2話 碧眼の少女
修正中
空には未だ照り輝く太陽が佇んでいる。
出発した時よりはやや傾いている為、あと数時間もすれば夕陽に変わるんだろう。
そんな中――――。
俺は山の一本道を全力疾走していた。
(やばい! やばい!! やばい!!!!)
そして、無我夢中で走っていた俺はあることを思い出した。
(そう言えば....。こういう時って、逃げちゃダメなんじゃなかったっけ......)
恐る恐る振り返ってみると、後方には物凄い勢いで追いかけてくる――猛獣の姿が。
「わーー!! 無理無理!! 死ぬ死ぬ!!」
あれから杉の林に入ると、意外にもすぐに抜けることができた。
出た場所は――幅3メートル程しかない崖。
ただ――。
そこから広がっていた景色は見事なものだった。
雲にも届きそうなほど高い山々と、見事なまでな蒼さを体現している森林。
町らしき建物や川になっているであろう滝の姿は一切ない。
本当に緑一色。
今まで目にしたことのない珍しい光景に、感銘を受ける――わけでもなく。
俺の口から洩れたのは「嘘だろ....」の一言。
そのまま崖に沿って慎重に進んでいくと、また予想よりも早く道のようなところに出られた――のだが......。
そこからおよそ2時間。
人どころか水すら見つけられず、森のような山のような道を彷徨い続けた。
そんな時に出くわしてしまったのが、まさに今追いかけられている猛獣――――熊だ。
疲れで頭が回っていなかったのか。
茂みから音が聞こえた際、なぜか”危険な動物かもしれない”という概念が欠如していた。
人か、もしくは食料になるかもしれない小動物を期待し、胸を躍らせていると現れたのがこいつ。
つまり、”こういう時”とはこのことである。
そんなの視界に入った途端さ。
反射的に逃げちゃうでしょうよ。
うん。
俺は悪くない。
誰のせいでもないにしろ、このままでは奴に追いつかれ、胃袋の中へと招待されるのは時間の問題だ。
後ろの獣との距離は刻一刻と迫っているに違いない。
(こうなったら、一か八か......。よし!)
意を決した俺は真っすぐ走っていた向きを左に急転換し、そのままの勢いで茂みの中に飛び込んだ。
これが良策なのか正直わからなかったが、どうやらそれは間一髪だったらしく、熊の爪が上着を掠めるのを視界の隅に捉えていた。
そして全力疾走の勢いのまま突っ込んだ俺は、坂になっていた林の中を転がり落ちていく。
多少なりとも急な坂を、奇跡的にもほぼ無傷のまま下まで転がり切ると、止まった体を素早く起こして近くの大樹に身を潜めた。
「..........撒いたか?」
数十秒息を殺した後、樹を背にした状態で坂の上へと視線を向けてみる。
どうやら熊が追いかけてくる様子はないらしく、安堵した俺はふっと体の力が抜け、樹にもたれかかりながらゆっくりと腰を下ろした。
「やっば....。まじで死ぬかと思った......」
止めていた息と言葉を同時に吐き出し、汗だくの顔を俯かせる。
荒くなった呼吸を整え、ようやく落ち着いたところで顔を上げると、無数の葉の隙間からの木漏れ日がちょうど顔を刺した。
「あー....水飲みたい......」
懐かしい森の景色を瞳に反射させながら、ボソッと囁いた時。
――――水の匂いがした。
俺は感知したと同時に素早く顔の向きを変え、やや目を見開きながら転がってきた坂とは逆の上り坂に視線を向けた。
本能的に欲していた為か、それとも幻か、嗅覚は確かに水の香りを感じ取ったはずだ。
疲労や空腹で重くなった体を何とか持ち上げ、先ほどとは違うなだらかな坂を駆け上がる。
数メートルもなかった坂を上りきり、林の中から抜け出るとそこには――。
まさに自然というものを体現したような、”別世界”が待っていた。
樹々の暗がりとのギャップに眩しさを感じつつ、次第に慣れくる視界に映し出されたのは、
――――二つの”青”。
一つは、どこまでも澄んだ雲一つない”青空”。
もう一つは、まるで鏡のように美しく透き通った”湖”。
2120年の現代、科学技術の発展により”大気汚染”と呼ばれていた地球環境を脅かす現象を排除することに成功している。
それは「大気の素晴らしさは歴史上最高だ」と謳っている学者も少なくない程に。
そんな時代にいる俺でさえも、こんなに心が惹かれるよう光景は目にしたことがない。
まるで時が止まったかのような静寂。
飛び交う鳥も。
樹々の葉の揺らぎも。
全てが遅く感じた。
どれ程その景色に浸っていたか。
その静寂を破ったのは――。
本当にしょうもないものだった。
きゅぅぅうう!
空腹を感じてからおよそ2時間半。
山を歩き回った挙句、危険な動物と鬼ごっこまでしていたんだ。
しょうがなくね?
その音で我に返った俺は先ほどまでの疲労を忘れて、水辺へと駆け寄った。
水を両手ですくい上げると、喉を鳴らしながら一気に流し込む。
「う、美味っ! こんなに美味しい水は初めてだ!」
空腹も相俟ってか、極上に感じる水を今度は顔を直接湖に浸けて喉を潤していく。
満足するまで水を堪能した俺は履いていた靴を脱ぎ捨て、足を水に入れ腰かけていた。
「空腹に勝る調味料なし! とか言うけど。あれ、ほんとなんだな」
俺は満腹の余韻に浸りながら、空中に表示させた画面をスクロールしていた。
「確か上の方に....あ。あった」
俺はデバイスの”あるソフト”を起動した。
選択したのは――――【物質測定】。
【物質測定】―――とは、デバイスの位置から約半径3メートル内の”気体”の状態を計測したり、スキャニングできる距離にある”固体”や”液体”の解析ができるものだ。
今回は【環境】をメインに設定し、”汚染状態”などを測定してみる。
「まず最初は....空気かな」
大気は簡単に10段階評価で分析結果が表示される。
”1,2はあまり生活環境には向かない数値”、”3,4,5なら生活する上では問題ない空気”。
基本的に”海や山など、自然が豊かなところでは6,7”、と計測されることが多い。
おそらくここもそのくらいであろうと思った。
しかし、そんな俺の予想は見事に打ち砕かれてしまう....。
「た、大気判定......9って。確か研究室とかのクリーンルームで、人為的に操作しないとできないんじゃなかったっけ?」
改めて味を噛みしめるように吸い込んでみても、ここの空気はとても澄んでいると思う。
祖父の家の裏にも大きな山があった。
完全に俺の遊び場になっていたそこの大自然の空気も、ここと負けないくらい美味しかった....はずだ。
なにせ最後に味わったのは7年も前。
ぶっちゃけ覚えてない。
「よ、よし。次は水を....」
気を取り直すと、今度はWDを水面に近づけ、表示されている計測ボタンをタッチした。
目を瞑りながら計測結果を待ち、終了の合図と共にゆっくりと画面に視線を落とすと、先ほどよりも目を疑いたくなるような数値が現れていた。
「こ、こっちも9!?」
水質判定9――人口で精製するのもかなり困難な代物で、このソフトが開発され一般に出回るようになってから約10年。
現在までに10を作れたという実証は数十件、9は百数件と非常に少なく、一体誰が判定基準を考えたのかと話題になったのも懐かしい。
こんな湖......。
俺はノーベル賞も間違いないんじゃないか?
さすがに驚き疲れたのもあり、体を横たわらせ青空を見上げる。
「いやー、ほんと。ここって、どこ.....なんだ....ろ........」
そう呟きながら、どっと押し寄せた疲れが眠気を誘い、そのまま夢の世界へと入っていく。
眠りについてからどのくらい経ったか、風に乗ってきた木の葉が顔に当たり目を覚ました俺は勢いよく起き上がった。
「げ! 寝ちゃってたよ!」
そう言いながら周囲を見回し、リュックや衣服、辺りの状況などを確認する。
どうやら特に変わった様子はないみたいだ。
急いで足を水から出し、リュックに入っていたタオルで水気を拭いていると、俺はあることが気になった。
「あれ? こんな音....してたっけ?」
おそらくここに辿り着いて、眠りにつくまではなかったはずの音。
足を拭き終え、靴を履きながら周囲を確認する。
完全に立ち上がったところで視界に捉えたのは、ここから少し離れた所に浮いている”謎の物体”だった。
「なんだろ? あれがこの音を出してるのか?」
依然として、少し勢いのある川のような音は鳴りやまない。
片づけを済ませリュックを背負うと、その”謎の物体”を目指した。
今度は茂みに身を潜めながらゆっくりと慎重に。
またさっきみたいな危険な目に合うのは嫌だから。
そうして”謎の物体”との距離がおよそ20メートルくらいの所まで近寄ると、WDを操作し始めた。
起動したのは――単なる”カメラ”だ。
ズームをして”謎の物体”の観察を始める。
どうやらこれは、”水でできた球体”のようだ。
その球体の大きさは直径2,3メートル程で、それ自身が水を吸い上げて形を維持しているらしい。
鳥籠のように、水でできた柱が球体を取り囲み、それぞれの水柱の間には水の薄い膜が張り巡らされている。
(内側が薄っすらと見えるけど....。何か動いてる?)
一体何のためにこんなものがここにあるのか、皆目見当もつかない。
さらに不思議なのは、この物体が空中に滞在している原理だ。
周囲には機械と思しきものは一切なく、ただ水の力だけで浮遊しているようにしか見えないんだ。
現代の都市部には、年中無休でオープンしているプール施設がある。
そこで楽しめる”浮遊式プール”に近い。
様々な重力装置を使用することで、安全性を考慮し、ようやく稼働を可能にしているものだ。
規模はそれに及ばないまでも、何もないただの水の上に、重力の概念を完全に無視した物体が浮かんでいれば、誰だって混乱するはずだ。
「どうなってんだよ、これ。水は昇ってるし......。どんな現象が起きればこんなことになるんだ?」
そう呟きながら、俺は徐々に近づき始めていた。
目の前の”不思議な現象”の考察にすっかり夢中になっていた俺は、すでに周りの警戒なんてこれっぽちも考えていない。
背負っていたリュックを地面に置くとカメラを停止させ、少し身を出して手を伸ばせば届くという距離まで近寄った。
そうすると近さもあって、薄い膜で覆われた部分から先ほどよりも中の様子を窺いやすくなったのに気付いた。
(やっぱり....! 中でも何か動いてる。細い....水? それから......?)
水球体の中では紐のような水がまるでダンスでも踊っているかのように舞っていた。
さらにその中心には、明らかに水とは異なる”もう一つの物体”がある。
それは全体のほとんどが白っぽい色で、上部だけが黒い。
それはまるで――――。
「もしかしてこれ、中に――!」
夢中になっていた俺は自分の立ち位置を完全に失念していた。
一歩前に踏み出した足は地面ではなく水面を踏みしめ、一瞬で弾けた。
当然、俺は焦った。
ただ、昔はよく川遊びで泳いだりしていたので、泳ぎに関してはそこそこ自信があった。
そこらの都民とはわけが違うんだよ。
湖に落ちてすぐに体勢を立て直し、浮上する――はずが。
ゴッ!
という鈍い音と共に、やや強い衝撃が頭に響く。
落ちてから水中で回転した為、湖の底に頭を打ち付けてしまったらしい。
別に飛び込みをしたわけでもないし、浮力もあってか差ほど痛くもない。
それでも、それは冷静な判断を刈るには十分すぎた。
ぶつけた反動で肺に入っていた空気は漏れ、息苦しさと頭に残る微かな痛みが思考を鈍らせる。
急いで水底を蹴り上げ、水面から飛び出すと、少々飲んでしまった水を吐き出すように咳込んだ。
「はぁ......何やってんだよ」
今の行動とは明らかに比例にならない程の脱力感が体を襲い、岸に上半身だけを横たわらせると、溜息を漏らしていた。
湖に落ちたことに対してか、今の置かれている現状に対してか。
またはそのどちらもなのか......。
俺は少し....泣きたくなった。
昨日までは普通に暮らしていたはずなんだ。
とっくに母さんのご飯を食べ終えている頃。
今はベットで横になってくつろいでいる時間かな。
こんなに歩いて、疲れて。
汗まみれな体を風呂に入って洗い流したい。
......ちょうど今。
湖に落ちたんだから汗なんて流されているはずなんだけど......。
そういうことじゃない。
目を瞑りそんなことを考えながらそっと瞼を開けると、俺の視界に”妙なもの”が入ってきた。
「......ん?」
――――衣服だ。
少々離れた所に、綺麗に畳まれてあるそれは、おそらく女物だろう。
もちろん非リアな俺は女の子の服装とか全然詳しくないんだけど。
サイズ感が男性の物より小さめな気がする。
「なんでこんなところに服なんか....誰か水浴びでもしてたのか?」
それとも自殺....。
いや、それなら服は脱がないよな?
たぶん。
今まで人間の気配は全くなかったからというのもあるが、どうして気付かなかったのだろう。
こんなものがあれば真っ先に反応してもおかしくないはずだ。
他に何か夢中になっていたものなんか――。
「ああ!!!! そうだ!!」
湖に転落して頭を打ち、半ば溺れかけたことや、その失敗のせいでネガティブになり、帰還を望んでしまったことなどが要員になってるんだと思われる。
つい先刻まで夢中になっていた物の存在を忘れてしまっていたのだ。
何よりも湖に落ちてしまった理由でもある、あの”人”らしき影のことを――――。
叫びながら横にしていた上半身を両手で起こすと同時に、突然何かが破裂するような音が鳴り響いた。
俺はその衝撃に驚き、体をすぼめて目を瞑る。
すると辺りには雨のように多量の水が降り注ぎ、少し乾き始めていた髪の毛をまたずぶ濡れにした。
破裂音が聞こえてきたのは後方上空。
つまり、今の水はおそらくさっきまで見ていた水球体のものだ。
何らかのせいで、水球体が破裂したに違いない。
ゆっくりと振り返ると、予想通り先ほどまで存在していたはずの水球体はそこにはなく、その代わりにあるものがあった。
――というよりいた。
白人ほど白いわけではないかもしれないが、日本人しかちゃんと知らない俺にとっては驚くほど白く透き通った美しい肌。
こんなに綺麗な人がこの世にいるのか。
と心を奪われる中。
目線をずらして見つけた、”瞳の色”で納得がいった。
それはこの湖に訪れた際に感じたものを蘇らせる、どこまでも澄んだ青空のような”紺碧”。
さらに”髪の色”も――――。
ザーッ!!
突然、周囲の水の動きが変わり、宙にいる人物を目掛け昇り始めた。
それはみるみるうちに彼女の掲げられている片方の手元へと収束していき、次第に形は大きな手のようなものになる。
「..........あ」
俺は”謎の水球体の中にいたと思われる人物”に気を取られ過ぎて、今置かれている状況を全く考慮していなかった。
ここでようやく現状を理解したんだ。
さっき見つけた綺麗に畳まれた衣服。
最初に思いついたことではないか、”誰かが水浴びでもしていたのか”と。
ただ少し間違っていたようだ、訂正しよう。
”誰かが水浴びをしているんじゃ”....と。
皆も察しがついているだろ?
そりゃあ、肌も綺麗に見えるさ。
何も着ていなかったその人物は、上げていない方の手で胸元を隠し、最初見た時とは異なり、顔が真っ赤に染まっている。
掲げていた腕を大きく振りかぶり、準備万端のご様子だ。
「........ですよねー」
何の動作なのか理解していた俺は、顔の半分を引きつらせ、来たる衝撃に備えた。
そうして次の瞬間。
悲鳴のような可愛らしい叫びと共に、強い打撃が俺の頬へと加わる。
俺の意識はここで途切れ――――。
そして、ようやく冒頭へと戻ることになる。
「君......大丈夫??」
俺のことを気遣ってくれているであろう彼女がそう声を掛けてくる。
ようやく意識がはっきりとし始め、ここまでの経緯を思い出した俺は返答に少しばかり戸惑っていた。
すでに彼女は衣服を身に纏い、顔の色も戻っている。
それでもあまり女の子と話したりしたことがない俺は、この場合どう応えるのが適切なのかわからなかった。ましてや覗いてしまった後で....。
そんな経験したことないし....。
というかしちゃいけないだろ。
なるべく普段通りに話す事を心掛け、膝枕をしてもらってる状態のまま口を開いた。
「あ....えっと........全然! 大丈夫! ....です」
(いや挙動不審すぎだろ! 俺! 女子って....どうやって話すんだっけ!?)
もう頭が混乱し意味不明な思考に陥っている俺。
「....そっか。それは良かったよ」
そんな俺を他所に、やや間を開け彼女は冷静に答える。
どうやら俺の反応は問題なく、心の内も気付かれてはいないらしい。
しかし、そんな彼女の顔は裸を見られたという割には不気味なくらいな笑顔で。
よく考えれば”申し訳なさそうな顔”も一連の出来事からすると不自然な気もするけど....。
(きっと....優しい人なん――)
不安を誤魔化そうとしたところで、重なった彼女の言葉により、それは確信へと変わった。
「死んじゃってたら、拷問も何もできなかったからね」
「..........へ?」
表情とは裏腹に、重く冷たい声が周囲に響く。
※2018年12月5日 加筆・修正しました。
読んでいただきありがとうございます。
初めてのため設定などおかしくなっているかもしれませんが、気になるところは感想にて質問していただけると嬉しいです。
可能な限り返答したいと思います。