一日目 七束村
あなたは呪いというものを信じるだろうか?
誰かに酷い仕打ちを受けて、その相手を憎み苦しめたい、出来ることなら殺してしまいたい。
そんな風に人を呪ったことはないだろうか。
呪いにも様々な形式があるが、その中でも最も代表的なのは丑の刻参りではないだろうか。
深夜に白装束で藁人形に五寸釘を打ち付ける女の話は誰もが聞いたことがあるだろう。
これはいわゆる相手の心理に働きかける類いの呪いで、呪いを受けた相手は人伝に自分を呪っている相手がいることを知り、それを気に病み体調を崩して呪いの効果だと思い込んでしまうのだ。
つまり単なる思い込み、プラシーボ効果というやつである。
プラシーボとはラテン語で偽薬という意味がある。
不眠症で悩む患者に睡眠薬を処方する時、継続して薬を与える事が危険であると判断した場合、医師は睡眠薬と称して栄養剤を処方することを認められている。
患者はただのビタミン剤を睡眠薬と思って服用することで眠気を感じ、実際にはあるはずのない効果を思い込みにより産み出すのである。
このように現代では呪いはプラシーボ効果であるというのが一般的な通説となっている。
実際私の所に舞い込んでくる解呪以来はこの種の呪いが殆どである。
一番多いのは男女の恋愛のもつれからで、別れた元カレから呪いの手紙が届いたとか、浮気相手から呪われていて体調が悪いので助けてほしいといったものである。
この手の嫌がらせ程度のものは気にしなければ何の実害もないのだが、運悪くそれと同時期に病気にかかったり交通事故に合ってしまったりすると、つい呪いの効果かもしれないと思い込んでしまう場合がある。つまり思い込みの激しい人はこの手の呪いにかかりやすいと言えるだろう。
しかし――
世の中にはもっと恐ろしい呪いが存在する。
見た者触れた者全てを無差別に死に追いやる恐ろしい呪いが…
「すいません、七束村に行きたいのですがバス停が何処か教えていただけませんか?」
「あんたぁ七束なんぞに行きよるんかね?ほいたらそこの改札を出て左に行った先にバス停があるでよ」
駅員のおじさんが不思議そうにこちらを見つめている。それも仕方ないだろう。私の格好はつばの広い黒の帽子に黒のジャケット、グレーのシャツに黒のズボンと黒い革靴、さらには左手に黒い手袋をはめていて上から下まで全身真っ黒でコーディネートされている。
仕事の時はいつもこの格好なのだ。だから好奇の目で見られることには慣れている。
駅員に礼を言って私は改札を抜けた。九月も終わろうというのに今年は猛暑だったせいかこの時期になっても気温は軽く30度を越えていた。
東京から新幹線で岡山まで1時間、伯備線に乗り換えて境港まで約4時間、さらにここから目的地である七束村までバスで1時間の道程だ。
しかし田舎のバスが都会のように分刻みでやって来るはずもなく、日に2本しかない最終便を二時間も待つ羽目になった。
二時間後、10分程遅れてやって来たバスに乗り込みやっと落ち着くことができた。
もしこのバスに乗ることが出来なかったら明日までここで足止めを食うことになるからだ。
七束村という場所は山陰地方の日本海沿いの小さな村で地形的にかなり特殊な場所にある。
北の日本海に向かって付き出した半島であり、南は切り立った険しい山々に囲まれていて、人が往き来出来るのは西と東にある街道のみである。
その東西の道も海峡を越えなければならないために大橋が架かっており、万が一災害などで橋が通行できなくなれば完全に孤立してしまう、陸の孤島のような場所であった。
バスは延々と山道を登ったり下ったり、トンネルを抜け海峡を越える大橋を渡ってようやく七束村に到着した。
バス停に降りると日はすっかり傾き、茜色の空が夕暮れを告げていた。舗装された道路は今通ってきた県道のみで、それ以外は田畑を取り囲むように張り巡らされた砂利道ばかりだ。
田んぼには稲穂が風に揺れており、赤蜻蛉が楽しげに上空を旋回している。
地図によると今いる場所は村の北の端の海岸に近い場所である。依頼者である朝霧家のある場所は村の南部の山間にあるようだ。
砂利道を南に向かってスーツケース片手に歩いていると小川のせせらぎが聞こえてきた。
田に水を引くための用水路なのだろう、所々に水をせき止めるための堰板が設けられていた。
この村の北部から中心部にかけては平坦な土地が続き、見渡す限り田んぼや畑ばかりである。
その田んぼの合間に都会では見ることのない合掌造りの民家が並んでいる。
合掌造りとは茅葺の叉首構造の屋根が大きな特徴で、合掌の名の通り手のひらを合わせて三角形を作ったような形の屋根をしており、その急勾配は豪雪による雪下ろしの労力の軽減や多雨地帯の水はけを考慮して考えられたものである。
通気性や断熱性に優れ、原材料であるススキや稲藁など手に入れやすく低コストであるが、その反面寿命が短く10年から15年に一度葺き替えが必要であり、また火に弱く火災の時はあっという間に燃え広がってしまうという短所のある建物だ。
この村の風景は、まるで数十年前にタイムスリップしてきたかのようなどこか懐かしい空気を漂わせていた。
近代的な人工物は一切見当たらず、見事なまでに自然と調和した古き良き日本の象徴のような場所であった。
村の南部まで来ると山に向かって次第に坂が多くなり、道は地形に沿って蛇行していくつも分岐していた。そんな中でも目的地を迷わず目指すことが出来たのは、依頼者宅が村で唯一の神社であり、村の中心部からでも山の中腹にある神社の鳥居が見えていたからである。
日はすっかり水平線に消えて夜の帳が下りてきた頃、ようやく目指す献観神社と記された鳥居をくぐる事が出来た。
傾斜地にあるため階段が多く、参道に着くまでにかなりの時間を要した。
参道の両脇には灯篭や狛犬が立ち並び、左手には手水で身を清めるための手水舎、右手には社務所、正面には参拝用の拝殿、そして本殿へと道は続いていた。
さすがにこの時間に参拝客の姿はなく、無人の境内では秋風が落ち葉を運ぶ以外に動くものは見当たらなかった。
私は依頼者の所在を確かめるためまずは社務所へと向かった。建物には明かりが灯っており中には人の気配が感じられた。
社務所の前まで来ると相手もこちらの存在に気付いていたようで、若い女性が扉を開けて出てくる所だった。
「こんばんは、東京から依頼を受けてやって来た者ですが、朝霧さんのお住まいはこちらでしょうか?」
「はい、父から東京のお客様が来られることは聞いております。ご案内しますのでこちらへどうぞ」
どうやらこのお嬢さんは依頼者である朝霧氏の娘さんのようだ。歳は20代半ば位だろうか、雪のように白く透き通った肌が印象的で、目鼻立ちも整っていてかなりの美人だと言えるだろう。しかし年の割には落ち着いていて、どことなく儚げな、影のあるようなそんな印象を受けた。
「長旅でお疲れでしょう、父と会っていただいた後は狭いところですが部屋と食事を用意しておりますのでごゆっくりなさって下さい」
「それは助かります、実は村に着くのが遅くなってしまって今夜の宿をどうしようかと思っていたんです」
村に着いたときから宿泊施設が無さそうな事には気付いていた。私は生来計画性といったものを持ち合わせておらず、いつも行き当たりばったりの生き方をしてきた。
だから今回の依頼を受けた時も住所を聞いただけで、交通手段や宿の確認もせずに出発してきたのである。そんなわけでとりあえず宿と食事の心配をする必要が無くなったのは非常にありがたい事だった。
「霞と言います、朝霧霞。ここには父と妹と3人で暮らしています」
「解呪師のロウと申します。お世話になります」
トレードマークのつばの広い黒の帽子を手に持って軽くお辞儀をした。
「ふふっ、珍しいですね」
「ええ、解呪師なんて職業は電話帳には載ってませんからね、書類に職業を書く時いつも頭を悩ませます」
「いえ、お仕事もそうですがお名前も、ロウさんって珍しいなと思いまして」
「ああ、ロウというのは通り名のようなものでして、この仕事をする時はこの名前を使うことにしてるんですよ」
社務所の裏側、境内の西にある通用門を抜けると林道があり、その先に朝霧の家があるのだという。
この道は朝霧家と神社を繋ぐ唯一の道で一般の人は通ることができない。山間の傾斜地のため階段が多く当然舗装もされていない、照明も無いため夜は懐中電灯が必要となるだろう。
しばらく進むと石垣が見えてきた、林の木々に邪魔されて端まで見渡すことは出来ないが、かなり大きな屋敷であることは想像できた。
石垣の門を抜けるとゆうに300坪はあるだろう広い敷地に立派な日本家屋が建っている。
村の農村部で見た茅葺きではなく木造二階建で屋根には重量感のある粘土瓦が敷かれていた。
棟の末端の鬼瓦の部分には犬のような獅子のような飾り瓦が施してあり、まるで侵入者を見張っているかのようにこちらをジッと睨み付けていた。
玄関こそ最近取り替えられたのだろう金属製のサッシがはめられているが、それ以外はどこを見ても金属的なものが使われておらず、かなり昔に建てられた屋敷のように見受けられる。
玄関で靴を脱ぎ、長い廊下を通って床の間のある部屋に通された。
「ここで少しお待ちください、父を呼んで参りますので」
そういって霞は部屋を出て行った。
床の間には高そうな陶芸品と掛け軸が飾ってあったが、その掛け軸にもやはり獅子のような獣の絵が描かれていた。この神社は獣の神様を祀っているのだろうか?そんな事を推測していると襖が開いて中年の細身の男性が現れた。
「お待たせして申し訳ございません。この神社の神主をしております、朝霧久継と申します。この度は遠いところをわざわざご足労いただきましてありがとうございます。」
「いえ、こちらこそご依頼をいただきありがとうございます。解呪師のロウです。娘さんからお聞きしましたが部屋まで用意していただけるとかで大変恐縮しております」
「離れに客間がございますのでこちらに滞在の間はご自由にお使い下さい。長女の霞にはお世話をするよう言ってありますので、御用があれば何なりとお申し付け下さい」
神主の久継は物腰も柔らかく、温厚で人当たりの良い人格者のようだ。
「早速ですが、ご依頼の内容を詳しくお聞かせ願いたいのですが」
挨拶も早々に本題に入ることにした。
「はい、お電話でも少しお話させていただきましたが、この神社には代々伝わる呪いの箱というものがございまして、その箱を我々は呪印箱と呼んでおります。本殿の裏側に一般には公開されていない秘密の裏口がありまして、そこを抜けて林の中をしばらく歩きますと祭具殿という建物がございます。そこには祭りの時に使う神輿や太鼓、祭典の時に使用する様々な神器や祭具が収められていて、その一番奥に呪印箱は厳重に保管されていました。
それが3日前に祭具殿を見回った時に異変に気がつきました。建物の側面の壁に長い梯子がかけられていたのです。梯子で登った先には換気のための小窓が付いていてどうやらそこから何者かが侵入し、呪印箱を持ち去ったようなのです」
「なるほど、まずその呪印箱についてお聞きしたいのですが、どういった謂れのある物なのですか?」
「それを説明するにはまずこの神社の起源からお話しなければなりません。ロウさんは犬神をご存知でしょうか?」聞きなれない言葉ではあったが記憶の隅に多少の知識が残っていた。
「四国などに伝わる犬霊の憑き物のことですね?たしかヌエという化け物を退治した際、体が引き裂かれ、それぞれが獣の神になったとか」
「その通りです、ヌエというのは頭は猿、胴は犬、尾は蛇、手足は虎の妖怪で源頼政が退治した時、
体が4つに切れて全国に飛び、胴体が土佐に落ちて犬神になったといわれています。
しかし実際には四国だけでなく、中国地方、九州と西日本の広い地域に犬神の伝承は残っていて、この七束も数多くの犬神伝説が残されています」
「もしかしてその掛け軸や屋根の飾り瓦にあったあの動物が犬神の姿なのですか?」
すぐ後ろにある掛け軸には今にも飛び掛ってきそうな獅子に似た獰猛な獣の姿が描かれていた。
「確かにどちらも犬神様をイメージして作られたものに間違いないです。ですが実際の犬神様というのはイタチやネズミに似た姿をしていて大きさもネズミより少し大きいくらいだという事です。
もっとも私を含め普通の人には姿が見えませんから、この掛け軸はそういった人がイメージで書き上げた物だということです」
「つまり七束村には犬神様信仰が残っていて、この神社は犬神様を祀っているという事でしょうか?」
「おっしゃる通りです。犬神の起源について少しお話しましょう。
ある者に激しい恨みを抱いた男が、その恨みを晴らすために飼っていた愛犬を地中に首だけ出して埋め、犬の目の前に好物の肉を置いて何日も放置しました。犬は目の前の肉にかじり付こうとするが首だけしか動かないためどうしても肉に届かない。そして犬の飢えが頂点に達した時その首を刎ねると首だけが飛んで行って肉にかじり付いたというのです。その首を焼いて骨にしてさらに人通りの激しい地中に埋め、往来の人々に踏ませた後取り出して酒饌を供えて祀る。
そうする事でその霊を自らに取り憑かせ、それを使役することによって恨みを晴らしたと言います」
「なんとも残酷な話ですね」思わず眉をひそめた。
「犬神を呼び出した人間を犬神憑きや犬神持ちと言って、いわゆる祈祷士や呪術士、あちらの言葉でいうとシャーマンと呼ばれるような存在なのですが、それ故昔から犬神憑きは崇められると同時に、畏怖や差別の対象にもなってきました。
犬神憑きの家系を犬神筋と言いますが、婚姻関係を結ぶとその家系も犬神筋となってしまいます。ですから犬神信仰のある地域では婚姻前に家系図を取り交わして犬神筋かどうかを確認するという事が実際に行われています」
これについては聞いたことがあった。四国や九州、中国地方では婚約する時に自分の家系が犬神筋か、非犬神筋かを家系図を開いてお互いに確認するのだとか。
信じられない事だが現代でも一部の地域にこの風習は残っていて人権や差別問題にもなっている。
「そしてここからが本題なのですが、朝霧家の祖先に八千女という女性がおりました。八千女は霊感に優れ祈祷により雨を降らせたり、流行り病を精霊の力を借りて治療したと言い伝えられています。その為七束だけでなく周辺の村々からも次々に人が押し寄せ神格化されていったそうです。
ところがその当時の松江藩の大名達は平民が権力を持つことを恐れ、一揆や謀反の芽を摘むために八千女一族を激しく弾圧したそうです。
最初は村人も一緒になって抵抗をしたのですが、焼き討ちをかけられ村人は次々焼き殺されていきました。
それを嘆いた八千女の一族は村人を守るために最後には集団自決の道を選んだのです。
八千女は自分達一族が死に絶えた後、役人達が村人に手出しできないように呪いの儀式を幾つか執り行いました。その一つが犬神の召喚であり、もう一つが呪いの箱、呪印箱の作成です。
犬神については先程説明した通りですが、犬神憑きが呼び出した犬神を式神として使役し、呪いたい相手に取り憑かせるのです。取り憑かれた相手は高熱にうなされ、四つん這いになって獣のような鳴き声を発するようになり、錯乱状態が続いて次第に精神が崩壊してしまいます。
そしてもっと恐ろしいのが呪印箱の方なのですが、八千女達が集団自決を図った際、一族全員に犬神を憑依させてお互いの首筋を噛みちぎって殺しあったそうです。最後に残った八千女がその一族の血や肉片を呪いと共に箱に詰めて作ったのが呪印箱なのです。
その呪いの効果は絶大で、見た者の目は腐り、触れた者は例外なく死に絶えたと言い伝えられてます」
一気に喋りすぎたのか久継はここでフゥっと息をついた。
丁度そのタイミングで霞が盆にお茶を載せて部屋に入ってきた。
いただきます、と言って温かい煎茶を一口すする。
ほのかな甘みと渋みが丁度良く、心を落ち着かせる作用があるように感じた。
霞は部屋を出る事は無く、そのまま入り口近くに正座をして座っている。
「今ロウさんに犬神と呪印箱についてお話していたところだ」霞はこくりと頷く。
「さて、その後の呪印箱ですが、当時八千女一族の末端であった桐生と朝霧の2つの姓が、八千女の指示により集団自決を免れ、村人の一員として潜伏し箱の管理を命じられました。そして七束に不当な弾圧や搾取を行おうとするものが現れたら、呪印箱と犬神の力を使い村を守るようにと命じられていたのです。
その後代々桐生家は村の庄屋となって、年貢納税の取りまとめ、村民の治安や秩序の維持・村内の紛争の裁定・水利保全・土地の管理などの諸業務を任されてきました。また一方で領主への交渉を行い、年貢の減免や村民の請願を奉上する役目も持っていました。その交渉事に呪いの力が使われたのかは定かではありませんが、それ以降七束村が不当な弾圧や差別を受けたという記録は残っておりません。
そして朝霧家は献観神社を創設し犬神様を祀りたてると共に、呪印箱の管理を任されてきたのです」
「なるほど、そしてその呪印箱が何者かの手によって盗まれてしまったというわけですね」
「このような事態は神社創設以来の一大事です。誰が何の目的で盗んだのかは分かりませんが、もし公衆の面前に晒されるような事があればどんな災いが降りかかるか・・・どうか呪印箱を探し出し祭具殿に戻していただきたいのです。お願いできますでしょうか」久継は深々と頭を下げた。
「事情は分かりました、呪印箱にかけられた呪いが本物ならいつ死者が出てもおかしくありません。すぐにでも調査を開始しようと思います」そう言って席を立とうとしたのだが、久継に呼び止められた。
「今夜はもう遅いですし、ロウさんもお疲れでしょう。食事の用意をさせておりますので今日のところは部屋でゆっくりお休み下さい。捜索は明日からということでお願いします」
せっかくの申し出なので、逸る気持ちを抑えて厚意に甘える事にした。
入り口に控えていた霞が離れの客室に案内してくれるというので、久継に挨拶をして部屋を後にした。
目の前にいるこの若く美しい娘も朝霧家の末裔なのだ、だから先ほど聞いた犬神や呪印箱の伝承も幼い頃からすべて知っているのだ。
彼女の歳に似合わぬ憂いを帯びた表情は、その血筋や家の歴史と無関係ではないのだろう。
「霞さんはずっと神社で働いているのですか?」廊下を歩く霞の背中に向かって問いかけてみた。
「はい、普段は社務所にいますが祭りの時期には巫女になったり、繁忙期には桐生の蔵を手伝う事もありますよ」後ろを振り返りつつ霞は微笑んだ。
「霞さんの巫女さん姿か、それは一度拝見してみたいものだ。さぞかしお似合いなんでしょうねぇ」
霞は何も答えない。前を向いているため表情も分からない。何か気に障るようなことでも言っただろうか。
一度玄関を出て母屋の側面に回るとそこにはよく手入れされた日本庭園が広がっていた。
建物に沿って飛石が右に左に1石ずつ互い違いに打たれている。千鳥掛と呼ばれる飛石の打ち方である。
石灯篭の火袋には火が灯され、辺りをぼんやりと柔らかい光で照らしている。
大人の背丈ほどありそうな石組みに、獅子おどし、池には立派な錦鯉が何匹も泳いでいた。
最後の飛石を踏み終えると目の前には離れの客室があり、中には既に明かりが付いている。
「滞在中はこちらをご自由にお使いください」
霞に促されるまま客室に上がり込むと、8帖ほどの和室が二間、トイレに浴室、洗面所、簡単な炊事ができるミニキッチンまで付いていて東京の自分のアパートより遥かに豪華な作りになっていた。
和室のテーブルの上にはいつの間に用意したのかお膳が用意されている。
「お口に合うか分かりませんが、お召し上がり下さい」
「食事まで用意していただけるとは思っていませんでした。実は朝から何も食べていなかったもので腹がさっきからグゥグゥ鳴っておりました」頭を掻きながらそう答えた。
「お酒はビールと日本酒どちらがお好みですか?」
至れり尽せりとはこの事だ。もちろんこのような高待遇は私の職歴の中でも初めてのことである。
そもそも解呪師といっても呪いに関係する仕事がそうそうあるわけではない。
実際これまでやってきた仕事の多くは、呪いとは関係のない浮気調査や盗聴器の発見、家出人の搜索や落とした宝石を探すためにドブ川に入ったこともあった。
〈何でも屋〉とでも言った方が実態に近いだろう。
だから仕事で来ているのにまるで高級旅館へ宿泊に来たかのようなもてなしに驚いていた。
「ところで先程言っていた桐生の蔵というのは何の事ですか?」
「これの事です」そう言って霞は神泉とラベルの貼られた日本酒のビンを持ち上げた。
「桐生は昔は庄屋でしたが、明治維新後の農地改革により村の取り纏め役の仕事は役所に引き継がれたのです。それで本来の家業であった酒造業に力を入れて、今では全国に取引を広げるまでになったのです」
霞の酌で〈神泉〉を一口含んでみる。
「なるほど、ほんのり甘くてまろやかな口当たりで、とても美味しいです」
「気に入ってもらえたなら良かったです。もしよろしければ明日村をご案内させて下さい。それと明日の夜は親族会議が行われますので、そちらにもご参加下さいと父が申しておりました」
村を案内してもらえるのは願ってもないことであった。霞と一緒ならば聞き込みも捗るだろう。
「親族会議というと、朝霧家と桐生家での会議ということですか?」
「ええ、普段なら年に一度年明けに会議が行われるのですが、今回の事件の事で緊急に開かれる事が決まりました」霞の表情が微かに曇ったように見えた。
「わたしのような部外者が出席するのは気が引けますが、もしかしたら事件の解決のヒントになる話が聞けるかも知れませんし、喜んで出席させてもらいます」
明日の朝食の時間を確認して霞は部屋を出ていった。
他にも何か用事があれば内線電話で何時でも連絡してくれて良いという事だった。
食事の後、客室に備え付けの風呂に入りながら明日からの捜索について考えを巡らせていた。
まずは祭具殿で箱が盗まれた時の状況の確認と、村の人達から情報を集める事が先決だろう。
それにしても見た者の目は腐り、触れた者全てを無差別に呪い殺す呪印箱。そのような恐ろしい物を一体誰が何の目的で盗み出したというのか。
旅の疲れと酔いのせいだろうか、布団に入るとすぐに眠りに落ちてしまった。
夢の中で母が私を呼んでいる。
真剣な眼差しで私に何かを訴えようとしている。
必死に母の手を掴もうとするがどうしても届かない。
母は何かを叫んでいるのだが、何故か音が掻き消されてしまって聞き取ることが出来ない。
そのうち母の姿は霧の中に消えてしまっていた。
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