Episode 03:シビル、ヴィスコンティ城へ~追憶のピエロ~
シビル、ヴィスコンティ城へ — この回はシビルが主人公。夢見た朝、イタリア、ミラノ公国の侯爵家令嬢“ビアンカ”として目覚めた彼女。白い羽が落ち、侯爵の冷酷な命令が場を凍らせる。公爵付きの道化ジャックの出現は救いか策謀か。記憶と仮面が交錯する宮廷ミステリ――真実の輪郭が徐々に明るみになります。
シビルが目を覚ますと、天井から吊るされた巨大なシャンデリアが視界に入った。 銀細工の枝に無数の蝋燭が灯り、朝の光を受けてゆらゆらと揺れ――小さな炎が夜の名残のように空間を照らしていた。
その下には、天蓋付きの寝台。そこにまさに彼女は身をゆだねている――深紅の羽布団には金糸で薔薇の模様が刺繍され、まるで花海に沈みこむ心地よさだ――抜け出したくない一方で、かぐわしい甘く重たい空気の正体も気になり彼女は体を起こした。
(乳香※かしら……)
※乳香:フランキンセンスとも言われる古代エジプト時代よりミイラの防腐剤などにも用いられされていたメディカルハーブ。聖なる儀式に使用されるポピュラーなアロマオイルでもある。オイルバーナーを焚きながら瞑想すると効果的。
壁を見渡せば重厚な額縁入りの油絵がずらりと並び、床には華やかな絵織物の絨毯。窓辺には手仕事を思わせる繊細なレース編みのカーテンが揺れ、外の光を柔らかく差し込ませている。
「ビアンカ様、お目覚めですか?」
ミューズのような淡いワンピースにフリルつきのエプロン姿の女性が入ってきて、シビルを「ビアンカ」と呼び続ける。壁に据え付けらえた大鏡に映った自分の顔に彼女は驚愕した――誰?いったいこの顔――(ああこれは夢なのね……)ようやく合点がいくものの謎は尽きない。(何なのこの夢は……この異国のお屋敷みたいな場所は一体?)
「ビアンカ様、お召しものを替えさせていただきます」
(このことば、英語じゃないわね……でも理解はできるわ……とりあえず、私は「ビアンカ」でやっていく……ことにするわ)
エプロン姿の女性たちが次から次へと入れ替わり立ち代わり、銀の盆に乗せた温水でビアンカの顔や手を拭い、下着を変え、金糸がふんだんに縫い込まれたシルクらしき光沢のあるドレスを着せる――コルセットは3人がかりで締め付けられ、髪は5人がかりで編み込み、リボンで整えられた。繊細なレースの衿元、パフスリーブ、幾重にも波打つミルフィーユのようなスカート――リーダー格と思しき黒いワンピースにエプロン姿の中年の側使いから、介添え役の若い貴族令嬢(Maid of Honour)の手にローズマリーの香水瓶が手渡たされ、最後に軽くビアンカの全身に振きつけられた。
「では、ご祈祷室へ」
前後左右に侍女たちを従えて歩いているように見えるが、実際ただビアンカはニュートラルな姿勢でいるだけで、周囲が彼女を連れまわしていく――彼女の意志とは関係なく。皆といっしょに小さな礼拝堂に入ると、聖母像の前にひざまずき、短い祈りを捧げるビアンカだった。
さらに侍女の手に導かれ、石造りの回廊を進むと、壁には古いタペストリーが並び、床にはレッドカーペット――窓から差し込む朝の光が、中庭の噴水をきらめかせている。
途中、出会う者たちすべてがビアンカのために道を開け、深く一礼する――私ったら相当なお偉いさんのようね――徐々に気持ちが高揚していく。
「おはようございます、ビアンカ様」
「……おはよう」と思い切って返してみれば、さらに深いお辞儀と歓喜のまなざしを向けられて、芽生える宮廷プリンセスの自覚に胸の高鳴りを覚えるのだった。
次に回廊を抜けると、大食堂が現れた。天井の高いホールには金銀のシャンデリアが吊るされ、高い窓から注ぎ込む朝日とともにこうこうと広間を照らしている。長いテーブルには果物と焼き菓子、朝食にはにつかわしくない肉やハムも所せましと配置され、銀の食器も花柄の陶磁器も――何もかもがより取り見取りだ――普段なら、大量の食品を前にめまいの発作を起こすところだが、ここでのビアンカは何ら動じることはなかった。(さすがに夢の中ですもの……!)
「おはよう、ビアンカ。よく眠れて?」と正面上座に着席していた紺碧色のドレス――同じく深い海色の瞳に透けるように白い肌の婦人が柔和にほほ笑み――ビアンカは圧倒されかかった。
「お母様……?」どこかエイダを思わせるその貴婦人に思わず口走るビアンカ。
「ええ、母もよく眠れてよ。いっしょに東洋のお茶をいただきませんこと?」
その声はやさしく、なつかしい響きを持っていた。ビアンカがうなずくと、母君は手ずから陶器のカップに茶花を入れ、ティーポットのお湯を注いだ。香りとともにみるみる内に白い陶器の中で花が咲き広がる様子に、2人はニコリと見つめ合った。
そのとき、扉が開き――その場にいた者たち全員が立ち上がり最敬礼する中、母君が皆を代表するように控えめな声で告げた。
「ヴィスコンティ公爵殿、おはようございます。今朝のお目覚めはいかがでしょうか」
公爵……? たしか歴史の時間でやったわよね、一番下が男爵、その次が子爵、その次が伯爵……公爵※ったら最高位だわ!! 国家権力者の……娘がこの私――彼女の全身に緊張が走った。
※公爵:ここではイタリアの中に複数ある公国の最高権力者を指します。これら公国のトップである公爵たちをたばねていたのが神聖ローマ帝国(旧ドイツ)の「皇帝」でした。ここに登場するヴィスコンティ公爵はミラノ公国の第三代公爵です。
ヴィスコンティ公爵は、最高権力者ながら小柄な男性だった。絢爛とした装束の上から濃い紫のローブをまとい、金銀の刺繍が朝の光をすくっていた。肩に乗せた白いオウムが、公爵のあご先をのぞき込むように鳴く――奇妙な愛玩と威厳が同居する光景だった。
「顔を見に来た」とヴィスコンティ公爵は短く言い、席に着くことなくテーブルの端に立った。彼が一瞬目を伏せると一同は着席するも、食事を再開するものはなく、皆の視線は公爵に、公爵の視線はビアンカに注がれていた。
「ビアンカよ、エステ公爵家への嫁入りは……却下となるかもしれん。いずれにしてもだ、お前はこのミラノ公爵家の外交役だ。アートなどはほどほどに、古文書でもしっかり読めるようになることだ」
その言葉は命令であり、また識別なのか――ビアンカは自分がビアンカ以外の「誰か」として扱われることへの違和感と、よくある父と娘の関係にとどまらざる「何か」を感じ取った。母君は伏し目がちに微笑みを保っている。
ふいに公爵の肩に止まっていた白いオウムが羽を広げ、一枚の羽根がテーブルの果物皿をかすめ、金粉をまぶした菓子の上にふわりと舞い――年若い侍女が慌てて手を伸ばし羽根をはたきとばして言った。「よかった――毛が入らなくて」
瞬時に公爵の顔色が変わり、その場が凍りついた。射貫くような視線が若い侍女に向けられ――「こやつの首をはねよ」と公爵は抑揚なく告げだのだ。きびすを返して部屋を出ていこうとする彼を、周囲の誰もが息を飲み、見守るだけだった。
「待って、お父様」無意識のうちに立ちがり、父を呼び止める自分自身にビアンカは驚かされつつ明確に言い放っていた。「お父様は、人の命をもっと尊重すべきかと。そして、私は、お父様の政治の道具ではありませんわ」
一堂が顔から血の気を引かせ、空気が張り詰める――とそこへ舞台の幕が開くように、彼は飛び込んできた――赤と青のツートンカラーの衣装に身を包んだ道化が、四つ五つのボールでお手玉に興じながら一回、二回――軽やかなギャロップで床をけり、食堂の中央に躍り出ると彼は両手を広げて叫んだ。
「Mamma mia! すっかり寝坊しちゃって……ねえ、まだ僕のパンは残ってるかな?」
ビアンカと対峙しようとした公爵との視界は道化にさえぎられ、2人ともそれぞれの表情を確認できない。
道化はビアンカの前にそそくさと歩み出しては両手を差し出した。
「僕にもパンをお恵み下さい!」
(え?何なのこのピエロは……)ビアンカが目をしばたたかせると、母君が道化を受けてほがらかに言った。
「さあさ、わたくしのパネトーネをたんとおあがりなさいな!」
道化は大きく目を見開いて満足げにうなずき、次いで目線を公爵のお付きに向けた。
「おっと、ヴィスコンティ公爵閣下はご退場ですね。どうぞお忘れ物なきよう。政務にお戻りくださいませ!」
一礼にも似た仕草で邪気なくうながし、道化は公爵を移動させることに成功したのだ。
にわかに場の緊張感がときほぐされる――母君に合わせて周囲の者たちも、道化にパンや焼き菓子をふるまい、涙目の若い侍女にも笑顔が戻った。母君は無言の感謝を込めて、道化をやさしく見つめた。
ビアンカがあっけにとられて皆を見渡す中、道化が彼女にウィンクを送った。
既視感があった――「ジャック!?」とビアンカが思わず口走ると、道化はひょいと肩をすくめて駆け出していった。
「待って!」
ビアンカも彼に続いて駆け出す。
「姫様!」
「ビアンカ、戻りなさい……」
皆が驚いてとめるも、ビアンカは夢中で道化の後を追った。こんなところにジャックがいるなんて、どうして?――しかし彼女はすでに道化の姿を見失っている――それでも、かすかな笑い声が遠くの廊下の曲がり角の先から聞こえる。赤と青の衣装をまとった道化師をビアンカは探し続ける。
中庭が見える渡り廊下に出ると今度は影が見えた。廊下が迷路のように分岐するお城の中でまるで鬼ごっこだ――ビアンカのドレスの衣擦れの音、大理石の階段に響くハイヒールの音――彼女の息が荒くなり、つまずいて転びそうになった瞬間、近くの支柱にかくれていた道化が素早く彼女を抱きとめていた。
至近で見つめ合う2人――「あなたジャックでしょう?」
ひび割れた仮面の隙間から、深い瞳が揺らめく。
「次は――宮廷のサロンで」 そうささやくと、道化師は軽やかに身を翻し、暗い回廊へ消えた。
残されたビアンカの手には、ひんやりとした仮面の破片。 それをぎゅっと握りしめた。
To be continued.
さて、現存する最古のタロット、それはイタリア、ミラノ公国のヴィスコンティ公爵のために作られたものだということを、ご存知の方もいらっしゃるでしょう!
当時の宮廷文化において、「道化」というのは、大変重要な存在でした。王の側にいて、エンタテイナーとして以外にも、王の愚痴や不満を聴いたり、王ができない馬鹿げたことを代わりにしてあげるなどの役割を担っていました。ほぼ何をしても許されるという特別な存在だったそうです。




