第三話
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緒医の世界から光が消えた。素音の世界から、緒医は消えた。
善等菜は修行の途中だった。小さい頃に、家が貧しいという理由で教会に預けられてから、ずっと、長く辛い修行を続けてきた。人々の幸福を願えるほど、自分は幸せな身の上ではなかったけれど、それほど不幸とも思っていなかった。
善等菜は今年でようやく、その長く苦しい修行を終えることになっていた。ようやく正式な司祭となれるのだ。
嬉しくないといえば嘘になる。努力してきたことが実るというのは、俗な考えを捨てたこの修業中の身でさえ嬉しいものだ。だが、あからさまに浮かれるわけにはいかない。善等菜の口はいつも意識してそうしているように固く引き結ばれていた。
お家が裕福で莫大な金と、強固な親のコネという後ろ盾を持っている同輩は嬉しさを隠そうともせずに、威張りくさった口調で善等菜を相手に己の未来像の話をした。
そういうやつに対して、善等菜は決まって、丁寧に相手をしてやった。善等菜はもっぱら聞き役だった。自分のことを話すのは、何となく気が引けたし、別段話す事柄など自分には無いとも思っていた。
そんな善等菜はある日、先輩司祭の頼まれごとを引き受けることになった。引き受ける際、同輩達もいたのだが、誰も自分がやるとは言い出さなかった。善等菜はいつものごとく自分が名乗り出て、先輩司祭から今日の修行は免除だと言われると、途端に八方から不平が飛び交った。その中で一際、文句を言い立てている奴がいた。見ると、善等菜によく未来像の話をする奴だった。
それでは譲ろうか? と善等菜が言うと、冗談! とコネを両肩に背負った真倫が言って、右手をひらひらさせながら踵を返した。
善等菜は苦笑を漏らしながら、その背中を見送った。先輩司祭も呆れたように笑ってため息をついていた。
先輩司祭からの頼まれごとは、盲目の少女と話すというものだった。
修行の一環として、善等菜は今までありとあらゆるさまざまな人々の話を聞いてきた。修業中の間に、人の苦しみを聞き、苦しみを心で受け止めるための己を鍛え上げるのだ。
しかし実際のところ、あまりにたくさんの人々の、さまざまな話を聞くために修行者にとっては心にかなりの負担がかかることもった。
善等菜は同輩のうんざりしたようなため息を聞くたびに同情しないでもなかった。そんな時、善等菜は決まって、そっと近寄って、「最近どうだ」と話しかけるのだ。
市民の話に加え、同輩たちの常日頃の溜まった不平不満を聞くのもまた善等菜であったため、今回の頼まれごとは適任とも言えた。
善等菜にも、人の心に寄り添う自信はあった。
―――――――――――それなのに。
なぜか、善等菜は己の心に巣食う不安を完全に振り払うことができなかった。善
等菜は今まで盲目の人間に会ったことがなかったのだ。
目がかなり悪いお年寄りなら何人も会ったことがあったが、まだ少女で、そしてさらに完全に見えないというのは、その少女が全くの別世界に住む人間のように感じられた。
言葉は通じるのだろうか、などと馬鹿げた疑問が頭に浮かんで首を振る。
――言葉を注意して選ばなければ。
善等菜は変に緊張して、両手の平は少し汗ばんでいた。
善等菜は修行用の白い服に着替えて、街へ出かけた。ほんの気休め程度に、場の空気向上に貢献してくれるかと思い立って、なにかしらの菓子を買いに来たのだった。
見た目が可愛らしいお菓子を探して、善等菜は歩き回った。だが、なかなかいいものが見つからない。少女の気にいるお菓子など皆目検討もつかなくて、半ば途方に暮れかけていた頃だった――善等菜は、ばったりと真倫に行き合った。
「よう! 元気か?」
真倫のよく通る声が、善等菜の耳に飛び込んできた。
真倫が初めに善等菜に気がついた。そして、何か面白いものでも見るような目線を善等菜に送った。
善等菜は律儀に、元気だと答えた。
両者はそれからやや見合って、善等菜が目を逸らし、さて、次はどこへ行こうかと考え始めた時、何か近づいてくるものがあることに気が付いた。
「なんだ? そのくたびれた顔は。情けないな」
ニヤニヤと笑う真倫の顔がそこにはあった。
真倫という人間は、見るからに疲れた顔をしている人間に対しては元気かと尋ね、また、嬉々とした表情をしている人間に対してはあまり反応を示さないような人間だった。
「……あぁ、娘さんが喜ぶような可愛らしいお菓子を探していたんだが――」
善等菜はこの際、真倫に相談してみることにした。わりとミーハーな部分を持っている真倫なら何か良いお菓子を知っているかもしれないと思った。
「――中々見つからなくてな。……真倫、お前なら何か知っているか」
「さあ?」
相変わらずのふざけた様な返事しか返ってこなかった。真倫は知っているとも知らないとも言わなかった。ただ分かることは、善等菜に教える気は無いということだけだった。
善等菜はしばらく沈黙して真倫の顔を見た。いつものひょひょうとした顔が善等菜を真正面から見つめ返している。
善等菜は苦笑した。そしてどうもありがとうと告げて、真倫の横をすり抜けた。
「―――ただ、言えることは」
――え?
聞き間違いかと思った。善等菜は背後からの声に驚いた。その声は、どう聞いたってあの真倫のものとしか考えられなかった。
ただ、別人かと思われるくらい、いつもの調子ではなかった。声が一筋の真っ直ぐな線を持っているようだった。
「――盲目の娘に、見た目が可愛らしい菓子は分からないってことだけだ。お前の優しさが、菓子の可愛らしさから娘に伝わることはないだろうよ。甘くて美味しいものを買ってやれ」
善等菜は目を見開いて、背後を勢いよく振り返った。瞬間、目に映ったのは、真倫の後ろ姿だった。善等菜はお礼も何も言えずに、ただ信じられないような視線を真倫に送ることしかできなかった。
真倫好きかもしれない。個人的には。笑