占領目標、151.9高地~帝国陸軍第三〇三突撃胸甲騎兵大隊第二中隊、装填手メルカの戦闘記録
なだらかな丘が見える。
いや丘と呼ぶほどの丘ではない。ただ少し周りより盛り上がった土地というべきか。
そのゆるやかな丘の上に見えるのは、まばらな木、崩れかけた家々。踏み荒らされ、掘り返された畑。
そんな残滓だけが、かつてそこにあったであろう人の営みを伝えている。
しかし今そこに、生きる人の気配は感じられない。
小鳥だけが、あいも変わらず元気な歌声を天に高らかに歌い上げている。
見上げれば陰鬱な暗い空。
天頂にあるはずの初夏の輝かしい太陽は、空を覆う厚い雲によってその姿を隠されていた。
閉ざされた空の下、ときおりその空気がぶるりと震える。
風はない。ただ湿気を孕んだ灰色の空の向こうから、遠雷のどよめきがこだまする。
殷々と轟その重い音は、神々の怒りが奏でる終わりのない舞曲のようだ。
空と大気を緊張でもって支配するこの雷鳴の如き轟き。だがそれは雷の発するものではなかった。あれは我々人間がしでかす破壊の音だ。目の前に立つ丘に遮られてしかとは見えないが、あの暗い空の下は戦場。今まさに地獄の釜が開いたような状況が繰り広げられているのだろう。
そして恐ろしいことに、いずれ間違いなくあの地獄はここまでやってくる。
「すごい砲撃音です。つ、次はここでしょうか」
装填手扉から身を乗り出して前方を注視していた新入り装填手は、不安げにそう口走った。いってから、自分が思い浮かべた光景を想像し、生唾を呑み込む。初夏だというのに軽く身震いが出た。その身震いをごまかすように、短く切りそろえた栗色の毛も初々しい頭に真新しい戦闘帽を深く被りなおす。だが、帽子をなおしながらその自分の手もまた細かく震えてしまっていることに気付いた。
「あたしらはこうやって丘の後ろの林に隠れてんだ、見えやしないさ、安心しな。敵飛行船も飛んでないし、哨戒線を突破する敵部隊も報告ない。落ち着け、新入り。なあに、遠からずいやでもあの鉄の嵐に飛び込むことになるんだ、あわてるこたあないよ」
隣で煙草をくゆらせていた赤毛の照準手が答える。
「しかし同盟軍、聞けばずいぶん景気の良い砲声だ。あの着弾音、連隊規模の砲列が撃ちまくっているんじゃないか。これじゃ引き上げてくる第八軍の連中も相当ケツを喰われてるかもしれないね」
「うう……くやしいですね。……早く同盟の奴らを蹴散らしてやりたいです」
「いうじゃないか、新入り。でもな、同盟軍はなかなか強いぞ。緒戦のカルクノ長城線であれだけ大損害を出させてやったのに、いまだにこれほどの戦力も弾薬も残っているんだ。思ったより戦が上手んじゃないか。帝国御自慢の精鋭第八軍を泥沼の都市戦に誘い込み包囲してボロボロにしやがった。そのついでにあたしら第十軍のハナまで押さえちまったんだ。こんなに兵力があるんならもったいぶらずに、緒戦の長城線で正々堂々決戦挑んでくれりゃあよかったのにな。あの時ならこちらも弾の備蓄を気にせずに戦えたものを。あたしたちもうまいこと乗せられたもんだ」
そういってからゆっくりと煙草を吸い込み、長い溜息のように吐き出した。
もちろん装甲騎兵の中、およびその近辺は禁煙である。
「まあ戦争だからね。何事も相手がある以上、思い通りにはならないんだよね」
騎長席から立ちあがってしばらく双眼鏡を向けていた小隊長がのんびりした声で答える。襟につく記章は少尉を示していた。つまりこの少尉がこの小隊の隊長ということになる。
やりとりをしている小隊長も照準手もまだ年若く、二十代前半に見えた。それでも照準手の袖には善行章が一本見える。この年齢でももう三年以上軍の飯を食っているのだ。
同じように他の騎体の搭乗員も若かった。
老人が起こした戦争も戦場で死ぬのは若者。中世から続くという同盟との戦争、戦記に謡われるかつての戦場もそうだったのだろう。なかでも、この新入り装填手は補充されたばかりの文字通りのひよっこだ。
「始まるみたいだね」
空を見上げた小隊長がぽつり、とつぶやく。
「おっ、今度は帝国砲兵の噴進弾か。じゃあいよいよだな」
いわれて灰色の空を振り返れば、細い煙を長々と引きながらケシ粒ほどの小さな輝きたちが飛んでくるのが見える。張り詰めた布を裂くような音がいくつもいくつも重なって耳に届き始めた。
後方に布陣している砲兵隊による砲撃のようだ。
次々伸びてゆく煙はまるで幽鬼が伸ばす細くて長い骨の指。やがてそれは空を覆わんばかりの数になって、この世の終わりに起きるという悪魔の大行進もかくやという大音響をやかましく奏でた。
しかし、頭上に達する前にその輝きと轟音は失せる。噴進弾の推進薬燃焼が終わったのだ。
あとは滑空する弾体の、悪鬼の牙の間から噴き出る息の如き断続的な擦過音だけが空の向こうへ進んでいった。
「なんだこれっぽっちかよ、シケてんなぁ」
「小隊長! 中隊長騎から通信です、第二中隊全騎前進せよ、目標151.9高地」
「よし」
狭苦しい騎体の奥で通信兵が切迫した声をあげた。高地に撃ちこまれた噴進弾の着弾を告げる衝撃音が遅れて轟く。
「来たな。さて、いくか。おい新入り、戦闘機動だ、舌を噛むなよ」
照準手の手のひらが新入りの戦闘帽をぽんぽんと叩く。
「あっ、はっ、はい!」
「はは、頼むよ新入り、なんたってあたしらの命はあんたの装填速度にかかっているんだからね」
そういってから気ぜわしく二回ほど煙草を吸い込むと、まだ半分も吸っていない吸い殻を外に投げ捨てた。続いて狭い騎体にするり、と馴れた様子で乗り込んでいく。さすがベテランは早い。あわてて後に続くように新入り装填手も自分の体を押し込み、重い装甲扉に手を掛ける。すでに背後の機関部では最大従魔単子毎分流量二万四千を誇る従魔駆動式二重星形演陣がその唸り声を高めつつあった。
最後に騎体へ潜り込んだ小隊長が、素早く命令を下す。いつのまにか、先ほどののんびりした声とは別人のようなきびきびとした声に変わっている。騎長席に取り付けられた人工眼球の接眼器に顔を押し付けて周囲をくまなく確認していた。
「小隊通信開け。……各騎、進撃命令。目標、151.9高地。打ち合わせ通り、我が小隊は目の前の148.2高地を左に迂回して先の151.9高地を目指す。すぐに接敵になるから、各員気張って臨むようお願いする。では第三小隊全騎、いくぞ!……『イルヴァラス』前進!」
のそり、と第三小隊隊長騎イルヴァラスは動き出した。その姿は六本の脚を持つ這いつくばった軍馬、もしくは巨大な鋼鉄の蟹といったところか。騎体前方と装甲戦闘室上部に取り付けられた防弾硝子の中で人工眼球がぎょろぎょろ動く。大きく姿勢を変えるたびに、突き出された長大な十三年式突撃騎兵砲が前方を威嚇するように振り回される。第三小隊に四騎配備されているこの騎体は、その搭載砲と制式年を同じくする「十三年式機械化突撃装甲騎兵」が正式名称だった。だが、騎乗員たちはそのような長い呼称など使用せず、自分たちの愛馬と考えたのか、各騎ごとの愛称で呼ぶことを好んだ。この小隊一号騎も自分たちでつけた愛称「イルヴァラス」つまり帝国語でいうところの逆巻く風、と呼んでいる。
この騎体に新入り装填手が初めて騎乗したのはわずか三日前のことだった。武運つたなく戦死したらしい前任装填手の補充兵として配置されたのだ。装甲騎兵隊の中でも音に聞こえた突撃胸甲騎兵に配置と聞いて、どれほどの鬼軍曹が待ち構えているのかと怒れる龍の寝床に踏み込む心持ちで戦々恐々としていた新入り装填手だったが、照準手をやっているベテランの一等兵曹をはじめ皆思いのほか気さくに迎えてくれて、すぐに打ち解けることができた。配属される前は、実戦部隊ともなれば訓練所でくらったシゴキを超える相当な待遇が当然にして待っているだろうと腹をくくっていた。それがやや拍子抜けするぐらいの、むしろ淡々とした部隊の空気に少しばかりとまどったぐらいだった。
もっともそれは過酷な戦場がそれを否応なく要求するからかもしれない。騎乗員同士が一体になれなければそこには遠からず互いの戦死という結果が待っているだけなのだ。
気さくな照準手というのが赤毛の印象的な、メルトーラ・バルバ一等兵曹だった。やや浅黒い顔にいつも咥えている煙草が特徴だ。正真正銘のひよっこである新入り装填手にあれこれ親切に教えてくれる、面倒見の良い先輩に装填手もすぐになついた。それに比べれば小隊長のマルネアーネ・ホルト少尉には士官ということもあって、いまだ若干の遠慮が残っているようだ。それでも、たったの三日間でと考えればこの関係は上等なほうだろう。なにしろ新兵同然の一等兵では、少尉殿なぞ畏れ多くて顔も見れないのが歩兵の世界であれば普通なのだ。この二人に加えて、操縦士のレン伍長、無線手兼機銃手であるグシェンタ二等兵曹の四人とこの装填手とで合計五人がイルヴァラスの騎乗員だった。レンとグシェンタは新兵ごときにということか、ややそっけない態度をとっている。過度に近づくこともなく、かといって悪意を持っているわけでもなく、単に興味がないように見えた。彼女たちの真意は読めないが、あるいは戦死した前任の装填手に遠慮していたのかもしれない。
ここ第三〇三機械化突撃胸甲騎兵大隊第二中隊は高級士官を除き、ほぼ女性ばかりで構成された部隊であった。機械化の進む帝国において、今や女性でも就けない職種はないとばかりに宣伝も兼ねて――いや、帝国軍は高まる愛国心に推されてというが――編成されたものだ。
緒戦では編成を綺麗に定数で保っていたが、戦いが続けば当然欠員は出てくる。だが補充員も女性を、それもベテランをというとそれはやはり難しくなってくる。理想と現実が乖離した隙間に新入り装填兵は滑り込んだ。当初彼女が熱望とした職種こそ装甲騎兵だったが、実際に配属予定になったのは砲兵。それが急遽こうやって装甲騎兵に転属になったのには、戦場の苛烈さが関係しているのだった。
隠れていた森のはずれを抜け、丘のふもとの草原に六本足を突きたてながらイルヴァラスは前進していく。
小隊は一号騎である小隊長騎、つまりイルヴァラスを先頭にした単縦陣で丘の裾を進んでいった。
「レン、このまま速歩で進め。そろそろ稜線の向こうに目標が見えてくるぞ。小隊各騎、突撃隊形に開け」
まだ戦闘が始まったという実感が湧かない。新入り装填手の音響耳覆を通して聞こえるはずの小隊長の言葉が右耳から入って左耳から出ていく。
訓練で体験させられたから戦闘機動時の騎乗は初めてではなかったが、実戦となるとやはり勝手が違う。なにしろこの丘の向こうには占領目標である151.9高地の丘がある。そしてそこには確実に「敵」がいるのだ。演習の時の仮想敵などではない。そう思うと、いやがおうにも呼吸が早まる。口中がカラカラに乾く。嵐の中の小舟のように揺さぶられる中、それでも必死で手すりにしがみついた。顎は、強く噛みしめていないと歯がガチガチ音を立てて鳴ってしまう。騎体の振動からくるものではなかった。他の騎乗員と違って、補充員として着任したばかりの装填手にとって今日の戦闘こそが初陣なのだ。
その時、新品の戦闘帽をぽんぽんと叩く者があった。見かねたのか、赤毛の照準手、バルバ一等兵曹がこちら振り返って何か叫んでいる。自分の胸に手を当てて、大きく深呼吸して見せる。
「深呼吸だ新入り。大きく吸ってゆっくり吐く。ほら、吸って。そして吐く。やってみな」
混乱していた頭にだんだん意識が戻ってきて、耳に入ってくる言葉が意味を成すようになってきた。いわれるまま深呼吸。それを三度も行うと少し落ち着いてきたような気になる。いつの間にか恐慌一歩前のところにいたのかもしれない。まだ何も始まっていないに等しいのに。
「見えた。二時の方向に二騎。すべて旧式のⅤ号だな。一、二号騎は右をやれ、三、四号騎は左。メルティ、右のヤツからお見舞いしてやれ、三発だ」
小隊長の声が音響耳覆に響く。
メルティとは照準手、メルトーラ・バルバ一等兵曹の愛称だ。
バルバ一等兵曹は照準手用の人工眼球接眼器を覗き込みながら金管楽器のように複雑な照準操作把を慣れた手つきで動かし、たちまち照準を合わせた。
「了解。新入り! 弾種徹甲榴弾、続けて三発、わかったな」
「はいっ!」
弾頭に識別用の赤い帯が巻かれているのが徹甲榴弾、黄色が榴弾。しつこいまでに繰り返された訓練所での教練が思い出された。腹に力を込めて砲弾架から十三年式突撃騎兵砲の重い砲弾を取り上げ、装填。尾栓が閉まるのを確認して声を上げる。
「装填!」
次の瞬間、強い轟音が襲った。
照準手のバルバ一等兵曹が即座に発砲したのだ。駐退機の作用に守られてなお、信じられないほど勢いよく砲身が後退する。熱い薬莢が受け籠に転がる。噴出した熱気で狭い騎内の温度がぐんと上がった。立ち込める硝煙の臭いの中で、弱々しい音を立てながら換気扇が申し訳程度の換気を行っている。
「次弾急げ」
照準器から目も離さずに一等兵曹が声を発した。
夢中で装填する。そのあいだも騎体は大きく、ときに小刻みに揺れている。装填にはその動きに合わせた呼吸のようなタイミングを必要とした。
「装填!」
轟音。
「命中。もう一発」
命中したらしかったが、今はもう目の前の重い砲弾を装填すること以外気をまわす余裕などなかった。息があがる。噴き出した汗が視界を邪魔する。それでもなんとか三発目の装填を終えた。
「装填!」
再び轟音と衝撃。
「うまいぞメルティ! レン、駆歩に増速。……小隊、駆歩に移れ! いいぞ、敵のやつら動けずにいる。このまま駆け抜けて高地をいただこう」
小隊長の声と共に振動とうねりのような揺れがさらに激しくなった。駆歩。丘へ突撃だ。
考えられないほどの勢いで動き回っているであろう装甲騎の六本脚の内部で、張り詰めた合成腱たちが鍵盤楽器のような甲高い金属的な音を立て始める。隔壁の向こうでは星形演陣が悪鬼の叫び声のような轟音をひねり出していた。隙間か何かでその機関室から戦闘室に漏れ出しているのか、加熱した罰性コイルの放つ鉄臭い匂いが鼻をつく。汗と鼻水と煙とで、すでに顔はひどいことになっている。それでも無心になって受け籠の空薬莢を砲弾架に戻した。あふれて床に転がっては危険だし、騎外へ捨てる暇もない。
三発分の空薬莢を収めたところで騎体の姿勢が変わった。高地へ向かう傾斜面を登攀中なのだろう。若干の傾斜を感じて、手すりを握る指に更に力を込める。そして力を込めたのと同時に、頭から二つに裂かれるような衝撃と轟音に襲われた。
があん。
世界が揺れた。
全身に衝撃。
視界が廻って暗転する。
「左、発砲炎! 対装甲騎兵砲だ。隠れていたな。11時の方向、木と木の間。低いぞ。見えるか、メルティ?」
「見えた。新入り、榴弾!」
「三発いけ。おいグシェンタ、あの臆病な砲兵どもに機銃をぶっぱなせ。レン、右から回り込め」
「了解」
「あいよ」
「おい、聞こえたか新入り、榴弾三発、連射」
音響耳覆の向こうの、どこか遠いところで小隊長やバルバ兵曹の声がする。
返事どころではなかった。
気が付けば、目に入るのは油汚れの染み込んだ床面。いつの間にか倒れ込んでいた。
耳がガンガンする。冷や汗が流れる。手足が震えて立ち上がれない。
動けずに転がったまま、せめて精一杯のつもりで返事を返す。
「……は、はい」
だが、出せたのは自分でも情けないほどの小さなかすれ声。
力ない返事に驚いたのか、バルバ一等兵曹は照準器から目を離してこちらを見やった。
速歩の激しい揺れの中、床に這いつくばっている装填手を見て一等兵曹が一喝する。
「新入り! 何やってる! おい、やられたのか?」
「だ、大丈夫です。転んだだけです」
もはや半分泣き声になった声色で返事しながら、それでも脇の砲弾架につかまってなんとか立ち上がった。
そうだ。あれは、敵砲弾が命中したのだ。
命中した瞬間に手すりを握っていたからだろうか、まだ手が痺れる。幸い装甲が弾いてくれたから良かったものの、運が悪ければそこで死んでいたかもしれない。
漆黒の視線を自分に向けながらすぐ横を飛びぬけていった死神の横顔が見えた気がした。
死。
だがそれを実感するとむしろ意識が鮮明になっていった。
こんなところで死ねるか。
汗が目に入る。頬には油が付着する。涙が出る。手が震える。しかし。
……こんなところで、死ねるか!
自分の怒りに意外な驚きを感じながら、痺れる手で懸命に砲弾を引き出す。
「立てるか? しっかりしろ」
「メルティ! 照準器から目を離すな! 急げ、次弾が来るぞ」
小隊長の叱咤が飛ぶ。
グシェンタが断続的に発射する前方機銃の発射音がそれに続いた。
「あっ……すまない。新入り、急げ! 榴弾三発、復唱!」
「は、はい、榴弾三発!……装填!」
力の入らない腹にそれでも力を込めて精一杯叫ぶ。
照準器に目を戻したバルバ一等兵曹は、器用に照準操作把を動かして再び狙いをつけている。装填手は疲れた腕にもはや岩塊の如く感じられる重たい次弾を必死に抱えて発射を待った。
鋭い発射音と共に砲尾が下がる。今だ。コツが掴めたというのだろうか、駐退機の動きに合わせて自分の腕も機械のように動く。
ややしわがれた声で、しかし腹の底からの大声で叫んだ。
「装填!」
騎体の戦闘機動が終わったのはそれからさらに榴弾12発、徹甲榴弾7発を装填してからだった。
残弾は榴弾3発、徹甲榴弾10発、発煙弾4発。
腕は鉛のようになり、息もたえだえ、両の脚は震える。それでもまだ頭のほうは鮮明に働いていた。発射弾数、各種砲弾残弾数。ちゃんと把握している。ついでに……敵弾を喰らった衝撃で転んだ時に、失禁して軍袴を濡らしていたことも。あえて目で確認せずとも、把握できた。
「グシェンタ、中隊長騎に繋げ。いいか。報告。第三小隊、151.9高地到達。右方より進出の第二小隊と合流せり。我が小隊、四号騎脚部損傷以外は損害なし。当該騎は移動不能、回収を必要とす。敵軍装甲騎兵および対装甲騎兵砲撃破、撤退せしむるも、いまだ周囲に敵歩兵若干名が潜伏している模様。現在掃討中」
小隊長が連絡している間、バルバ一等兵曹が振り返って装填手を上から下まで眺めまわす。光量の乏しい騎体内でどれほど判別できるのかはわからないが、まんべんなく見回してから煤だらけの顔で二ッと笑った。
「よくやった。でも、おい本当にケガしてないか。うん出血はないようだな。全身よく確かめてみろ」
「はい、大丈夫です。……その、すみませんでした」
「ん? 何が?」
「床を汚してしまいました」
気まずそうに床面の汚れに視線を落とす。
「その、敵弾が当たった時に驚いてしまって」
「気にするなよ。そうだな、側面の手すりは戦闘時掴まらないほうがいい。掴まりにくいが、掴むならそこの簡易席のほうが安全だ。……ん?」
硝煙と機械油との他にも異臭を感じたのだろうか、一等兵曹は顔を少しばかりしかめて言葉を区切った。視線が床へと下がる。
「ああ、そうか。いや、気にするな。誰でも最初はやっちまうもんさ。後で騎付の整備兵から真水をもらってこい」
「すみません」
「お前はよくやった、メルカ・エルダート一等兵。これでようやく『新入り』から、晴れてメルカ・エルダート一等兵殿に昇格だ。これからもがんばれよ」
そう慰められても今さらとはいえどうにも恥ずかしくて、顔から火が出そうになる。
誰でも最初は。本当にそうなのだろうか。
湿った下着と擦れてひりひりする股間にまだ幼かった頃の経験を思い出して、また情けない気持ちになった。
ほどなく中隊の後から進軍してきていた機械化装甲兵籠騎もぞろぞろ到着した。だいたいの敵も制圧したのだろう。それぞれ兵籠から歩兵を降ろし始める。歩兵は警戒しながら散開し、この地点の安全を確認していく。それも終わるとしばしの静けさが訪れ、ようやく頭上の装甲扉を開くことができた。
「たぶんこの丘の周辺に布陣して、丘向こうの街道を伝って脱出してくる第八軍の到着を待つことになる。敵の反撃もあるだろうから、夜になってもわかるように周囲の地形をよく見ておけ」
バルバ一等兵曹はそういうと咥えた煙草にさっそく火をつけ、素早い身のこなしで装甲扉を抜け出す。その後を追うように外へ滑り出してみた。
ハッチの向こうには、新鮮な空気と掘り返された大地の匂い。いまつけられた煙草の香り。
そして見上げれば、やはり変わらぬ灰色の空。
周囲の静けさをときおり破って、暗い空にはまだ遠雷が轟いていた。
音が、少しばかり近づいた気がする。
あの地獄がここへ届くのは、明日か、いやもしかしたら今夜かもしれない。
身を乗り出して先をうかがうと、少し離れた緑の丘の中腹あたりに擱座した敵の装甲騎兵が放置されていた。
炎上している様子もないが、以前から放棄されていたのだろうか。準備砲撃の噴進弾にやられたか。……それとも自分の装填した砲弾が倒したのか。
どちらでも同じことだ。
――あたしは生きている。少なくとも、今は。
「はあ」
新入り装填手、メルカ・エルダート一等兵は気持ちよく吸い込んでいた空気をそこでいったん止め、こっそりと残りの息を吐いた。
なんとなくだが、吸い込んだ空気の中に少しばかり血の匂いも混ざっていたような気がしたのだ。