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ピアノの恋

作者: 小原麻由美
掲載日:2007/03/15

 やわらかな風が通りぬける林の中に、一けんの家がありました。銀色の門をくぐると、つたのからまる、まっ白なかべが見えてきます。玄関までのゆるやかなカーブには、石だたみがしきつめられ、庭の草花は今まさに、つぼみを開こうとしていました。

 一台の古いピアノが、北側のつめたい部屋のかべに、ぴったりと背中をつけて眠っていました。

 ピアノは、窓から入りこむおひさまや風の声で、季節のうつりかわりを知りました。

 赤いレースのかけられた丸いイスが、ピアノのわきにおいてあります。イスはいつだって、ピアノの心の一番そばにいました。

 ピアノがうれしいときは、イスもうれしく思い、ピアノが涙するときは、ピアノの涙をぬぐってあげました。

 今はただ、こうして眠っているだけのピアノにぴったりとよりそい、静かなときを過ごしていました。

 この家には、一人の少年が両親といっしょに住んでいました。

 少年は、おひさまの光をきらいました。風のささやきを、きらいました。ですから、一日のほとんどを、家の中で過ごしていました。


 キーッ……パタン


 ある日少年は、フラリと北側の部屋にあらわれました。そして、ほこりにまみれて、うすよごれたピアノのふたを開けました。

 けんばんにかけられている、カバーをとりのぞき、イスにすわりました。


 ゴクリ……


 少年ののどが、静かに動きます。

 まっ白なけんばんと、まっ黒なけんばん。どちらも引きこまれてしまいそうなほど、つややかな輝きをしていました。見た目の古いピアノとは、大ちがいです。

 少年の青白く細い十本の指が、スラリとけんばんの上におかれ、その指がなめらかに動きだしました。

 けんばんを押す少年の指の力は、まるでかげろうがダンスをしているかのように、はかなげです。

 ピアノは、その気持ちよさに心をふるわせました。この家にやってきてから、こうしてふれてもらったのは、今日が初めてだったのです。

 ピアノはこの瞬間、少年の指に恋をしました。イスは、ピアノがほおをピンク色にそめて微笑んでいる様子を、ただただ見つめていました。

 いつしか少年は、毎日この部屋にやってきて、ピアノにふれるのが好きになりました。

 ピアノは少年の指にあわせて、いっしょうけんめい音をだしました。少年が力強くけんばんをたたけば、力強い音をだし、少年がやさしくけんばんにふれれば、やさしい音をだしました。

 ピアノは少年のためなら、どんな音でもだすことができました。たとえ悪魔に心をうばわれた少年に、針でさされるような音を命じられても、ピアノは痛みを愛情に変えて、音をつくり出すでしょう。それくらいにピアノは、少年の指に恋をしてしまったのです。


 ある朝も、ピアノは早起きをして、少年がやってくるのを待っていました。コツコツと、ろうかを歩く足音に、耳をすませていました。


 キーッ……パタン


 部屋のドアが、開きます。

 少年の息づかいが、どんどん近づいてきて、ピアノのふたが開けられました。

(おはよう!)

 少年の指がけんばんにふれた瞬間、ピアノの一日が始まるのです。

(今日はどんな音で、わたしを幸せにしてくれるの?)

 ピアノは、少年の指のかんしょくで、その日の彼の体調や、気分がよくわかります。今日は、指先に力があるので、ピアノも力強い音をだしたくて、しかたがりません。

 すこしでも、少年と同じ気持ちで、同じ時間を過ごすことが、ピアノにとって最高に幸せなことだったからです。

 そしてその幸せは、いつまでも続くと信じてうたがいませんでした。


 数日がたちました。ピアノはいつものように、少年がやってくるのを、胸ときめかせて待っていました。


 キーッ……パタン


 少年の足音が、一歩一歩近づいてきます。

(おはよう!)

 ピアノは、首をかしげました。青白くやわらかな少年の指は、白さを通りこして、透き通って見えるのです。

(え?)

 ピアノは、少年のほおを伝う涙に気づきました。涙のつぶが、ビーズ玉のようにころがり、けんばんの上にはじけます。ひとつ、ふたつ……いくつもはじけて落ちました。

(つめたい涙……どうしたの?)

 少年は、けんばんをたたきつづけました。それなのに、たたいても、たたいても、指から伝わってくる思いは、弱くなるばかりです。

(本当は、こんな音を、出したいんじゃないでしょ?)

 ピアノは、少年の心を知ろうとすればするほど、迷いやあせりに、おしつぶされそうでした。初めてだったのです。少年が何を思っているのか、何を悩んでいるのか、わからなくなってしまったのは。


 ピアノは悲しくて悲しくて、そばにいるイスに話しかけました。

(こんなにこんなに好きなのに、どうして彼の心がわからないのかしら?)

 イスはだまって、ピアノを見つめます。

(彼のためにできることなら、どんなことでもしてあげたいのに……。私にはわからないの。彼の心が……)

 イスは、ピアノを見上げて言いました。

『そばにいられるだけで、幸せじゃなかったの?』

 ピアノは、ホロリ流れる涙をぬぐうことも忘れて、イスにたずねました。

(初めはそうだったわ。でも、心が通じ合っているとわかったときから、そばにいるだけじゃ、満足できなくなってしまったの……)

 ピアノはそうして、一晩中泣きつづけました。

 イスはそんなピアノに、声をかけるわけでもなく、なぐさめるわけでもなく、ただひたすら見守り続けました。

『ぼくなら……ぼくなら、大好きな人のそばにいられるだけで、見つめていられるだけで、じゅうぶん幸せだよ』

 むせび泣くピアノの声が、静まりかえった部屋にひびきわたり、窓からさしここむ月の光は、悲しいほどつめたく見えました。


 次の日の朝、目をまっ赤にはらしたピアノは、いつものように少年を待っていました。

(今日は、彼の心がわかりますように……)

 ピアノは待っていました。待ち続けました。

 もうずいぶん、長い時間が過ぎました。動くことのできないピアノは、待ち続けるしかありません。

 かたむきかけたオレンジ色の太陽が、部屋の窓からさしこみ、床一面にピアノのかげがひろがっています。

 その日、少年の足音も、ドアを開ける音も、小さな息づかいも、まったく聞こえることはありませんでした。

 あおい月が顔を出しても……。東の空が、あかね色にそまりはじめても……。

 林に生えそろう木々の葉が、黄色や赤に着がえても……。どんよりとした曇り空から、まっ白な粉雪が、舞い下りてきても……。

 少年は、あらわれませんでした。

 ピアノは少年を待ちつづけている間、彼に出会った頃の自分のことを、思い出していました。

(彼のそばにいられれば、それだけで幸せ。待ち続けられることが、それだけで幸せ)


 少年のことしか心にないピアノには、時間の流れも、季節のうつりかわりも、まったく見えていませんでした。風とおしゃべりすることも、なくなりました。

 いつもそばにいて、見守ってくれているイスのことさえも、忘れさろうとしていました。

 カチンコチンの空気の中、ほとんど風の吹かない寒い日でした。

 ハラリ、窓辺のカーテンがゆれました。それに気づいたのは、イスでした。林の向こうからやってきたつむじ風が、街の様子を伝えるためにやってきたのです。

 つむじ風はあるできごとを、こっそりイスに話しました。

『え?』

 イスはそれきり、口を閉ざしてしまいました。ピアノにこのできごとを話すくらいなら、声をなくしてしまおうと決めたのです。

 キラキラと瞳を輝かせて、少年を待ち続けるピアノにとって、ざんこくすぎました。


 あたたかな風が林をつみこみ、いつになくおだやかな朝でした。草木は芽をふくらませ、鳥のたまごからはヒナがかえりました。

 ピアノは、元気がありませんでした。ただひたすらに、少年があらわれるのを信じて待っていました。

 声をうしなったイスは、いつかピアノが本当のことを知ってしまうのではないかと、それだけを恐れていました。

『何があっても、ぼくはきみのそばにいるからね』

 イスの心の声は、だれにも聞かれることなく、時間のすきまにうめられていきました。

 とつぜん、遠くのほうで足音がしました。

(あっ!)

 ピアノは、耳をすませました。


 ギーッ、ギギ……バタン……バタバタ


(ちがう……)

 そう思った瞬間、二、三人の足音が、部屋の中へと入ってきました。

 ピアノは床から、持ち上げられました。そして外へはこばれ、せまい箱の中におしこめられました。そして、そのままどこかへつれられていってしまいました。

 あとに残ったイスは、ピアノにさよならさえも言えず、別れることになりました。


 ピアノがいなくなった今、本当のことを話しましょう。

 少年は、もうこの世にはいません。少年は小さい頃からからだが弱く、もうすぐ十二歳になるというのに、学校へほとんど行ったこともありませんでした。

 あるときお医者さまが、少年のお父さんとお母さんに言いました。

「もっと空気のおいしいところで生活をしたら、早く元気になれるかもしれませんよ」

 そして、少年を別荘で療養させることにしたのです。少年はとてもさびしく、ひとりぼっちでしたが、そんなときピアノに出会ったのです。それと同時に少年のからだも、元気になっていくように思えました。

 でもあの日……自分の身体が弱っていくのを感じながら、つめたい涙をこぼしたあの日、少年の小さな心臓は、止まりました。もう、別荘に帰ってくることも、ピアノにふれることも、できなくなってしまったのです。


 ピアノは、街の小さなアンティークショップにいました。店の中には、お人形やオルゴール、テーブルやイスなど、たくさんのものがかざられており、その中にピアノの姿もありました。

 少年のお父さんもお母さんも、彼が大好きだったピアノを見るたびに、ひどく悲しみました。ですから、そばに残しておくことができなかったのです。

 林の中の別荘からピアノをはこびだし、遠い街のアンティークショップの主人に、ピアノをゆずることにしたのでした。

 ピアノは店のかべにもたれて、目の前の窓から、外の景色をながめていました。

 ピアノは今でも、少年のことを待ち続けているのでしょうか? 店のドアが開く音がするたびに、ドキドキしては悲しくなり、またドキドキしては悲しくなり、そんなことをくりかえす毎日でした。


 ある日の午後のこと、小さな男の子をつれた婦人が店にやってきました。

「いらっしゃいませ」

「ある人からゆずってもらったんですけど、あまり使わないから……」

 婦人はそういって、車のトランクから古いイスをおろしてきました。

 小さな男の子は、お母さんの手からはなれて、ピアノの前にたっていました。キラキラ光る白と黒のけんばんに、すいこまれるように、男の子はひとさし指で、けんばんをたたきました。


 ・・・


 男の子は首をかしげながら、ほかのけんばんもたたいてみました。


 ・・・

 ・・・


「お母さん、このピアノ音がでないよ」

 男の子が、さけびました。

「かってにさわっちゃだめでしょう」

 婦人がそう言うと、

「いやいや、だいじょうぶ。おじさんのおうちにきたときから、音が出なかったんだよ」

「ふーん……。それにこのピアノ、いすがないから、ひきにくいね」

 店の主人は、手をうって婦人に言いました。

「そうだ。このピアノのためにそのイスを買いましょう」

 主人は婦人が持ってきたイスを、ピアノの前におきました。

「やっぱり、ピアノにはイスがないとねぇ」

 主人は、あまりにもピアノといすがピッタリなので、うれしくてたまりませんでした。

 男の子は、イスにすわりました。そして、人さし指で、けんばんをたたきました。

「あっ、音が出る!」

 店の主人が、さけびました。

「ホントだ。ピアノ、直ったのかな?」

 男の子は、ほかのけんばんもたたきました。

「おじちゃん、ぜんぶ出るよ。ピアノ、元気になってよかったね」

「どうしたことだろう? ひとつだって、音がでなかったのに……でも、本当によかった」

 店の主人はそう言って、やさしくピアノをなでました。

 ピアノはずっと待っていたのです。

 いつもそばにいて、見守り続けてくれたあのイスが、また自分のところへもどってきてくれるのを……。


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― 新着の感想 ―
[一言] 私も今、完全にプラトニックですが少年を愛しているので、 ピアノの切ない気持ちが痛いほど分かる気がしました。また、 このピアノにとっての椅子の存在や、新たに現れた少年が 一つの重要なキッカケに…
[一言] ほのぼのとした幻想的な感じがよく出てるなぁ、と思いました。雰囲気作りがうまいと思います。 基本的にバッドエンド好きなのですが、こういうハッピーエンドも心が暖まって良いですね。
[一言] 初めまして。本当ならモノ言わない物ですが、人間のように心を持ち、語る話しが良かったです。  特にイスの気持ちが良いなと感じます。黙する想いですか……ハッピーエンドで良かったです。  一通り…
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