ピアノの恋
やわらかな風が通りぬける林の中に、一けんの家がありました。銀色の門をくぐると、つたのからまる、まっ白なかべが見えてきます。玄関までのゆるやかなカーブには、石だたみがしきつめられ、庭の草花は今まさに、つぼみを開こうとしていました。
一台の古いピアノが、北側のつめたい部屋のかべに、ぴったりと背中をつけて眠っていました。
ピアノは、窓から入りこむおひさまや風の声で、季節のうつりかわりを知りました。
赤いレースのかけられた丸いイスが、ピアノのわきにおいてあります。イスはいつだって、ピアノの心の一番そばにいました。
ピアノがうれしいときは、イスもうれしく思い、ピアノが涙するときは、ピアノの涙をぬぐってあげました。
今はただ、こうして眠っているだけのピアノにぴったりとよりそい、静かなときを過ごしていました。
この家には、一人の少年が両親といっしょに住んでいました。
少年は、おひさまの光をきらいました。風のささやきを、きらいました。ですから、一日のほとんどを、家の中で過ごしていました。
キーッ……パタン
ある日少年は、フラリと北側の部屋にあらわれました。そして、ほこりにまみれて、うすよごれたピアノのふたを開けました。
けんばんにかけられている、カバーをとりのぞき、イスにすわりました。
ゴクリ……
少年ののどが、静かに動きます。
まっ白なけんばんと、まっ黒なけんばん。どちらも引きこまれてしまいそうなほど、つややかな輝きをしていました。見た目の古いピアノとは、大ちがいです。
少年の青白く細い十本の指が、スラリとけんばんの上におかれ、その指がなめらかに動きだしました。
けんばんを押す少年の指の力は、まるでかげろうがダンスをしているかのように、はかなげです。
ピアノは、その気持ちよさに心をふるわせました。この家にやってきてから、こうしてふれてもらったのは、今日が初めてだったのです。
ピアノはこの瞬間、少年の指に恋をしました。イスは、ピアノがほおをピンク色にそめて微笑んでいる様子を、ただただ見つめていました。
いつしか少年は、毎日この部屋にやってきて、ピアノにふれるのが好きになりました。
ピアノは少年の指にあわせて、いっしょうけんめい音をだしました。少年が力強くけんばんをたたけば、力強い音をだし、少年がやさしくけんばんにふれれば、やさしい音をだしました。
ピアノは少年のためなら、どんな音でもだすことができました。たとえ悪魔に心をうばわれた少年に、針でさされるような音を命じられても、ピアノは痛みを愛情に変えて、音をつくり出すでしょう。それくらいにピアノは、少年の指に恋をしてしまったのです。
ある朝も、ピアノは早起きをして、少年がやってくるのを待っていました。コツコツと、ろうかを歩く足音に、耳をすませていました。
キーッ……パタン
部屋のドアが、開きます。
少年の息づかいが、どんどん近づいてきて、ピアノのふたが開けられました。
(おはよう!)
少年の指がけんばんにふれた瞬間、ピアノの一日が始まるのです。
(今日はどんな音で、わたしを幸せにしてくれるの?)
ピアノは、少年の指のかんしょくで、その日の彼の体調や、気分がよくわかります。今日は、指先に力があるので、ピアノも力強い音をだしたくて、しかたがりません。
すこしでも、少年と同じ気持ちで、同じ時間を過ごすことが、ピアノにとって最高に幸せなことだったからです。
そしてその幸せは、いつまでも続くと信じてうたがいませんでした。
数日がたちました。ピアノはいつものように、少年がやってくるのを、胸ときめかせて待っていました。
キーッ……パタン
少年の足音が、一歩一歩近づいてきます。
(おはよう!)
ピアノは、首をかしげました。青白くやわらかな少年の指は、白さを通りこして、透き通って見えるのです。
(え?)
ピアノは、少年のほおを伝う涙に気づきました。涙のつぶが、ビーズ玉のようにころがり、けんばんの上にはじけます。ひとつ、ふたつ……いくつもはじけて落ちました。
(つめたい涙……どうしたの?)
少年は、けんばんをたたきつづけました。それなのに、たたいても、たたいても、指から伝わってくる思いは、弱くなるばかりです。
(本当は、こんな音を、出したいんじゃないでしょ?)
ピアノは、少年の心を知ろうとすればするほど、迷いやあせりに、おしつぶされそうでした。初めてだったのです。少年が何を思っているのか、何を悩んでいるのか、わからなくなってしまったのは。
ピアノは悲しくて悲しくて、そばにいるイスに話しかけました。
(こんなにこんなに好きなのに、どうして彼の心がわからないのかしら?)
イスはだまって、ピアノを見つめます。
(彼のためにできることなら、どんなことでもしてあげたいのに……。私にはわからないの。彼の心が……)
イスは、ピアノを見上げて言いました。
『そばにいられるだけで、幸せじゃなかったの?』
ピアノは、ホロリ流れる涙をぬぐうことも忘れて、イスにたずねました。
(初めはそうだったわ。でも、心が通じ合っているとわかったときから、そばにいるだけじゃ、満足できなくなってしまったの……)
ピアノはそうして、一晩中泣きつづけました。
イスはそんなピアノに、声をかけるわけでもなく、なぐさめるわけでもなく、ただひたすら見守り続けました。
『ぼくなら……ぼくなら、大好きな人のそばにいられるだけで、見つめていられるだけで、じゅうぶん幸せだよ』
むせび泣くピアノの声が、静まりかえった部屋にひびきわたり、窓からさしここむ月の光は、悲しいほどつめたく見えました。
次の日の朝、目をまっ赤にはらしたピアノは、いつものように少年を待っていました。
(今日は、彼の心がわかりますように……)
ピアノは待っていました。待ち続けました。
もうずいぶん、長い時間が過ぎました。動くことのできないピアノは、待ち続けるしかありません。
かたむきかけたオレンジ色の太陽が、部屋の窓からさしこみ、床一面にピアノのかげがひろがっています。
その日、少年の足音も、ドアを開ける音も、小さな息づかいも、まったく聞こえることはありませんでした。
あおい月が顔を出しても……。東の空が、あかね色にそまりはじめても……。
林に生えそろう木々の葉が、黄色や赤に着がえても……。どんよりとした曇り空から、まっ白な粉雪が、舞い下りてきても……。
少年は、あらわれませんでした。
ピアノは少年を待ちつづけている間、彼に出会った頃の自分のことを、思い出していました。
(彼のそばにいられれば、それだけで幸せ。待ち続けられることが、それだけで幸せ)
少年のことしか心にないピアノには、時間の流れも、季節のうつりかわりも、まったく見えていませんでした。風とおしゃべりすることも、なくなりました。
いつもそばにいて、見守ってくれているイスのことさえも、忘れさろうとしていました。
カチンコチンの空気の中、ほとんど風の吹かない寒い日でした。
ハラリ、窓辺のカーテンがゆれました。それに気づいたのは、イスでした。林の向こうからやってきたつむじ風が、街の様子を伝えるためにやってきたのです。
つむじ風はあるできごとを、こっそりイスに話しました。
『え?』
イスはそれきり、口を閉ざしてしまいました。ピアノにこのできごとを話すくらいなら、声をなくしてしまおうと決めたのです。
キラキラと瞳を輝かせて、少年を待ち続けるピアノにとって、ざんこくすぎました。
あたたかな風が林をつみこみ、いつになくおだやかな朝でした。草木は芽をふくらませ、鳥のたまごからはヒナがかえりました。
ピアノは、元気がありませんでした。ただひたすらに、少年があらわれるのを信じて待っていました。
声をうしなったイスは、いつかピアノが本当のことを知ってしまうのではないかと、それだけを恐れていました。
『何があっても、ぼくはきみのそばにいるからね』
イスの心の声は、だれにも聞かれることなく、時間のすきまにうめられていきました。
とつぜん、遠くのほうで足音がしました。
(あっ!)
ピアノは、耳をすませました。
ギーッ、ギギ……バタン……バタバタ
(ちがう……)
そう思った瞬間、二、三人の足音が、部屋の中へと入ってきました。
ピアノは床から、持ち上げられました。そして外へはこばれ、せまい箱の中におしこめられました。そして、そのままどこかへつれられていってしまいました。
あとに残ったイスは、ピアノにさよならさえも言えず、別れることになりました。
ピアノがいなくなった今、本当のことを話しましょう。
少年は、もうこの世にはいません。少年は小さい頃からからだが弱く、もうすぐ十二歳になるというのに、学校へほとんど行ったこともありませんでした。
あるときお医者さまが、少年のお父さんとお母さんに言いました。
「もっと空気のおいしいところで生活をしたら、早く元気になれるかもしれませんよ」
そして、少年を別荘で療養させることにしたのです。少年はとてもさびしく、ひとりぼっちでしたが、そんなときピアノに出会ったのです。それと同時に少年のからだも、元気になっていくように思えました。
でもあの日……自分の身体が弱っていくのを感じながら、つめたい涙をこぼしたあの日、少年の小さな心臓は、止まりました。もう、別荘に帰ってくることも、ピアノにふれることも、できなくなってしまったのです。
ピアノは、街の小さなアンティークショップにいました。店の中には、お人形やオルゴール、テーブルやイスなど、たくさんのものがかざられており、その中にピアノの姿もありました。
少年のお父さんもお母さんも、彼が大好きだったピアノを見るたびに、ひどく悲しみました。ですから、そばに残しておくことができなかったのです。
林の中の別荘からピアノをはこびだし、遠い街のアンティークショップの主人に、ピアノをゆずることにしたのでした。
ピアノは店のかべにもたれて、目の前の窓から、外の景色をながめていました。
ピアノは今でも、少年のことを待ち続けているのでしょうか? 店のドアが開く音がするたびに、ドキドキしては悲しくなり、またドキドキしては悲しくなり、そんなことをくりかえす毎日でした。
ある日の午後のこと、小さな男の子をつれた婦人が店にやってきました。
「いらっしゃいませ」
「ある人からゆずってもらったんですけど、あまり使わないから……」
婦人はそういって、車のトランクから古いイスをおろしてきました。
小さな男の子は、お母さんの手からはなれて、ピアノの前にたっていました。キラキラ光る白と黒のけんばんに、すいこまれるように、男の子はひとさし指で、けんばんをたたきました。
・・・
男の子は首をかしげながら、ほかのけんばんもたたいてみました。
・・・
・・・
「お母さん、このピアノ音がでないよ」
男の子が、さけびました。
「かってにさわっちゃだめでしょう」
婦人がそう言うと、
「いやいや、だいじょうぶ。おじさんのおうちにきたときから、音が出なかったんだよ」
「ふーん……。それにこのピアノ、いすがないから、ひきにくいね」
店の主人は、手をうって婦人に言いました。
「そうだ。このピアノのためにそのイスを買いましょう」
主人は婦人が持ってきたイスを、ピアノの前におきました。
「やっぱり、ピアノにはイスがないとねぇ」
主人は、あまりにもピアノといすがピッタリなので、うれしくてたまりませんでした。
男の子は、イスにすわりました。そして、人さし指で、けんばんをたたきました。
「あっ、音が出る!」
店の主人が、さけびました。
「ホントだ。ピアノ、直ったのかな?」
男の子は、ほかのけんばんもたたきました。
「おじちゃん、ぜんぶ出るよ。ピアノ、元気になってよかったね」
「どうしたことだろう? ひとつだって、音がでなかったのに……でも、本当によかった」
店の主人はそう言って、やさしくピアノをなでました。
ピアノはずっと待っていたのです。
いつもそばにいて、見守り続けてくれたあのイスが、また自分のところへもどってきてくれるのを……。




