないで。お母様の好きにさせて。思いっきり食べて吐き出したいのですから、そうさせてちょうだい……!」
涙を流しながら、理性を失ったように食べ続け、もうこれ以上詰め込めないところまでくると夫人は口を押えてバスルームへ駆け出す――侍女たちが追い、ビアンカもその後を追った。
「王家の名誉と取引、そして忘れられた約束。私たちはそれを守るために笑い、舞い、そして――時には食べては吐くことで肉体を洗い流せるのだと信じてしまった」 そんな伝説をどこかで聴かされたことがある――ビアンカの中のシビルがつぶやいていた。
ヴィスコンティ城の西翼、紺碧の間。
ラピスラズリで彩られたその部屋の窓からは、青いバラが咲く庭園が見える。
清めた身体をベッドに横たえた公爵夫人を、ビアンカは天蓋越しにひざまずいて見守っていた。
医師の診察によれば、夫人は脱水症状を起こしているが大事はなく、ただ安静が必要だという。
侍女たちが焚くバラの香りがむせ返る中、ビアンカは母の手を取った。
「お母様にとって、この王宮がどんなに苦しい場所だったか……お察しいたします」
「いいえ、私のことではなく……あなたのことで辛かったのです、ビアンカ。ごめんなさい、あなたを守り切れなくて」 夫人は意を決したように続けた。
「あと三年……あなたが十八才になったら、公爵の左腕の近衛隊長と結婚することになっているのです。あなたたち2人で公爵家を継ぐことに――これは契約なのです」
「近衛隊長と?」
「彼の名はスフォルツァ――下級の武家の成り上がりの軍人です。公爵殿下はすっかりスフォルツァにたぶらかされている。自分の娘を報奨品扱いするほどに」 夫人の声は震えていたが、涙は流れない。宮廷女性として、涙を見せないことも役割だった。
「ビアンカは覚えていますか? あなたが七歳のとき、本当の母君から引き離されて、ここへ来た日のことを」
「ええ、覚えています」とビアンカは何も考える間もなく言った「その日からずっと、私のお母様は、ここにいるお母様です。側室の母のことは……どこでどう過ごしていたのか、もう記憶がなくなってしまいましたわ」
「ずっと、ビアンカを守り育てることが私にとって生きがいでした。けれど、何もできなかった。あなたが兵隊長に“与えられる”と聞いて、私は……私は、ただのお飾りだったのだと、思い知らされたの。でも、まだ何か策があるかもしれません。あなたを報奨品にするために育てたつもりはないのですから……あなたは私の大切な、大切な娘」
「お母様……」
「母は、あきらめてはいません……」
やがて眠りに落ちた母の寝顔を見つめながら、ビアンカは無力感に包まれる。
公爵夫人の右手の甲にある傷――それは現世のシビルにもある傷だった。嘔吐するときに歯が当たってできる刻印――青黒い夫人のそれは代えがたい運命を暗示するかのよう――ビアンカは祈るように、母の手を自分の両の手の中に握りしめ自分の額に当てていた。
その2 秘密の夜の音楽会
「お母様の気鬱の病を、何とかできないかしら……」自室のバルコニーで、ビアンカがふとつぶやいた。心の奥では、シビルとしての記憶――母エイダがほとんど笑わないことへの本音が顔を出していた。
バルコニーの下では、道化のジャックが赤と青の派手な衣装を揺らしながら手を振っている。「姫様! 気鬱によく効くのは音楽ですよ!」
「音楽……?」
「しかも、公爵夫人仕様の特効薬がございます。今宵、二十一時に紺碧の間へ!」
その夜、紺碧の間に四人が集まった。公爵夫人、ビアンカ、ジャック、そしてリュート奏者ルカ――ルカは、まだ二十代半ばほどの若者だった。しなやかな長身に、漆黒のリュートを抱え、目にかかるほどに伸ばした前髪は彼の閉鎖的な心の表れ――無口で人と交わらないことで知られる彼でもあった。それでいてときどき垣間見られる茶色の瞳は動き回る子犬のよう――彼が織りなす静と動の音の世界観を象徴するものだった。
気が進まないという夫人に、ビアンカは「どうそそのままで。母上はただ座っているだけで、奇跡が起こります」とやさしくうながし、ナイトガウンを羽織った公爵夫人と並んで長椅子に腰を下ろした。
灯りは控えめに落とされ、窓には厚いカーテンが引かれ――「涙を笑いに変える、リュートの名手ルカでございます!」 ジャックが陽気な声で奏者を迎えた。
ルカの指先が弦に触れた瞬間、皆の肌に鳥肌が立ち、心臓が震えた。 強く、軽く、しなやかな波動が、短調とも長調ともつかぬ旋律となって空間を揺らす。 過去をほうふつとさせながら、未来への希望を予感させる高音―― いつしか椅子の背もたれから離れ、公爵夫人はまっすぐに視線をルカに向けていた。
左隣に座るジャックが、音楽に乗せてそっとささやく。
「誰も、人の心までは支配できない。心は自由なのでございます、公爵夫人」
「お母様、私はどこの誰であっても、いつまでもお母様の娘……でも、いつまでも子どもではございません。今度は私が母を守ります」そうささやいて、ビアンカは母の右隣から身体を寄せた。
少し早い調子で弦が刻まれる。 時はただ過ぎていく。王も従者も貧民も、誰の人生もただ時の過行くままに―― ルカが詩を乗せると、軽快な弦が鳴き声のように呼応する。
ついにビアンカの涙腺が崩壊――幼い少女のように鼻をぐずらせる――(この奏者、何者? なんでこんなに私を泣かすのよ……!)
公爵夫人を見れば、彼女も涙を流していた。だが目を閉じたその顔には、うっすらと笑みが浮かんでいる。 夫人の中に、光の灯が宿ったのかもしれない……ジャックを見ると、彼はウィンクを返してきた。
奏者ルカの瞳は、公爵夫人だけを見つめていた。
(髪をおろしたままの公爵夫人もなんとお美しい――いや、この方のお心は常に美しく、上も下もなく、その場のすべての人間に向けられてきた。まだ自分が新人で演奏中にミスを起こしたあの日でさえも――)今ルカの全身全霊は、彼女のためだけにあるのだった。
小さなお忍びの音楽界は盛況のうちに静かに幕を閉じ――夜はまだまだこれからですよと、道化のジャックが皆にウィンクするといち早く立ち去っていった。
その3 宮廷の恋と愛
「ね、大成功だろう?」 ジャックはバルコニー下から、部屋に戻ったビアンカに両手を振って声をかけた。
「さすが、お見事でございました……」 ビアンカは満面に笑みをたたえ、片足を後ろに下げて膝を折り、深々と礼を伝えた。 「確かに、ルカは超達人のリュート奏者ね。私がすっかり忘れていたような意識の底を刺激するのよ」
「宮廷のバンドメンバーの間では、月が耳を澄ますって噂されるくらいの腕前さ。そして、ルカの一推しは公爵夫人! ここが重要なんだ」 ジャックは得意げに続ける。「ルカはずっと公爵夫人を見ていた。彼女が笑えば音は明るくなり、泣けば沈んでいた……どっちかっていうと、僕はルカの願いを叶えたかったんだ」
「まあ! そうなの?」
「今日は初めて公爵夫人と触れ合って、あいつはもう本望さ。きっと今頃、2人とも天に昇るような時を過ごしているよ」そう言ってジャックは嬉しそうに夜空の星々を見上げた。
「今流行りの宮廷遊び※ね……」とビアンカは娘としては少々複雑な面持ちになる。
※宮廷遊び:中世ヨーロッパの城内で遊びの恋を楽しむことが貴族たちの間で流行した
「そうだね、宮廷で恋はレジャーさ。誰が誰と一夜を明かしたかなんて、翌朝には忘れられる。でも、ルカはきっと明日も明後日も、公爵夫人のためにリュートを弾き続けるだろう。今日のお忍びの音楽会に、彼は命がけで来ていたんだ。他にも公爵夫人推しの奏者はいる。でも、他の奴じゃおじけづいて来れなかっただろう」
ジャックは帽子を胸に抱え、少し真面目な顔になった。「公爵夫人は笑えなくなっていた。でも、ルカの愛の力なら――きっとまた夫人の心を、もう一度、動かせるかもしれないって、僕は読んだんだ」
「愛……愛なのね!」ビアンカの顔も明るくなる。
そしてジャックの読み通り、月明かりが差し込む紺碧の間で、公爵夫人とルカは 白いシーツの波間で静かに深く溶け合っていた――それは激情でも慰めでもない、ただ「人として」触れ合う時間だった。
出会うべくして出会った二人が、魂で触れ合っただけのこと――ルカは「この宮廷で音楽を極められたのは、尊い公爵夫人の存在があってこそ」と語り、公爵夫人は「ルカの音楽に命を救われた」と告げる。二人それぞれに出会えた意味と幸せをかみしめていた。
しかし、宮廷には影が潜んでいた――。
その4 密告の朝
翌朝、ヴィスコンティ公爵の執務室に一通の密告が届いた。筆跡は偽装されていたが、内容は明確だった。「公爵夫人の寝室で、若い音楽家が一夜をともにした」
公爵は書簡を汚らわしいもののように指先で触っては短く言った。
「それは誠か否か……でっち上げなら、許すとしよう」
熱のない法のようなメッセージが伝えられると、公爵夫人は「でっち上げではありません」と明確に回答した。このやり取りが三度繰り返されたあと、命が下った。
「二人ともに斬首だ」
鋭い刃のような空気が宮廷中を満たす中、回廊を移動する公爵の姿を見つけたビアンカは、思わず「お父様」と呼びかけそうになり、口をつぐんだ。 公爵の目じりに、一抹の光が見えたのだ。
「公爵が泣くかって?」 ビアンカの問いに、ジャックは少し考えてから答えた。「公爵夫人は彼の所有物。裏切りは断罪。でも感情まではどうだろう。感情はモノじゃないから。独占が破られた怒りの裏で、彼は失いかけたものの影を見たのかもしれないね」
「ならば、まだお父様には説得の余地があるわよね……でもそれは最後の手段。まずは母様に、これはでっち上げだと、嘘でもいいから言ってもらわなきゃ」
夜が深まると、ビアンカは灰色のマントを羽織り、すでに母が移された離宮へ――ジャックの導きで向かった。
石の階段は冷たく、月光が隙間の影を長く引いていた。 扉の格子越しに見えた母は、紺碧のドレスに身を包み、月に祈りを捧げているようだった。 牢屋とはいえ、整えられた調度品に囲まれ、夫人は「何不自由ありません」と言わんばかりの気の強いまなざしでほほ笑んだ。
「ビアンカよ、これが宮廷です。わかりましたね」
「お母様……」 震えが止まらないビアンカは懇願する。「どうか、これはでっち上げだと言ってください。わたしのためにも!」
しかし、公爵夫人は首を横に振った。「ここでは、常に誰かが誰かをおとしいれようとしているのです。鋼鉄の心が必要なのよ……私は負けたのです。権力にも、妨害にも。あなたの母として、最後に身をもって教えましょう。あなたはもっと強くなって。ヴィスコンティ公爵を超えるだけの強さを、学び、会得することです」
その言葉の冷たさと優しさを同時に受け取りながら、ビアンカは母の言葉に耳を傾けた。
「宮廷では、誰にも心を許してはいけないのです。そして許すなら、その許しは最期のときすら共有するものでなければならない……私とルカは、そうしたのです。私たちは生まれ変わり、今度は添い遂げましょうと儀式をしたのよ」
母の差し出す手に触れた瞬間、少女は理解した。これは懺悔でも、自己保身の言い訳でもない。 宮廷の掟に対する一種の宣言。彼女なりの尊厳の示し方だった。
昨日「母を守ります」と伝えたばかりなのに―― ビアンカは歯噛みすることしかできなかった。
その5 冷たい回廊、目覚めの声
夜が明けるのも待たずにビアンカは父の執務の間へひとり赴いた―― 妻でも娘でも容易に立ち入ることの許されない場所。 ヴィスコンティ城の冷たい石の床に膝をつく、灰色のマントに身を包んだビアンカの姿がそこにあった。許しの声が届くのなら何をしようともいとわないと。
回廊に肌寒い早春の風が吹き抜けるたび、彼女の全身を冷たく刺した。 侍女たちのささやきも、衛兵の足音も、すべてが遠くに感じられる。 彼女はただ、扉の向こうにいる父の許しを願っていた。
ようやく通された執務室では、朝食を兼ねた軍法会議が始まっていた。 銀食器の音、地図の広げられる音、側近たちの低い声―― 紫のガウンを羽織ったヴィスコンティ公爵は椅子に深く腰掛け、ただ娘をちらりと見やる。 彼女の冷え切った身体や乱れた髪に、何らかける言葉もなかった。
「お父様……お母様を、本当は許したいのではありませんか?」 ビアンカの声は震えていた。だがその奥には、確かな問いがあった。 「愛していたからこそ、憎しみも強いのでは?」
公爵は一瞬、手を止めた。 だが次の瞬間には、冷笑を浮かべて言い放つ。
「お前はここにいる兵隊長のスフォルツァと、明日にでも挙式で構わんぞ」
そばにいる大柄な中年男性を見て、ビアンカは息を飲んだ。(これがスフォルツァ!)
鋼鉄の鎧を思わせる黒革の軍装に身を包み、肩幅は扉の枠ほどもある。 顔には深い傷跡が一本、眉から頬へと走り、その間に見られる片目はわずかに濁っていた。 無表情のまま命令を待つ、まさに心など介さぬ戦闘機さながらだ。
「ビアンカはじゃじゃ馬だが、よく飼い慣らしてやることだ。お前の好きにするがいい……連れていけ」
命じられた黒づくめのスフォルツァは、表情を変えることなくゆっくりと歩み寄り、ビアンカに腕を伸ばした。 (何? 何なの、連れて行くってどこへ?!) 全身から血の気が引き、逃げ出そうとするが身体がこわばり、手足が動かない。
「やめて……助けて!!」
ビアンカの悲鳴が石壁に響いた次の瞬間―― 目を開けると、彼女はシビルに戻っていた。
「シビル、大丈夫?」 いつもの自分の部屋とウェイトとエイダ夫妻の心配そうな顔が視界に入る。 シビルは上半身を起こし、つぶやいた。「夢……?」
「あなた、うなされていたわ。とても苦しそうだった」 母のエイダが背中をさすり、ウェイトはグラスの水を差し出しながら心配した。 「何か、怖い夢でも見たんだね?」
シビルはしばらく言葉が出なかった。 いや、あれは夢ではないだろうと――夢の中で感じた恐怖、スフォルツァの手の感触、宮廷の香り――すべてが現実のように鮮明だった。
「……お母様が、斬首されるって言われて……私が、誰かに……」
エイダは両腕でやさしくシビルを包み込み強く抱いた。 「もう大丈夫。あなたは守られているわ」
守られている――その言葉に、シビルは少しずつ呼吸を整えた。 夢の中で見たものは、過去の記憶か、未来の予兆か――分からない。ただひとつ確かなのは、彼女の心の奥に、宮廷の冷たさと母の強さが刻まれていたということ。
「母様……私、強くならなきゃいけないんだよね」
エイダは微笑んだ。「そうね……でも、強さは誰かを傷つけるためのものじゃない。守るためのものよ」
ウェイトは静かにシビルの肩に手を添えて言った。
「人が見る夢には、必ず何か意味がある――きっと後になって役に立つのかもしれない」
夢の中で差し出された白い手の感触と公爵夫人が伝えた最後の言葉がシビルの中でこだまするのだった。
「鋼鉄の心を育てなさい。そして、ヴィスコンティ公爵を超えるのです」
●摂食障害に関する補足事項【日本国内の摂食障害患者数(2025年推定)】
総人口:約1億2,400万人
摂食障害の総患者数:約24万人(全年代含む)
内訳の補足
年代 主な傾向 備考
10代 拒食症・過食症ともに発症率が高い 特に女性に多く、学校や家庭環境が影響
20〜30代 過食症・過食性障害が増加傾向 社会的ストレスや孤独感が背景に
中高年層 過食性障害が中心 更年期や家族関係の変化が影響することも
※診断されていないケースも多数
実際には、診断を受けていない“潜在的な患者”も多く、統計以上の人数が存在すると考えられています。
特に男性や高齢者は、摂食障害と認識されにくいため、統計に現れない苦しみがあることも重要です。




