プロローグ
この国で誰もが子どもの頃に憧れる職業が三つある。
それは医師。
それはパイロット。
そして――名探偵だ。
「もう二度と戻ってくるなよ。冤罪探偵さん」
「誰が冤罪探偵だ!」
あまりにも屈辱的であったので血が一気に頭に上がって体温が急上昇した。しかし、刑務所の門を一歩出ていくと吹き抜ける寒風に身体が萎縮した。
「おい、コートを返してくれよ。ぶち込まれる時に押収されちまった」
「コートだあ? そんなもん知らねえなあ」
刑務官の突き放したような態度に俺は再びムカついたけれど、こんなところで騒ぎを起こしても面白くないのであきらめることにした。この国の司法・行政機関の関係者のモラルや規則を遵守する意識というものはひと昔前に比べるとほとんど絶望的なものになった。こうやって押収した品を返却しないのは当然(紛失した程度ならかわいいものだ、たまに勝手に売り払うような者までいるという!)であり、検察官は証拠のねつ造を平気で行い、独立すべき裁判官の収賄事件は頻繁に紙面を飾っている。
そして、もはや名探偵の資格を失った俺に対してはどれだけ不躾な態度をとっても許されると連中は考えているらしい。
だが、それも仕方ないのかもしれない。なにせ俺は誤った推理を口にし、それによって罪のない人間をひとり死に追いやったのだから。
二年前のことだ。俺はそれなりに名の知れた名探偵で世間には通っていた。名探偵の千夜真といえば、事務所のある京都で名を知らぬ者はおらず、関東でも一定の知名度を誇っていた。
だが、そうした俺の社会的地位が一気に地に落ちる事件が起こった。
玄矢木家で起きた連続殺人事件――世間では哭鳴館の殺人などと呼ばれている事件だ。
まず本家の当主が自殺に見せかけて殺され、分家の嫡男が密室で殺され、使用人が首なし死体で発見された。俺は秘書の女を犯人だと推理し、決定的な証拠を突きつけた。その女は服毒自殺したが、後に彼女に犯行が不可能であることが明らかとなり、俺がつかんでいた決定的な証拠は真犯人によってねつ造されたものであると判明した。
名探偵法第二十一条の推理誤謬による自殺教唆罪が俺に適用された。本来であれば執行猶予がつくはずが、俺にはちょっとした前科があったため実刑判決となった。懲役二年。
刑務所にぶち込まれること。それ自体は大して苦痛ではなかった。問題なのは名探偵の免許がはく奪され、それまで積み上げてきた名誉や実績がすべて白紙に、いや、真っ黒になったことだ。推理を誤った名探偵が担当した過去の事件は名探偵審問にかけられ、徹底的に再調査が行われる。つまり、過去にも間違った推理をしていないか粗さがしをされるわけだ。
幸い、過去の事件に問題はまったく発見されなかった。しかし、俺が名探偵として生きていくことはもはやほとんど不可能だと思われた。
(腹減ったな。とにかく、事務所へ帰ろう)
持ち家があって助かった。もし事務所が借りものだったら家賃滞納→追い出しで帰る場所もない。
(つーか。冷蔵庫の整理もできずにムショに入ったからきっとえらいことになっているぞ。ゴミって出していたっけ。くっそ、こういう時にひとり暮らしだと厄介だ)
俺の事務所がゴキブリの巣窟になっている可能性は大いにある。どれだけ楽観的に考えても冷蔵庫の中身は死んでいるだろう。床は埃が積もっていて電化製品のいくつかは壊れているかもしれない。空気は淀んでしまっていることだろう。
(あれほど外に出ることを望んでいたのに、出てみると先行きが不安でしかない。ていうか、名探偵として活動ができなくなったら事務所なんてあってもなくても一緒なのでは)
どうやっても気弱になるのは仕方なかった。金には困っていない。府内にはいくつも持ちビルがあり、そこから得る家賃収入だけで生活していくだけの金は手に入った。ビル管理は業者に任せているため、俺自身はほとんどなにもしていない。
だが、金に困っていなくても人間には仕事が必要だ。自分が社会的有意な人材であると自覚するため、あるいは長すぎて退屈な人生の暇つぶしのため、あるいは使命感。なんでもいいが、働かずに生きていくには人生は長すぎる。しかし、俺は名探偵以外の仕事はするつもりがなかった。というか、それ以外の仕事をする自分というものをちょっと想像できなかった。
(だがしかし、これからは探さなくてはならない。名探偵以外にやれる仕事を。そんなものがあるのかね、果たして。俺に)
ともあれ長い獄中生活のせいで心身ともにすっかりくたびれてしまった。ハロワに行くのは明日、いや、明後日にしよう。けれども前職が名探偵の人間はいったいどんな仕事についているのだろうか。警備員とかだろうか。刑事は前科があるからダメだろうし、というかどっちもなりたくないな。なりたくないし、俺には務まらないだろう。
そんなことをぼんやり考えながら市営地下鉄に乗り込む。金は出所前に渡された作業賞与金から出した。人目が気になった。不潔な恰好はしていないはずだが、やたらとみられているような気がする。まさか別荘帰りだと見抜かれているわけではないだろうが、落ち着かない。車窓から見える景色がどうにも見慣れないものばかりだった。このあたりに大規模な区画整理でもあったのだろうか、妙にこざっぱりしている。たった二年でここまで変わるというのか。
俺は社会復帰できるのだろうか。
この異様に早い時流にひとり取り残される自分の姿を想像し、ゾッとした。汚名を着せられた。推理が誤っていたから。たった一度間違えたから。
だが、彼女が自殺したのは俺の推理に動揺したからだろうか。
これは何度も考えたことだった。あの女はコーヒーに入っていた毒で自殺した。誰もカップに近づけなかったし、コーヒーの入っていたポットに毒は入っていなかった。自殺以外の結論はつけられない、と相成ったわけだが。
誰かが、あの玄矢木家の連続殺人事件を起こした何者かが、トリックを弄して彼女を殺害したのではないか。間抜けな俺が間違った推理を発表したのを利用して、機会に乗じて、彼女の口を塞いで本当に犯人にしてしまうつもりで。
根拠はない。そうであったらいいという願望が多少は混じっている。自分が推理で誰かを追いつめて殺してしまったなんて、できれば認めたくない。
(まあ。どうあがいても、きっかけをつくったのが俺であることに違いはないな)
俺がいなければ、俺が推理しなければ、俺が口を開かなければ彼女は死ななかった。だが、それは因果関係がある程度明瞭であるからそんな風に考えてしまうだけで、もしかしたら俺がいなくとも彼女は殺されていたかもしれない。別の理由で。それこそ事故みたいなことで。本来の標的と間違って殺されていたかもしれない。あるいは彼女自身が犯人にとって本当の標的であったかもしれない。
確かめようがない妄想だ。単なる妄想。空想。願望。推測にすら、憶測にすら値しない白昼夢。そこには必然性も偶然性も蓋然性さえも欠片も存在しない。根拠は絶無。月の裏側で兎が餅つきをしていると想像するに等しい空しい哀しい考えだった。
とても名探偵の思惟とは思えない恣意的思惟。
自分の思考に落ち込みながら俺は京阪に乗り換え、事務所のある祇園四条へと向かった。顔見知りに出くわさないかと不安であったが、友だちの少ないことが幸いしてか、一度も誰にも声を掛けられずに済んだ。というか、今日が出所であることを知っている人間はどれだけいるのだろうか。もしかしたら誰も知らないのでは。
名探偵法によって裁かれた名探偵に保護司はつかない。そもそも、法律上の扱いも普通の刑事犯罪者とは異なるのだ。獄中生活とは云っても入るのは交通刑務所のようなもので、医師法のように名探偵法というのがあってそこにある罰則規定で量刑され刑罰を科せられる。
駅から歩くこと十分。とうとう家についた。スレード葺きの赤い寄棟造りの上には風見鶏がある。クリーム色の外壁に木組みの建材、洋風の一軒家。事務所兼自宅であった。さすがに外観はさほど変わっていない。
鍵を取り出し、玄関の扉を開けた。埃臭いのを覚悟して室内に一歩踏み込んで。驚いた。
床、壁、天井。視線を巡らせてみたが、なんということだ。
綺麗すぎる。蜘蛛の巣どころか埃すら見当たらない。奇妙なことだ。いったいどうなっているんだろうか。まさかタイムリープ、いや、過去にも俺はここまで家を綺麗に掃除したことはない。なにがどうなっているんだ。
「あっ、おかえりなさーい。おつとめご苦労様さまですー」
彼女は正面の階段をトトトトと駆け下りてきた。
右手には洗剤の入ったスプレーボトルが握られている。おかっぱの髪に赤いヘアバンド。小柄な女の子だった。黒革の靴を履き、黒のスカートに白いブラウス。小学生かと思った。勝手に空き家に入り込んでいる小学生かと。いや、ここは空き家じゃないけれど。
というか、おつとめご苦労様って云ったよな。つまり彼女は俺が刑務所帰りであることを知っているのではないか。ますます何者か分からない。だから俺は口を開いた。
「誰だ、お前」
キョトンとした顔をする少女。まるでこちらの言葉を予想もしていなかったかのような反応だったが、俺は間違いなくこんなガキは知らない。断言できる。遠い親戚かなにかだろうか、と思ったが俺は身軽な天涯孤独の身であることを思い出した。親戚などひとりもいないのだ。
「あー。そっか、とっくに顔見知りのつもりでいたよ」
少女はきをつけの姿勢を取ると、おどけたように敬礼をしてみせた。
「久利麻耶華っていいます。名探偵助手の資格を取得した現役女子高生です! あの、それでですね。ここで働かせてください!」
「ダメだ」
「即行否定!? もうちょっと悩んでくださいよ!」
言下に拒絶。
なるほど助手希望者だったのか。こういう手合いは以前からしばしばここを訪れた。さすがに勝手に家に入って掃除をするようなヤツははじめてだったが。不法侵入だぞ不法侵入。名探偵助手志望者がそんなあっさりと法を犯すか、フツー。
「というか、どうやってこの家に入ったんだ」
「あー。えーっとですね。まあ、ちょちょいとこれで」
そういってポケットから取り出したのは袱紗に包まれたピッキングツールだった。あまりのことに俺は怒るより呆れてしまった。
「お前、お前なあ。名探偵より泥棒の助手やった方がいいんじゃないのか」
「そんな意地悪云わないでくださいよ。千夜さんはわたしの憧れだったんです。やっとの思いで名探偵助手の資格をもらえたんです。お願いしますよ」
「生憎だったな。俺はもう名探偵じゃないのさ」
「知っていますよ。でも、そんなの再取得すればいいだけじゃないですか」
簡単に云ってくれるよ、まったく。
もちろん再取得を考えなかった俺ではない。しかし、現実問題それは難しいという結論に至った。名探偵資格を再取得する方法はいくつかある。単に失点を重ねて資格をはく奪された場合、再試験によって取得する道もある。だが、俺のように間違った推理をして無罪の人間を自殺させてしまった場合、要するに名探偵法の罰則規定で懲役以上の実刑に処された場合、再取得するのはほとんど望み薄なのだ。
「そんなことも知らなかったのか、名探偵助手の資格を持っているくせに」
「でもでも、千夜さんならできると思うんです! 『名探偵審問』で雪冤を為せば」
俺は口を閉ざした。名探偵審問。ぼんやりとだが考えていた唯一、俺が名探偵に戻れるかもしれない方法。
名探偵審問とは名探偵連盟会から解決能力が未熟であると見なされている名探偵の解決に連盟会の下部組織であり諮問機関である名探偵委員会が立ち会うことを指す。冤罪を防止するための措置であり、名探偵審問を免除されるようになって新人名探偵から一人前の名探偵になったと世間ではみられるようになる。
そして、慣例的にこの審問には陪審員が設けられる。そして、名探偵資格を失った人間にはこの陪審員となる権利が優先的に与えられており、なおかつそこで名探偵の推理が誤っていることを証明できた場合、名探偵資格を再度取得することができるのだ。
これを業界では裏技と呼んでいるが、実際にこの方法で再取得した人間を俺は知らない。ほとんどいないんじゃないかと思う。というのも冤罪になりそうな事件はそもそも名探偵審問にかけられない。アマチュア名探偵はそういった事件を解決することを避けるからだ。故に有罪率100%の事件ばかりが名探偵審問では扱われる。
つまり、黒を白にでもしない限りこの方法では再取得できない。だが、皮肉なことにこの方法くらいしか俺には望みが残っていないのであった。それ以外の方法は膨大な時間と手間がかかる。早くて五年、あるいは十年以上かかって、それでも再取得できるかどうかは怪しい、というものばかりなのだ。
「千夜さん。やりましょうよ、名探偵審問。ここでちゃちゃっと無罪の人を助けてちゃちゃっと資格を取り戻しましょう」
「馬鹿。簡単に云うけどな」
「いいんですか。玄矢木家の事件、このままにしておいて」
突然、麻耶華の目が夜のように黒くなった。
こちらの深淵を覗く深淵。
なんだこのガキ。本当に十六歳か。年偽っているんじゃないか。見た目は小学生で実際は高校生らしいのだが、この目の暗さはまるで子どもじゃない。
「死屍覗く刎頸の虚。覚えていますか」
「あ、ああ」
忘れるべくもない、その事件はかつて俺が担当した連続首なし殺人事件で出てきた曰くつきの洞穴の名前。
入ったら最後、胴体に首を乗せて出ていくことができなくなるという洞穴。その洞穴を塞ぐようにして建てられた館での殺人事件。あれは難事件だった。犯人はたしか、
「あの事件の犯人である北目園日色。彼が生きていて、そしてあなたを陥れるために玄矢木家で事件を起こした。そう云ったら、少しはやる気を出してもらえますか」
……なんだって。
「どうしてわたしがそんなことを知っているのか、って云いたそうですね。じつはこれ、業界内では結構有名な話です。あなたは嵌められたのですよ。そして二年前、あなたの有罪が確定した直後に北目園はそのことを名探偵連盟会に投書しました。あなたと云う人間を連盟会が誤った裁量で罰した、と。彼女は、あなたが犯人だと指摘した秘書の女は自分が殺したのだ、とご丁寧にそのトリックまで書いてね」
しかし連盟会は箝口令を敷き、世間にそのことを公表しなかった。当たり前だ。そんなことをすれば連盟会のメンツは丸つぶれ、それならひとりの名探偵に死んでもらった方が良い。
そして、名探偵千夜真は見殺しにされたのだ。
「…………」
「北目園は生存を確認されているにもかかわらず当局は動けず、きっと彼は次のオモチャを探していることでしょう。とめられるのは、彼を一度死に追いやった、少なくとも死んだふりをさせるまでに追いつめた、あなただけです」
困惑、怒り、&――安堵。
やはり、俺が殺したんじゃなかった。
「乗せられてやるよ」
「え?」
「お前の発破に乗せられてやるって云ったんだよ。助手」
すでに俺は決心していた。やってやる、名探偵審問。上等だ。
もう一度名探偵になる。今度は惑わされない、誤らない。