Episode 02:拝啓 お父様
ウェイト47才、シビル13才、ウェイト版というタロット制作に入る10年前の設定です。ウェイトは生涯でおおよそ100冊あまりの著作を残しており、多くが心霊、神話、精神世界研究ですが、散文詩なども残しており、シビルが生まれた年に「妖精」にまつわるファンシーな詩集を刊行しています。
ウェイトは最初の奥さんが他界された後、再婚しており、二人の女性共に彼の執筆業を大いに支えた存在であったことも知られています。
年が明けても、まるで色彩も音も失われたかのようなアーサー家だった。父も母も娘も言葉少なに、それぞれの傷が癒えることをかろうじて願いつつ、しゅくしゅくと日常を紡いでいた。
ウェイトはシビルとエイダの心身のケアを最優先にした。とくにエイダがコカインの中毒症状から完全に抜けられるよう、ありとあらゆる手を尽くした。博物館の仕事をときに休み、『黄金の夜明け』の雑務からも距離を置いた。末端のいかがわしい信者たちが開いたパーティーとエイダの関係について、いつか呼び出しが来るかもしれないという警戒もあったが、不思議なことにその話題が誰の口にも上ることはなかった。
窓辺に春の息吹が感じられる頃、エイダはほぼ全快していた。ウェイトは、この家の中で自分がどれだけの隔たりを作ってしまったのだろうと振り返った。一階の父の書斎と二階の母の寝室のはざまで、シビルは心を痛めてきたのかもしれない――ウェイトはエイダに懺悔し、「それでもなお愛している」と改めて告げた。しかしエイダはうつむいて首を振るばかりだった。娘の病状を置き去りにして、2人は離婚の手続きを踏むこともできず、何の答えも見いだせなかった。
「アーサー、私、今日ちょっと出かけてきます……」
ある朝、エイダは春らしい若草色のジャケットに、同じ色のボリューミーなスカートを合わせてゆっくりと階段を下りてきた。胸元には小さな真珠のブローチが光っている。――いよいよ弁護士のところへ行くのか。ウェイトは(私に何も問う資格はあるまい)とできる限りの笑みを浮かべて言った。
「シビルの朝食は私が運んでおこう……いってらっしゃい」
ウェイトがシビルの部屋をノックして開けると、机の上にインク瓶が開いたまま、ペンが転がっているのを見つけた。触れないように紅茶とトーストのトレイを置き、「仕事に行ってくるよ」とだけ言って部屋を出て行った。
ベッドで毛布をかぶっていたシビルは勢いよく起き上がると、夜通し読んでいた『The Little Women(小婦人たち)』をもう一度開き、書物につづられていた四姉妹それぞれの物なってを自分のことばで書き表したくてしょうがないのだ。彼女はペンを握り、最初の一文を書き始めた。
しかし、予定していた物語はふいに形を変え、なぜか主人公の多感な少女が父親に手紙を書きだす描写になっているのだ。
拝啓 お父様……シビルがペンを走らせる。
幸せは、いつだってするりと指の間からこぼれ落ちていってしまうものなのですね。 木もれ日の森では、親友クラリスと心の誓いを交わし、帰り道には捨て犬と出会って家族になる夢を見た日々――それが今はただ、あなたのせいで粉々に砕けてしまいました。 私はあなたの子どもになんて、生まれたくはなかったのです。
ああ、もう……何よこれ! 彼女はノートを破り捨て、紅茶とトーストをにらみつけると、トレイごとキッチンに戻して流しに乱暴に置いた。「絶対食べないから!」
この頃のシビルは、ほとんど父母と必要以上に口をきかず、不登校を決め込み、読書と昼寝三昧の中で、食事をとるのは三日に一度――だが、最近はある種の救いを「書物」に見出している。体調のよい日を選んで、週に一度は駅近くのペニー・ライブラリー※1に足を運んでいた。
※1 ペニー・ライブラリー(Penny Lending Library):19世紀末から20世紀初頭のロンドンで流行した低価格貸本館。1ペニーで小説や雑誌を借りられ、下層階級の読書文化を支えた。
その日のペニー・ライブラリーで、彼女が手を伸ばした「天使の世界」というタイトルの本に、同時に別の手が伸びてきて、2人の手先に小さな驚きが走った。
見上げれば、背が高く、どこか薄汚れた身なりをしているが、顔には無邪気な子どもの面影が残る少年が――「いっしょに読もうよ!」屈託なく笑いかけた。
思いがけないそのことばに、シビルの胸に温かいものが広がった。少年は手早くライブラリーの空いた席で『天使の世界』を広げて手招きする。ほこりっぽい空気の中でページの匂いがふたりを包んだ。
ジャックと名乗る少年のひょうひょうとしたふるまいにシビルは引き込まれ、「書物」がふたりの関係の媒介になった瞬間だった。
ジャックはページをめくるたびに目を輝かせ、天使の羽根の色や階級について、時折ページを指さしては軽い説明を付け加える。
「堕天使のルシファーは、光の天使ミカエルと同一人物だよ」
「翼の色が白いのは最下位の大天使。青と赤が最高位の天使の色だ」
袖の油じみや爪先のよごれはシビルにとってどうでもよいものとなり、彼のテンポのよい語りと熱に乗って、2人は同じ一冊の世界に没入していた。
読み終えるころには、2人はすっかり打ち解けていた。
「天使が好きなら、神話はどう? 俺は天秤座だから守護神はアフロディーテさ」
「私は……乙女座だけど?」
「守護神は農耕の女神デメテルだね……きっとこの本、面白いと思うよ……」
ジャックは棚から『ギリシア神話入門』を取り出し、「これは、星のメッセージを聴くための最初の事典さ」と言った。
「星の……メッセージ?」シビルは首をかしげる。
「たとえば、シビルが生まれた夜、空にどんな神々が並んでいたかを知ることができる。 デメテルの隣に正義の女神アテナがいるなら、君には法と戦略の力もあるはずだ。 アポロンなら、芸術と予言の光を持って生まれたことになる」
「え、何それ……星座占いって神様と関係あるの?」 少し戸惑いながらもシビルは興味を隠せなかった。
「占いは、神話の別の形なんだ。大事なのは未来を占うことじゃない。自分で自分の物語を選んで、自分の神に近づくことなんだ……って、行きつけの古物屋のおやじサンが言ってた」とジャックは笑ってみせた。
彼は棚から一冊の書籍を探し出すと、シビルに手渡した。
「『The Key to Your Own Nativity』――「君だけの星の物語を解く鍵」これはすんごく、いけてる!」
「……ちょっと難しいよ」シビルはバラバラとめくっては気おくれしている。
「まずは神々の物語の項目から読んで、そうデメテルの話からでいい。そこからアポロンでもアルテミスでも、好きな神様を見つけて」
「わかった、借りて家で読んでみる」
ジャックはやさしい目を向け、嬉しそうにうなずいた。
「ま、また会おうよ!」と別れ際、シビルは勇気を出して提案したが、ジャックは歯切れが悪かった。
「いや、俺、日雇いの仕事してるから……」
聞けばジャックはシビルより二歳年上だが、学校へは行っておらず、家はロンドンはずれのスラム街にあるという。ペニー・ライブラリーでさえもひんぱんには利用できないらしい。
「じゃあ、本は私が借りるから、私かジャックの家で一緒に読めばいいわ」
「いや、君んちはやめたほうがいいよ。ウチもちょっと……母さんが内職してるし、弟はまだ小さくてうるさいから」
ジャックは後ろ髪に手ぐしを入れ、気まずそうに視線を泳がせた。やせこけた手足にほつれや破れのある服を見れば、彼の暮らしぶりがどの程度か、シビルにも想像がついた。
「じゃあ、ここでも、公園でもどこでもいいじゃない。本が読めれば!」
二人は握手をして別れた。見ず知らずの素敵な少年、開けてくる文学と神々と星の世界――シビルは半ば小躍りしながら家路をたどった――が、大通りに差し掛かると、足が止まった。
かつての親友クラリスと同級生たちのグループが向こうからやってくる。顔見知りもそうでない面々も混ざった群れに、シビルは無意識に後退していた。白いブラウスにチェックのボトムス姿の彼らがシビルに気づいて向かってくるともう気まずさでいっぱいだ。
「シビル、具合はどう?」とクラリスが心配そうな顔を見せるが、
「ただの不登校でしょ」と他の少女が冷やかして、はすから視線を注いでくる。
クラリスだけはシビルに近づき、「あなたが学校に来ないと寂しいわよ!」と肩を抱き、指先でほっぺたを軽くつついておどけてみせた。
クラリスはいつだってこうしてスキンシップで人と打ち解けてしまう。誰とでも仲良くなれる彼女にとって、シビルの存在の有無など大差ないはずなのに、シビルはうらやましい気持ちをかみしめつつも同情の仕草に確実に自尊心を刺激されて複雑だ。
「これから皆で家で勉強会するんだけど、一緒に来る?」と思いついたようにクラリスが言った。
「え、いやだよ」とシビルが答える前に男子の声。
「こんなやつ誘うなよ。場が暗くなるだろ!」と男子たちが無骨に言い放つと他の女子も騒ぎ立てる
「そうそう、シビルのお父さんって悪魔の本とか書いちゃってるんでしょ? 家でみんなで黒魔術とかやってるんじゃないの?」
「キモい挿絵の本、私も見たことある!」
「やめなって」
またお父さんの本のこと!――もうんざりだ――シビルはいたたまれず駆け出した。クラスメイトたちの冷やかしと嘲笑がまだ背後に飛び交う中で、ふと乗合馬車の停留所で、馬車から降りてくる母エイダの姿が視界に入った。お出かけ用のジャケットとスカートを着て、楽しげに笑っている。そんな母を最後に見たのはいつだったか――エイダと指先をからめあわせながら馬車の中から見送っているその男は誰?
歩みは徐々に遅くなり、シビルの目にたまった涙で視界は完全に水の世界だ。
今度はお母さんが私を――私とお父さんを捨てて出ていくの? 私、これからどうすればいいの?
放心状態のまま家へ戻ったシビルは、帰路の記憶が途切れていることに気づかなかった。どこか青く深い悲しみが、いつの間にか憎悪の炎に変わって赤々と燃え上がる。
「畜生……!」
誰もいない家に帰宅するとシビルはまっすぐキッチンに駆け込み、パンでも残り物のシチューでも手当たり次第にむさぼり食べ尽くすのだった。
娘のシビル、病気がやばそうです。。史実ではウェイトの後妻を家から追い出してしまっているんですよ。。若干ヒッキー。彼女の影響をうけながら、これからどういう展開でタロットカードが編み出されていくのか、お楽しみに!




