0ー1 哉太と亜希
「ふぁぁ・・・」
喉の奥まで見えそうな大口を開けながら一人の男性が歩いている。滝島哉太、今年大学の一年生になったばかりだ。
哉太はいかにも寝起きです!という雰囲気を醸し出しながら道を歩いている。
最もまだ半年程度しか大学には通っていないにも関わらず、すでに自己休講の日が多くなってきている。大学に通うべく実家を離れ一人暮らしを始めた哉太は、アルバイトを始めた。仕送りも送ってもらって入るが、学費と生活費で大部分が飛んでいってしまう。あまり遊びに行ったり欲しいものを求めるにはとても足りなかった。
今日はバイトのシフトは入っていないが、哉太は眠そうにしながらアパートを出て歩いていた。レンタルしていたDVDの返却が今日になっていたのをすっかりと忘れていて、昨晩ほとんど寝ないで見る羽目になってしまい寝不足なのだ。
「やっぱ一気見はこたえるな・・・たいして面白いのもなかったし」
ぼやきながらレンタルショップへ向かうべく歩いていると、1mほど前に人が立っているのに気づいた。寝ぼけ眼で下ばかり見て歩いていたから、気づかなかったのだ。
視点を上げることもなく、ごく自然な動作で右に避けると立っている人物も同時に哉太と同じ方向に動いた。
(なんだよ・・・気まずいパターンじゃないか)
心の中でため息をつきながらようやく視線をあげてみると、そこには見知った顔があった。
「どこに行くの哉太。大学は?」
両手を腰に当てて、咎めるような口調で哉太に話しかけてきたのは三嶋亜希。実家が隣同士だったという幼なじみの腐れ縁で小中高と、さらには大学まで同じ進路を辿っている。
それだけ聞くと友人などは何かを期待するような顔をするが、実際は何もありゃしない。
むしろ、同い年のくせにまるで姉のように振る舞う。どちらかと言えば昔からだらしない哉太に対して事あるごとに小言を言う苦手な存在なのだ。
実は俺が今借りているアパートはお隣さんの伝手を頼りに安く借りている。大家さんは亜希の親戚のおじさんらしい。一人暮らしをしたいと言い出した俺に、日頃の生活態度を指摘して反対していた両親が、そこに住む事を条件に許可してくれた。それでも間違いなく一人暮らしを満喫していたら、亜希も同じアパートに引っ越してきてしまった。
俺がバイトを始めたきっかけも自分でどこか違うアパートを探そうと思ったからでもある。
「亜希には関係ないだろ」
そう言って脇を通り過ぎようとすると、腕を掴まれて立ち止まらせられた。
「関係なくない!昔からそうやって目を離すとすぐにだらけるんだから。雅美おばさんからも見張っておくよう頼まれているんですからね!」
雅美おばさんというのは俺の母の名だ。昔から俺よりも亜希の方を信用していた。それくらいの事は言いそうだ。同じアパートに入る事を聞いて俺の監視を頼んだのだろう。
いいかげんうんざりだ。
「大学も休むことが多いみたいだし、部屋もあっという間に散らかしっぱなし!食事もろくなもの食べていないみたいじゃない!」
「って勝手に部屋見たのかよ!」
思わず聞き返すと、亜希はポケットから鍵が2個ついたキーホルダーを出した。
「哉太の部屋のスペアキー、雅美おばさんから預かってます。時々でいいから様子を見るようにって哉太の両親公認ですからね」
「ふふん!」と勝ち誇るようにキーホルダーを見せつけるように俺の前でブラブラして見せる。
その言葉に俺の一人暮らしライフのイメージが音を立てて崩れた。亜希はうるさく小言を言うが、本質的にはとても女性らしく容姿も整っているが、親しみやすい性格をしているので男女問わず人気があったりする。俺も苦手ではあるもののそこまで嫌っているわけではない。
だが、この時ばかりは流石に文句を言ってしまった。
「いい加減にしてくれよ!いつまでもガキみたいに・・・うんざりなんだよ、ほっとけよ!」
「あ、・・・」
苛立ちに任せてそう言い放つと、意外だったのか亜希は一瞬ぽかんとしたがすぐにとても寂しそうな顔になった。
その顔を見て、俺は後悔しだした。そもそもお目付役をつけられるくらい俺の信用がないってことだし、自覚もしている。俺の母さんに頼まれたことだろうから亜希に怒鳴っても筋違いという気はする。
そんな考えが浮かんだが、苛立ちに任せて亜希の手と視線を振り切るように踵を返した。
「・・・は?」
ふり返った時、俺の周りがこれまで経験したことのない空気に包まれた。空気に質感があると言うか、特に何も見当たらない目の前の空間が膨らんでいくような感覚がする。
そして、その空間が数回膨らんだり萎んだりした時、膨らんだ空気の質感が急激に膨張するような感覚に変わ理、何もなかった空間にヒビが入りだすのが見えた。
全く事態が飲み込めず立ち尽くしていると急激に膨張した何かにヒビが広がり、はじけた。
まるで目の前でガラスが割れたような感覚に、俺は思わず顔をかばった。と、同時に後ろから庇うように抱きしめられる。
哉太!と亜希の悲鳴に近い声を聞いたような気もする。しかしそれよりも全身に走った激痛に俺の意識は奪われていた。割れたガラスで切れた、と言うよりもまるで身体中の肉を掴んで引きちぎっているかのような痛みに意識が明滅する。
次の瞬間、俺は地面に倒れ伏していた。覆いかぶさるようにして亜希も倒れている。
・・・なんで俺なんか庇ってんだよ。
たちまち二人の周りの地面が血で染まっていく。一体何が起きたのだろうか、哉太は顔を上げ異変が起きたところを見て何も考えられなくなった。
頭をあげた哉太の視線にあったのは、人と同じようなシルエットこそしているが着ている服はひどく汚れ所々が破れている。
さらに右腕が途中から無い。それは切り落とされたと言うよりも、腐って千切れ落ちたと言う方がしっくりくる様相だそして唸るような声を上げている顔にはなんの表情も浮かんではおらず、色のない目は片方が眼窩からこぼれ落ちている。
まるで・・ゾンビじゃ無いか。
薄れいく意識の中で哉太が最後に見たのは、倒れている哉太たちに気づいたゾンビのようなものが獲物を見つけた獣のような俊敏さで近づいてくるところだった。