1st:EP04:隙間の町
1
わたしがこの町に流れ着いたのは、別に犯罪に手を染めて逃げてきたからでも、人生に疲れ切ったからでもない。専門学校に通っているときからアルバイトをしていたアパレル店が倒産したからにすぎない。
ちなみに流れ着いたというのも正確ではない。不景気が加速している中でも実家の田舎に戻るのを、ただ単に嫌ったというだけの話だ。でも独り暮らしをするにはお金がいる。キャバ嬢をやっている学生時代の友だちに一緒に働かないかと誘われたこともあったが、取り立てて社交的でもないし、スケベ心丸出しのオヤジの相手をしなければならないなんて、そもそも無理な話だ。しかも大金を持つようになった友だちは浪費癖が祟って今では莫大な借金を背負い行方不明になっているらしい。お金のために無理をしてでも働こうかなと思わないでもなかったが、そんな話を聞くと意志が強くないわたしには、やはり水商売は向いてないと実感せざるをえなかった。
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さて、そうこうするうちに実家からの仕送りがなくなったわたしはついに月9万7千円のワンルームマンションを引き払って、大阪市内南東部に位置するこの町に落ち着くことになった。
新たな住まいは文化住宅。
俗にいうアパートだ。間取りはお風呂とトイレ付きの2DKで家賃4万3千円。その上、関西特有の敷金・礼金システムがこの部屋はなし。とはいうものの無職になったわたしにはこの値段でも手痛い出費だが、2階建ての古い鉄筋家屋がコの字型に配置され、中庭に当たる所は優に10台以上の車が停められるスペースになっているので、東京に下宿をしている知り合いからすると破格値のようだ。あくせく探し回ることもなく、ここに落ち着けたのはラッキーだったのかもしれない。
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ただ、地上からの高さが日本一を誇る巨大商業ビルがあるターミナル駅まで地下鉄と私鉄、それにJR、どれを使っても3駅しか離れておらず、住まいからそれぞれの駅まで徒歩でも15分という好立地なのだが、町そのものは世帯の空洞化が激しくて、周囲には空き家が多く点在し、買い物といえばコンビニ程度の小さなスーパーが徒歩500メートル圏内に2軒。昔からの商店街はアーケードが残っているものの、すべての店はシャッターが閉じられており、誰も通ることがない薄暗いトンネルのような有様だ。そんな状況だから、若い子育て世代がほとんど寄り付かず、うち捨てられた老人の町と化している。家賃の異常な安さはそのためだ。
「椎ちゃん」
「あっ、お婆ちゃん」
「あんたに言われた通りにな。あの部屋も壁を抜いて一つにしたで。6戸が3戸になってもうたけど、元の広さの倍の間取りや」
「へぇ、スゴいやん。もう完成したんや」
「凄いことなんかあるかいな、壁を1枚抜いただけやがな。あんなもん大工に頼んだら2日で終わりや。どや、今から一緒に出来たての部屋の中を見に行くか」
「うん。行く行く」
今ではすっかり板についた大阪弁で、わたしはお婆ちゃんに笑顔を向けた。もちろん彼女は本当の祖母ではない。わたしが住んでいる文化住宅の大家さんだ。
2
正直なところ、不動産屋にお婆ちゃんを紹介されたとき、初めは取っつきにくかった。品定めをするようにじろりと見る目が抜け目なく、それが少し怖かったし、愛想が良いともけっして言えなかったので、もともと人見知りの気があるわたしは伏し目がちで言葉も満足に出なかった。
でも、朝の挨拶や出会って短い言葉を交わすうちに少しずつ互いがわかるようになってきた。
あれは去年の夏の終わり頃だったと思う。妻を亡くした年配の男性がペットの犬を連れて越してきたとき、お婆ちゃんは動物の飼育は禁止だとも何とも言わなかった。それどころか彼が怪我でしばらく入院した時には残された犬の面倒まで見ていた。わたしが犬に散歩をさせているお婆ちゃんに「犬が好きなんですね」と、たまたまお愛想を言ったところ、「好きなことなんかあるかいな、こんな毛糸玉みたいなもん」とうそぶいて、そそくさと行ってしまった。見た目は少し強面だけど、そんな照れ屋な面が嫌いにはなれなかった。
また半年前、新しいアルバイト先に通うために中古の原付を買ったわたしに「なんでバタバタなんか買うたんや。こけたら、いっぺんに死んでまうやないの」と文句を言いながらも、ひどく心配してくれたこともあった。
お婆ちゃんの座右の銘は「死んだら終わり。せやけど、生きてたらお金は要るから、儲けに頭を使わなあかん。世の中で本当に怖いんは貧乏だけや」に尽きるらしい。もちろん使いきれないほどのお金はかえって邪魔なだけで無駄な争いを生むので、ちょっと美味しい物をたまに食べて、毎日気持ちよく寝ては、のんびり出来るだけあればいいという考え方だ。
亡くなった田舎の祖母とは性格も体型も、人生哲学すらも違うが、今ではお婆ちゃんに会わない日は、わたしはもの寂しく感じるまでなっていた。
3
「うわぁ、本当に広なったなぁ。玄関ドアが2つ並んでるんも変わっとってええわ」
「せやろ。靴かて土間に倍は置けるで。それにな。残った壁かて塗り直したんや。これで若い何とかいう者らがいっぱい来るやろ」
「意識高い系の自称アーティストやな。絵とか音楽とか……そやなぁ、小説とか書いてる手合いも入居したいて来るかもしれん。なんせ芸術系とかいう人らは他とは違うお洒落なモンが大好っきゃから」
「さよか。お洒落なもんが大好きなんかいな」と、お婆ちゃんがわたしの言葉を繰り返して目を細めた。「まぁ、家賃は安うしたあるんやから、敷金と礼金だけは最初にぎょうさん貰うで」
「それで、早よ出てってくれたら、また人生を舐め切っとる次の意識高い系に敷金と礼金を貰えるから、ぼろ儲けやな」
「人聞きの悪いこと言いなさんな。ぼろ儲けにはならへん。そこそこの儲けや」
「せやけど」わたしは声のトーンを落とした。「部屋で自殺でもされたら、どないする。意識高い系は自意識だけは通天閣ほど高いけど、心がすぐに折れるみたいやで。爪楊枝の方が丈夫なくらいやて言うしなぁ」
「そら、困るな。そないなことされたら事故物件になってまう。また格安で誰ぞに、しばらく入ってもらわなあかんようになる……」
お婆ちゃんの言葉を聞いて、わたしは声をあげて笑った。事故物件も第三者が短期間でも入居すれば、次の住人への告知義務が発生しないからだ。
「わたしみたいに何も知らんと居着いてしもたら」
「そら、簡単や。別の部屋に入り直してもらうわ」
「うわっ。悪やなぁ、お婆ちゃん」
「何を言うてんねんな。世の中は世知辛いもんなんや。それに第一、あんたからは敷金も礼金も取らへんかったやろ」
「それは、そうやったけど、わたしには事故物件やて告知はなかったで」
「あんたは大丈夫やて思たんや。それに、もう昔の話やないの。さぁ、仕事や仕事。お金を持ってはる神様をお迎えする準備をしとかんとなぁ」
「そうそう、意識高い系の神様な」
わたしがボケると、お婆ちゃんは割烹着のポケットからスマホを取り出すと、慣れない手つきで部屋へ向けた。
「宣伝用のホームページの写真やろ。わたしが撮ったろか」
「大丈夫や、私が撮る」
「何でも自分でしたいのはわかるけど、お婆ちゃんが買うたんは最新機種やろ。難しいから、わたしが撮ったげるって」
「ちゃんと出来る」
年寄りは総じて頑固だ。
あれやこれやと苦労していたお婆ちゃんのスマホからシャッター音がやっと鳴った。「よっしゃ。ええっと、次はどれやったかいな」と撮った写真を見るために、またもやスマホと格闘していたお婆ちゃんが声をあげた。
「あっ、なんやこれ」
「どないしたん。またスマホがブレたんやろ」釣られたわたしはお婆ちゃんの手の中を覗き込んだ。「うわっ、これは酷いなぁ」
お婆ちゃんが溜息をついた。
「今日は、もうええわ」
「せやなぁ……」
「椎ちゃん、お昼ご飯食べよか」落ち込んだ気持ちを振り払うようにお婆ちゃんが声をあげた。「今日は私が美味しいもん奢ったるわ」
「えっ、本当に」
「向かいの喫茶店で定食にしょうか」
「やった。ごちそうさん」わたしは歓声を上げた。
「せやけど、ミックスグリルの定食だけはあかんで。あれはあかん」
「なんでなん」
「ミックスは950円もしょうるやないの。高い」
「ケチやなぁ」
*
お婆ちゃんが無料でご飯を奢ってくれるわけはない。
わたしは喫茶店への道すがら、お婆ちゃんから託されたスマホで、さっきの写真を呼び出した。部屋の中には頭がぱっくり割れて血まみれになった女と、異様に首が長く伸びた首吊り男が、こちらを見つめていた。わたしは画像処理アプリを呼び出すと、新しい神様をお迎えするために、古い神様の画像を消しはじめた。
年寄りと若い女が世知辛い世の中を渡っていくのは本当に大変や。
了