プロローグ
あたりが薄暗くなり夕闇が訪れる頃、雪が降ってきた。
タリアは舞い降りてくる雪を見て羊を大急ぎで小屋に戻してから家に帰る。羊小屋からタリアの家は少し距離がありゆっくり歩いていると雪だるまになってしまいそうなので小走りに帰ることにした。途中で行く手を阻むように立っていたキーゼルおばさんに
「走ると転ぶよ」
と注意されたが、
「走らないと寒いの」と言い訳をした。話し始めると止まらないおばさんをかわして、家に入ると母は夕餉の準備をしている。心地よい暖かさと夕食のかおりが彼女を包んだ。秋の収穫を使い過ぎないようにやりくりするのは大変なようだ。
「お母さん雪が降ってきたわ。」
「あら、積もりそうなぐらいなの?」
と尋ねられたので首を横に振った。そろそろ春が来るころあいだったし、雪が積もるほど寒くも無い。
「そう、じゃあいいわ。羊は戻しておいてくれたわね。アコを見ておいてちょうだい。すぐご飯にするから。」
そう言うと母は忙しそうにキッチンへと戻った。
いま家にはタリアと母親、まだ二歳になったばかりの弟の三人しか居ない。父親が居るが今日は税金を支払うために都会に出ている。父は数日、家を空ける予定であった。その間、母さんとアコを頼むなと言う父の言葉からか強い使命感のようなものを抱いてタリアはいつもより張り切って家の手伝いをしていた。幼い弟が笑顔で抱っこを要求している。
タリアの家は貧しい小作農である。勤勉な両親のわずかばかりの収穫と家畜、内職による収入で家族四人がなんとか食べていける程度の収入を得ていた。父も母もタリアに仕事をさせるのを嫌がったため彼女は家事や収穫の手伝い、家畜の出し入れ程度の仕事しか与えられなかった。タリアはもっと仕事を任せてくれても大丈夫だと主張したがお前が大人になってから私らに楽をさせてくれればいいと言って少し悲しげに答えるだけだった。
タリアには記憶にない兄が一人居た。ユーリと名付けられた少年にはタリアの両親のほかに祖父母がいた。祖父母は自分がかつてそうされたように、そして息子にそうしたようにユーリにも過重な仕事を科した。そして少年は文句も言わず黙々と働きポキリと折れるかのように死んだ。父親は自分の両親を責め、母親は両親を止められなかった自分を責めた。その後、祖父母は報いるように死に両親は子を働かせないように誓った。
そんな両親の変わった教育方針によって彼女は労働から開放され、修道学校に通っていた。農家の子で学校通いをしていたものは非常に少なく、クラスメートは三十人程度で年齢もバラバラだった。
「また、クラウディア先生と喧嘩になっちゃったの。」
マメとジャガイモのスープを食べながら学校の話を聞かせるのはタリアの日課である。両親ともに学校に通った事がなかったため彼女の話を嬉しそうに聞く。
「あなたがおかしな事を言ったんでしょ。」
と弟にご飯をあげながら母が茶化すので、違うのとタリアは反論した。
「先生に一から十までの足し算をしてなさいって言われたから答えを言ったら勘で答えないようにって怒られたの。」
「勘で答えたの?」
「違うよ。ちゃんと計算して五十五ですって。なのにそんなに早くできるわけ無いって言うの。」
アコが小さな首であくびをしている。眠いみたいだ。
「一足す十は十一で、二足す九も十一でそれが五個あるから五十五になるって説明したら横着するなって。」
母はアコを抱きかかえて彼の頭を撫でながら、横着しちゃ駄目だわね、と言う。
「横着して無いもん。だって楽に数をかずえるために算術をするんでしょう。なら楽なやり方でもいいじゃない。」
むくれるタリアを見て母はそうねと微笑みかけた。
「でもね。タリア、クラウディア先生には先生なりの考えがあって怒ってらっしゃるの。」
ね、とタリアの目を見ながら彼女のおでこを撫でた。
「わかった。明日先生に謝る。」
彼女が仕方なくそう答えたそのときは、まだその家族は幸福を湛えていた。