第3話 簡単なパンを焼いてみよう
メェ (では、レンタルキッチンに移動しよう)
メエェ(レンタルキッチンを利用すると念じてみてくれ)
メメェ(チュートリアル中はレンタル料無料)
「はい」
指示に従い念じると、ホームエリアへの移動と同じように、ぱっと視界が切り替わり、高い建物の一角にある部屋に瞬間移動しました。
大きなテーブルと洗い場、様々な調理器具や食器類が用意された、清潔で広い部屋。旧時代の廃墟に残されていた、砂まみれの家庭科室を思い出しました。
分厚いガラスの窓の向こうには緑に覆われた廃墟の街と、魔王城という言葉が頭に浮かぶような西洋風の城塞が見えます。
「ここは、新宿でしょうか?」
東京大迷宮中枢部。
迷宮王アデスの住まいとされる新宿ラストダンジョンの近くのようです。
メェ (新宿冒険者センタービル。一応新宿ラストダンジョンの一部になる)
メエェ(ここからのダンジョン攻略はできないようになっているがね)
メメェ(上のフロアには展望室やレストランもある)
設備が充実しているようです。
窓から見下ろすと、草木に埋まった廃墟の市街のあちこちに、ドラゴンやキマイラと言った大型モンスターが陣取っているのが目に付きます。
要塞都市や他国軍の侵攻、アンデッドに対する備えなのでしょう。
ドラゴンを倒すと万能薬をドロップするとのことですが、今の私にどうにかできる相手ではなさそうです。
「なにからはじめましょうか?」
メェ (簡単なパンを作ってバザールで売るところまでやってみよう)
メメェ(生産系冒険者がPPを稼ぐときの基本的な流れになる)
メエェ(なにか作りたいものはあるだろうか?)
「なにも思いつきません」
クロワッサンなら池袋の地上市街で食べましたが、難度が高そうです。
あとは食パンやコッペパンあたりしか思いつきませんが、難しいものなのか簡単なものなのかもわかりません。
メェ (コックパッドを調べてみよう)
メエェ(ホームエリアやセーフティーエリア内ならばステータス画面と同じ要領でダンジョンネットを利用できる)
メメェ(ブラウジングと念じてみたまえ)
ダンジョンネットは東京大迷宮が独自に運営している冒険者向けの情報ネットワークです。指示通りに念じて閲覧用ウィンドウを開くと、検索ページが表示されました。
バロメッツ達のナビゲートを受けながら東京大迷宮が運営している冒険者向けの料理サイト、コックパッドに移動します。
バザールと呼ばれる取り引きサイトで買えるPP交換食材や、迷宮内のドロップ食材を使った料理のレシピを公開しているサイトです。
東京大迷宮が出している公式レシピの他に冒険者の投稿レシピも色々公開されています。
「【英国グルメ】星を見上げるパイ?」
丸いパイの上から銀色の魚が何匹も顔を出している不思議なパイが今日の一番人気レシピのようです。
「美味しいんでしょうか?」
メェ (いや、荒らされているな)
メメェ(騙されるな)
メエェ(ブックマークしなくていい)
騙されかけてしまったようです。
メー(ネットリテラシーを鍛える必要がありそうだ)
否定材料は見つけられませんでした。
今度は変な情報に引っかからないよう、慎重にレシピを選びます。
「これでどうでしょう」
メェ (プチフランスか)
メエェ(手頃なところだな)
メメェ(いいんじゃないか)
問題ないようなので、手頃な大きさのプチフランスパンを作ってみることになりました。
材料は強力粉と薄力粉をブレンドした準強力粉とドライイーストに塩と水。
コックパッドを使うと食材のリンクがバザールにつながっているので便利です。
調理器具と塩はレンタルキッチンにありますので、今回はブレンド済みの準強力粉とドライイーストだけをレシピの食材購入ボタンをタップして購入しました。
普通に買うとPPの支払いが必要なのですが、チュートリアル中は無料となります。
決定ボタンを押すと準強力粉と、ドライイーストが綺麗にパッケージされた状態でテーブルに現れました。
バロメッツたちの説明によると、バザールで購入できるPP交換アイテムは大きく三つのグループに分けられるそうです。
一つめのグループは冒険者達が生産、発見して出品したアイテム。
二つめのグループは東京大迷宮側が直接出品したアイテム。
三つめのグループは、いわゆる並行世界、アンデッド災害などの起こっていない地球で作られたものを迷宮王アデスの力でこの世界に持ってきたアイテム。
今回の準強力粉とドライイーストは三つめの並行世界産アイテムとなります。
迷宮王アデス自身も並行世界で生まれた超次元的な存在で、数多くの並行世界において東京大迷宮を構築し、相互に資源をやり取りすることで並行世界群を支配しているそうです。
もっというと迷宮王アデス自身も、ひとつの世界にひとりずつ存在するのだそうです。
並行世界にいる自身の同位体と同調し、覚醒させることで並行世界版の迷宮王と東京大迷宮を作り出し、複数の並行世界から『精神の熱』を引き出していく、というのが迷宮王アデスの基本戦略だそうです。
ちなみにPPは比較的安定している世界における一円に相当するとのことです。
ダンジョン関係の話はここまでにして、プチフランス作りに取りかかりましょう。
おおまかな手順としては、
1、ぬるま湯とイーストと準強力粉を混ぜてよくのばす。
2、しばらく置いて発酵させる(一次発酵)
3、小さく切り分ける
4、もうしばらく置いてさらにふくらませる(二次発酵)
5、オーブンで焼く
といった流れになります。
今回は二百グラムの準強力粉を使って六つのプチフランスを焼いてみることにします。
メェ (折角だから食材鑑定を試そう)
メエェ(食材に意識を向けて鑑定と念じる)
メメェ(ちなみに鑑定は稀少スキルだ)
鑑定と念じてみると、小麦粉とイーストの上に小さなウィンドウがひとつずつ開きました。
フランスパン用準強力粉
強力粉と薄力粉を8:2の比率でブレンドしたもの。
レアリティ :コモン
品質 :優
インスタントドライイースト
水で戻さなくても使えるドライイースト。
レアリティ :コモン
品質 :優
とあります。
メェ (どちらも優品質か)
メエェ(大成功するとレアパンが焼ける)
メメェ(優秀な食事効果がついて高く売れる)
「レアパンですか」
どんな味がして、いくらで売れるのか気になりますが、ともかく作業を進めて行きます。
レンタルのエプロンを着け、水と準強力粉、ドライイースト、塩を計量して準備をします。
発酵用のドライイーストが上手く働くように、水は四十度程度に温める必要があります。普通はコンロや電子レンジなどを使うようですが、レジェンダリーベーカーの熱量制御スキルを使うと、ちょっと念じるだけで四十度ぴったりまで加熱することができました。
総合調理スキルの作用で、重さや温度が器具なしでわかってしまいます。
ボールで塩水をつくり、そこに準強力粉とドライイーストを二回に分けて加え、混ぜ合わせていきます。
全ての粉が馴染んでまとまったら、ラップをかけて二十分ほど寝かせます。
メー (発酵・熟成用アイテムボックスを使うといい。発酵時間を早送りできる)
というアドバイスをもらったので、発酵・熟成用アイテムボックスと念じてみます。
生地の入ったボールを囲い込む恰好で、光の線でできたカゴ状の箱と操作用のウィンドウが現れました。
ウィンドウの表示によるとオート発酵、マニュアル発酵、瞬間発酵、早送りといった機能があり、収容したアイテムの時間の流れをコントロールできるようです。
さすがに信じられなかったので腕時計を外してボールの横に置き、常温、二倍速でスタートボタンを押してみます。
デジタル時計の表示が倍速で動き出します。
三倍、四倍と数字を上げるとさらに加速、ボールの中のパン生地が見る間に変形し、膨張していきます。
そのまま四倍速で様子を眺めていると、ウィンドウ内のタイマーがゼロになって止まり、腕時計の動きも通常の速度に戻りました。
「だまされている気分です」
アイテムボックスの利便性は、ここに来る前から聞いています。似た効果を持つマジックポーチという迷宮産アイテムを見たこともあるのですが、時間の加速までできるとは思いませんでした。
メェ (タヌキを見るような目で見ないでもらいたい)
メエェ(ここまでの機能を持つアイテムボックスは我々も初めて見る)
メメェ(さすがはSSSランクと言ったところだな)
時間加速ができるようなアイテムボックスは東京大迷宮でもさすがに珍しいようです。
作業を続けます。
寝かせた生地をゴムのヘラで伸ばし、折りたたむようにして練り、グルテンを作って行きます。
グルテンというのは小麦粉の中に含まれるタンパク質がつながりあったもので、パンに弾力性を与えたり、パンの発酵時に出る炭酸ガスを受け止めることで膨らみを良くしたりする機能を持っています。
わかったようなことを言っていますが、ベーカークラスの取得によって降って湧いたように頭に入った知識です。
二十回ほど生地を伸ばして、たたんでを繰り返し、そこからまたラップをかけて二十分休ませるのですが、ここは発酵・熟成用アイテムボックスの加速機能を使い一分で終わらせてしまいました。
さらに二十回伸ばし、たたみの工程を行ったら、一次発酵に入ります。
予熱をしておいた発酵・熟成用アイテムボックスにラップをかけた生地のボールを入れて五十分待つ、のですが、ここも時間加速を使い、異様な勢いでふくれあがっていく生地の様子を観察します。
倍の大きさになればOKです。今回は五分程度でアイテムボックスから取り出しました。ちょっと遅れると過発酵になるので少し慌てました。
時間加速も使いどころがあるようです。
生地のべたつき、貼り付きを防ぐための準強力粉を打ち粉としてまぶし、同じく打ち粉をしたパンこね用の板に乗せます。
生地の形を四角に整えて六分割。
ここでは包丁でなく、プラスチックのカードを使います。
六つに分けた生地をひとつずつ、四角形の角を真ん中に向かって折り曲げる工程を二回行って、お饅頭のような半球型にしてゆきます。
そろそろ作業も後半。
オーブン・石窯召喚のスキルを使ってオーブンを出し、オーブン皿を取り出します。
年季の入ったデザインですが、操作用のウィンドウも一緒に出てきました。
ここで使うのはまだオーブン皿だけですが。
オーブン皿にオーブンシートを敷いて生地を並べ、オーブンではなく発酵用アイテムボックスに投入。三十五度、三十分と設定して最終発酵に入ります。
例によって十倍加速で三分に時短をします。
今度はひと回り大きくなる程度が目安になりますが、物足りないので少し延長し、最終発酵は終了です。
オーブンを二百四十度に設定して予熱。
専用のナイフを使い、生地の一つ一つにクープと呼ばれる切れ目を入れ、霧吹きを使って軽く水を吹きます。
オーブンの上に浮いた制御ウィンドウが予熱完了を告げました。
いよいよ焼成です。
オーブン皿に載せた六つの生地をオーブンに入れ、タイマーを二十分にセット。
このオーブンにも例の時間加速がついていますが、最後の工程ですし、加速はせずに様子を見守ることにします。
ミルク色だった生地がきつね色になってゆき、香ばしい匂いが漂い始め――。
眩い光を放ちました。