第32話 共同救助
前回:「第31話 調印前夜の空白」
港は、蜂の巣をつついたようになっていた。
湾口に、背びれの列。一頭ではない。十頭を超える中型の海獣の群れが、大潮の高い水位に乗って、普段は越えられない浅瀬の上を、湾の内側へなだれ込んできていた。三十年前の地震以来、通り道の変わった海獣たち――その新しい通り道が、大潮の日にだけ、湾と交差する。そして湾内には、儀を一目見ようと集まった見物の小船が、何十隻も浮かんでいた。悲鳴と半鐘と、繋留索の軋みが、朝の港でひとつに混ざった。
「救難団、出るぞォ!!」
真っ先に船を出したのは、ジグだった。ロダン戦団あらため救難団(未公認)が、鉤縄と網を担いで漕ぎ出していく。号令は三つ数える間に飛び、部下は四つ数える間に船上にいた。ドレン村と、ポルトネラの乱闘と、そして毎日の「試運転」。この数十日の積み重ねが、そのまま初動の速さになっていた。看板より先に、腕が救難団になっている。桟橋では、ポポが荷運びで鍛えた腕で、救命の樽と綱を、次から次へと船に投げ込んでいた。だが、船が足りない。人手が、圧倒的に足りない。
その時、港の両端で、同時に声が上がった。
「儀仗隊、艇を降ろせ! 鎖と滑車を持てるだけ持て!」――鉄のギレンが。
「水軍、総員抜錨! 小船を風上から拾い上げよ!」――青のミレイユが。
命令に、示し合わせは何もなかった。ただ、目の前で人が沈みかけていて、両方の軍が、動けた。それだけのことだった。それだけのことが、三十年、起きなかったのだ。
指揮の混線を捌いたのは、俺だった。二つの軍と一つの救難団、指揮系統が三本。放っておけば衝突する。俺は港の高台に陣取り、旗と大声で、役割を三分割した。曳航はヴァルム、収容はリズレア、獣との間合いは救難団。誰の下にも誰も付けない、横並びの分担。三十年ぶりの共同作戦の指揮官が、他所の大陸の事務屋というのも妙な話だが、中立の指揮は中立の者にしか執れない。第二十一条の理屈と、同じである。
湾の上は、混成の戦場になった。リズレアの水兵が操船し、ヴァルムの兵が鉄の鎖で海獣の突進を逸らし、救難団が人を拾う。三十年、互いに向けるために磨いてきた技量が、初めて同じ向きに使われて、そして、恐ろしく噛み合った。鉄の膂力と、潮の操船。この二つの国は、敵に回すと厄介で、組ませると――多分、大陸最強なのだった。座礁しかけた大型の見物船を岸へ曳く段になって、太い曳き綱に、鉄の儀仗兵と青の水兵が、交互に並んで取り付いた。
――同じロープを、引いていた。
岸の群衆が、それを見ていた。東に分かれた民も、西に分かれた民も、自分の国の兵が、敵国の兵と背中を合わせて綱を引く姿を、息を呑んで見ていた。掛け声は、最初、揃わなかった。北の「せーの」と南の「よいさ」がぶつかり、綱が泳ぎ、誰かが怒鳴り――三度目から、どちらでもない、ただの唸り声で揃った。船は、動いた。岸に、届いた。
救助は昼過ぎまで続いた。数えたら、拾い上げた人間は百と七人。沈んだ船はゼロ、死者もゼロ。三十年前のあの夜に、この態勢があったなら――と、考えかけて、やめた。過去に「たられば」の書式はない。あるのは、今日の記録と、明日の備えだけだ。
俺は救難団の指揮船の上で、実況と采配に喉を嗄らしていた。レーヴェは船から船へ跳び移りながら、殺さずの剣で獣と人の間に立ち続け、エルシーは救助された者を片端から治療した(この非常時、懺悔は「後日払い」の手形制にした。手形を切ったのは俺だ。後日、この手形の償還窓口が大行列になるのだが、それはまた別の話である)。
そしてミラベルは、船首で、二度目の海上詠唱に入っていた。
「短縮版、九分五十一秒! 今回は水柱じゃない――『道』を描く!」
「十頭もいるんだぞ、一頭ずつお引越しさせてたら日が暮れる!」
「だから道だ! 群れは、先頭が動けば付いてくる! 海獣の習性は船で予習済み! いいから時間、稼いで!」
注文の多い最終兵器である。だが、注文の中身は毎回、正しい。
問題は、その途中で起きた。見物船の一隻に、精霊魔導院の白い法服が乗っていたのだ。神童フィン。彼は落ち着き払って指を鳴らし、精霊に大規模な波の制御を求め――
何も、起きなかった。
「……え? おい、なんで。応えろよ。いつも通り、力を貸せって――」
精霊は、応えなかった。後でベッシに聞いたところでは、こういうことらしい。開戦前夜の殺気立った人の海の上で、生き物の群れを相手に振るう「戦争規模の力」を、精霊は貸さない。借り物の力は、貸し手の判断で、止まる。生まれて初めて精霊に断られた神童は、揺れる船の上で、生まれて初めての無力の顔をしていた。
力を失った神童の船を、海獣の起こした横波が呑んだ。フィンの体が宙に投げ出され、海面へ――落ちる寸前、白い奔流が彼を横から掬い上げた。ミラベルの詠唱から「逃がされた」魔力の一筋が、少年を毛布のように包んで、指揮船の甲板へ、そっと下ろしたのだ。
「――自前の魔法はね」
詠唱の合間の、息継ぎの一瞬で、真紅の魔女は言った。
「誰の機嫌でも、止まらないんだよ」
九分五十一秒。完唱。放たれた全力は千々にほどけ、湾の中に、光る水流の「道」を描いた。海獣たちは、抗いがたい流れに乗って、一頭また一頭と、外洋への道を滑っていった。怪我は、人にも獣にも、一つもなかった。甲板にへたり込んだフィンは、詠唱を終えた魔女の背中を、ずっと、見ていた。嘲笑した九分五十一秒に、命を救われた顔で。
救助が終わった浜で、レーヴェとジグが、どちらからともなく、拳を突き合わせた。こつん。言葉は、なかった。要らなかった。
そして浜のもう一方では、指揮を終えた二人の王族が、初めて、言葉を交わしていた。ずぶ濡れの儀仗と水軍の間で、ギレンが先に頭を下げた。「――水軍の操船に、助けられた」。ミレイユが返した。「儀仗の鎖捌きに、こちらこそ」。それだけだった。外交でも謝罪でもない、現場の挨拶。だが、三十年間で最初の一往復が「憎悪」ではなく「礼」だったことを、岸の二十万人が、見ていた。
*
儀の開始が夕刻に延期され、束の間の休息の間に、西行きの船便と入れ違いの東行き便が、手紙を一通、届けてきた。宛名は、エルシー。差出人の名を見て、彼女は、桟橋の端まで歩いて行って、封を切った。
俺たちは見ないふりをしていたが、ミラベルだけは堂々と隣から覗き込んでいた。本文は、生徒たちの近況が丁寧に綴られているだけだったという。宿題を忘れる子の話、歴史の試験の珍回答の話。ただ、最後の一行だけ。
『あなたの手紙が届く日は、三百年で一番、時間が経つのが遅い。』
三百年、時間の長さに誰より詳しい人の、最上級の一行だった。
「――ねえ、今の、声に出して読んでいい!?」
「読んだら、燃やします」
「手紙を!?」
「あなたをです」
聖女の耳が、夕陽より赤かった。
そして、夕刻。儀の開始を告げる鐘が鳴り、広場に両国の民が満ちて――そのざわめきが、ふいに、波が引くように静まった。
広場の入り口に、一人の女性が、立っていた。
潮灼けした肌。白いものの混じる髪。その髪に、白い貝を波の形に彫った櫛を、一つだけ挿して。
次回「第33話 私は、生きています」は、10月4日(日)18時30分更新です。




