道返
曳車に載せられ運ばれていた。按配すこぶる悪く、起きるのもままならない。今がいつか、ここがどこかさえも判然としない。ただ私が此処に在ること、私が幸福であることだけは知覚できていた。私はただ横になり、目を閉じて、軋む車の音に耳を傾けていた。
その音にすすり泣きの混じっているのに気がついた。私はそっと目を開く。暗い雲が天を覆い、ただ闇が存在していた。
「なぜ泣いてるんだ?」
問いかけに返ってきたのは息を呑む声、そして車の急停止だった。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
絞り出すようなか細い声。その声に愛しさを覚えた。
「いや、謝るのは私の方だ。私が罹病したばかりに、動くのもままならない。さぞかし重かったろう」
「いえ! いいえ……、この重さは、私の罪科の重さです。ですからどうか、償わせてください」
そう言って其人は再び車を曳き始める。私にはそれを質す勇気もなく、再び瞼を閉じた。車の軋む音だけが響いていた。
* * *
頬に冷たいものがあたった。目を開けると、真っ暗な中から雫が注いでいた。身体は幾分か楽になった。これが慈雨ともいうべきものか。
「お加減は如何ですか?」
先程の声が問いかける。
「ああ、少し楽になった」
答える声色が穏やかなのが分かった。
「よかったです。もうすぐ着きますからね」
しかしその声には、喜びよりも寂しさが滲んでいた。
「着いたら……」
別れてしまうのかと、問いかけて、止めた。
「きっと良くなりますから」
返ってきた声は、涙声だった。
車は動く。闇の中を、彼女に曳かれ、私を載せて。
* * *
次に意識が戻った時、感じたのは風だった。車はそっと止まる。身体は大分良い。ただ代わりに、風が胸を吹き抜けるような虚しさが巣食っていた。
「ここは……」
「在るべき場所、その入り口です」
身体を起こす。それは身の丈を越す岩の前のようだった。
「お別れなのか?」
「貴方が望む限り、私は貴方と供に在ります。ですからどうか、まだこちらにはいらっしゃらないで」
「嫌だ。離れたくない。私は貴女を知っている! 大切な女! ただ思い出せないだけなんだ! 見せてくれ! 顔を見せてくれ!」
「今の私には、貴方に合わせる顔がありません。でも彼処には、私の影が遺されています」
風が彼女の長い髪をたなびかせていた。その風に散らされるように、彼女の輪郭が曖昧になる。
「さようなら、どうかお元気で。こんな私ですが、貴方を、今でも、愛してます」
応えなければ――そう思うがしかし、風が口を塞いだ。彼女は風と散った。そして私の意識もまた、風に飛ばされた。
* * *
爪先に床を感じた。踵を下ろそうとすると、縄が首に当たる。私は反射的に飛び退いた。弾みで尻餅をつくが、突いた手に何かが触れた。取り上げると、文の縛られたピンクのマーガレットだった。私は慌てて文を開く。
最愛の人へ
このような手紙をお送りすることお許しください。
二人で幸せになろうという約束は果たせませんでした。でも、不幸を貴方に押し付けるつもりはありません。幸せに生きてください。それが私の幸せです。心から、愛しています。
手紙が雫に濡れた。穏やかな雪解けの季節のことだった。




