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第6話 原本の間

前回:「第5話 白紙の主張書」

大書庫の最深部への道は、時代を遡る道だった。


 降りる前に、言祝は言った。「原本の間へ人間をお通しするのは、記録にある限り、初めてです。長老会は、三日、議論しました。決め手は――探し番の報告と、あなた方の二枚の若木でした」。前例のない入室許可は、前例のない実績で買う。どの世界の稟議も、仕組みは同じである。


 降りるほどに、書架の誓約は古くなる。百年前の講和。五百年前の婚礼の誓い。千年前の、今はもうない国の憲章。国が滅んでも、誓いの写しは残るのだ。棚の一つ一つが、どこかの誰かの本気の墓標であり、記念碑だった。途中、見覚えのある棚があった。真新しい一角に、二枚の写しが、淡い光を纏って並んでいる。――『和平宣誓書(オルサ大陸)』と、『アステル暫定講和条約(仮)』。


「うちの仕事が、収蔵されてる……」


「隣、見て」レーヴェが指した。二枚の隣に、少し小さい写しが、ひっそりと、しかし同じ温かさで光っていた。『告解秘匿特約』。あの、店の床で結んだ小さな契約まで、ここに来ていた。契約の大小は、書庫の棚では、光の強さと関係がないらしい。守られているか、どうか。それだけだ。


「光っているのは、生きている証です」案内の法務精霊が言った。「守られ続けている契約は、写しまで、こうして温かい。……あなた方の二枚は、書庫でも評判の、良い光です」


 自分の書いた書類が棚で光っているのを見る気分は、うまく言葉にならなかった。悪くない、とだけ言っておく。レーヴェが小声で「よかったね」と言い、俺は「まあな」と答えた。それで、全部だった。


 途中には、暗い一角もあった。棚ごと、光の失せた区画。「破られた誓いの、写し置き場です」と、案内の声が低くなった。「捨てはしません。破られた誓いも、一度は本気だった記録ですので」。暗い棚の前を、ベッシは襞を縮めて通った。エルシーだけが、一度、足を止め、暗い棚に向かって、小さく祈りの形をした。破られた約束の墓地にも、弔いはあっていい。聖女の職分は、ここでも変わらなかった。


 螺旋の階段を、さらに降りる。文字が古語になり、古語が原初の記号になり、やがて棚が尽きて、最後の扉が現れた。扉には錠がない。代わりに、一行だけ、刻まれていた。


『ここより先、声を低く。――眠っておられるわけではないが、万年、お疲れゆえ』


 誰が、とは書かれていなかった。書いた者の、書かれなかった誰かへの気遣いだけが、刻み跡の丁寧さに、残っていた。この扉の一行を彫った精霊は、たぶん、泣きながら彫ったのだと思う。理由は、まだ、分からなかったが。


 扉の向こうは、円形の、静かな間だった。天井は高く、光源はないのに薄明るい。空気が、他のどの階とも違った。静かなのに、満ちている。誰かがずっと、息を潜めて働き続けている部屋の、あの気配だった。そして部屋の中央、石の台座の上に、それは、在った。


 一枚の、紙。


 黄ばんでも、綻びてもいない。だが、ひと目で分かった。これは、俺の知っているどの紙とも、違う。繊維の一本一本が、微かに脈打っている。


 部屋の空気は、書庫のどの階とも違って、乾いても湿ってもいなかった。時間の流れ方が、多分、違うのだ。ここの一日は、外の一日と、同じ長さをしていない。万年、この部屋は、そういう場所であり続けてきた。


「――世界で最初の、紙です」言祝の声が、後ろから、静かに言った。「紙も、墨も、『書く』という営みそのものも、この契約のために、発明されました。これが、原初にして根源。……『最初の契約』の、原本です」


 仲間たちは、部屋の入り口で、動けずにいた。レーヴェは剣士の直感で「入っていい間合い」を測りかね、ミラベルは魔力を「視た」瞬間に小さく呻いて視るのをやめた(「深すぎる。井戸だと思って覗いたら、海だった」)。進んだのは、俺だけだった。恐れがなかったのではない。ただ、台座の上のあれが「書類」である以上、読むのが俺の職分だった。職分は、恐れより、足を前に出す。


 俺は、台座に歩み寄り、一礼して、文面に目を落とした。


 万年前の様式だった。なのに、読める。読めてしまう。条文の骨格、対価の置き方、余白の呼吸――時代がどれだけ違っても、誠実な書面の背骨は、同じ形をしているのだ。俺は職業人として、震えた。この起草者は、本物だ。万年前に、独りで、世界を二つ繋ぐ書面を書き切った、本物の事務屋だ。読み進めるほど、俺の中の同業の血が、騒いだ。第三条の例外処理の畳み方は、俺が独学で辿り着いた形と、同じだった。万年前の先達と、答え合わせをしている気分だった。


 文面の大意は、こうだった。人の言葉に、誓いの力を貸す。対価として、人は――と、そこから先、対価の条項へ、目が進んだ。


 そして、第一行。


 契約の対価が記されているはずの、その行の名前の部分だけが――読めなかった。文字がない、のではない。文字は、ある。ただ、その一角の墨だけが、生きて、蠢いていた。黒い小さな渦のように、形を結ぼうとしては、ほどけ、結ぼうとしては、ほどけて。


「……封じられた、名前」


 対価の行は、こう読めた。『人の言葉に、誓いの力を貸す。その対価として、人は、(読めない渦)を、差し出す』。何を差し出したのか。誰の、何を。万年前の取引の一番の急所が、うねる墨の下に、隠されていた。


 その時、視界の隅で、灰色が、動いた。


 台座の傍ら。会談の間の柱の陰にいた、あの人影が――ここに、立っていた。最初から。部屋に入った時から、いや、おそらくは、この部屋ができた時から、ずっと。灰色の、輪郭の薄い、人の形。目を凝らすと薄れ、視線を外すと気配だけが濃くなる、不確かな存在。


 言祝が、初めて、その影に向かって、深く、深く、頭を垂れた。


「……ご紹介、いたします。この方が――『最初の契約』の、起草者にして、立会人。万年、この原本の傍らに立ち、契約の効力を、その御身で保証し続けてこられた方です」


 万年。


 契約の効力を、その身で保証する。つまり、あの原本が生きている限り、この人は、ここを離れられない。万年、この薄明かりの部屋で、一枚の紙の隣に、立ち続けて。ゴードンの三百年が、頭をよぎった。あれの、三十倍を超える年月。


 その言葉の重さを、頭が理解するより早く、影が、ゆっくりと、こちらを向いた。


 顔は、よく見えない。輪郭が、薄すぎて。ただ、視線だけが、確かに、俺を――俺の抱えた書類鞄を、俺のインクの染みた指先を、まっすぐに、見た。万年ぶりの、同業者を見る目で。


 その瞬間だった。


 ぴし、と。


 乾いた、小さな音が、静かな間に響いた。エルシーが、胸元を、押さえていた。彼女の聖印に――三百年の魔王の前でも、三十年の灯台守の前でも、軋むだけだったあの聖印に――


 細い、細い、ひびが、一筋、走っていた。


 エルシーは、ひびを指でなぞり、それから、灰色の影を、まっすぐに見た。千の心の底を見てきた聖女の顔から、営業用の微笑が、完全に、消えていた。


「……この方の中の、何か、が」声が、掠れていた。「大きすぎて。古すぎて。私の聖印では――受け止めきれません。器が、割れます」


 三百年の魔王でも、軋むだけだった。三十年の灯台守でも、軋むだけだった。万年の何かは、視ようとしただけで、聖印にひびを入れた。灰色の影は、それを咎めるでも、隠れるでもなく、ただ、静かに、俺たちを見ていた。万年、そうしてきた立ち方で。


(第1章・了 →第2章「大書庫と、最初の契約」へ続く)

次回「第7話 様式考古学」は、10月24日(土)18時30分更新です。

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