9.ベーセの森
アーゼの街を出てから数日。ベーセの村も通り過ぎて、王都へ続く道をまた歩いていた。
道はゆるい下り坂。わたしは滑走靴を起動して、車輪に体を預ける。足は勝手に前へ進むのに、上半身はわりと余裕がある。こういうとき、しゃべりたくなる。
「ねえ、サイラス」
少し前を歩く背中に声を投げる。
「何だ」
振り返りもしない。声だけ、いつもどおり冷たい。
「あなた、いくつ?」
「十八だ」
さらっと言った。
レオが一拍遅れて反応する。
「……え。俺たちより年上じゃん」
「それが何だ?」
サイラスの長い黒髪が、歩くたびに揺れる。表情は相変わらず動かない。
「いや、敬語とか使ったほうがいいのかなって思っただけ」
「必要ない」
きっぱり。
レオが「だよな」と言いたげに肩をすくめた。わたしは笑いそうになるのをこらえる。
「まあ、仲間だし。ふつうにいこう」
「……そうか」
ほんの少しだけ、顔がやわらかくなった気がした。整いすぎている顔って、表情がわかりにくい。
少し歩いたところで、サイラスがふいにこちらを向いた。
「イリス」
「ん?」
「お前は、なぜ眼帯をしてる」
来た。
レオが、口の端だけ上げた。いま笑ったのバレバレだよ。
「稀色か?」とサイラス。
「稀なんてもんじゃないぜ」とレオ。
わたしは立ち止まって、サイラスの目を見る。
「……見る?」
サイラスが一瞬だけ言葉を止めた。
「見せてくれるのか」
「仲間だしね」
眼帯の留め具に指をかけて、外す。冷たい空気が左目に触れる。
サイラスの目が、はっきり見開かれた。
「……虹色」
驚愕、ってこういう顔なんだ。
青紫の左目が、わたしの左目に吸い寄せられている。
「虹色の瞳……伝承でしか聞いたことがない」
「伝承?」
サイラスは少し考える間を置いてから、淡々と続けた。
「虹色は、安定しない色だ」
「安定しない?」
「単色として固定できない。見る角度、時間、感情で、強く出る色が変わる。記録も再現も難しい。保存もできない」
なるほど。だから“見たことがない”じゃなくて、“残らない”。
「天使が探してるって話もあるぜ。祈祷師が言ってた」とレオ。
「言ってた言ってた。天使って、なんだろうね」
「創世神話に出てくる、“神の声”から生まれた存在だ」
サイラスは、道の先を見たまま言う。
「虹色の瞳を持つ者は、天使に導かれる――そういう言い伝えがある」
天使、ね。
前世で知ってる天使とは、たぶん別物だ。
この世界の天使は、もっと現実に近い匂いがする。信仰とか、神殿とか、噂とか。
サイラスが言った。
「眼帯はつけておけ」
「え?」
「目立ちすぎる。余計な注目を集める」
「まあ……それはそう」
わたしは眼帯を戻した。留めると、いつもの視界になる。少し安心する。
でも、眼帯に指を滑らせてしまう。これ、ほんとに丁寧に作ってある。
「でもさ、この眼帯、かわいくない? 気に入ってるの」
レオの口元がゆるむ。
「イリスらしいな」
「レオの家族からの贈り物だしね」
わたしたちはまた歩き出す。道はさらに下っていく。車輪がいい感じに加速する。
少しして、レオが声を落とした。
「なあ、サイラス」
「何だ」
「お前、どうして一人で旅してたんだ?」
サイラスの空気が、ほんのわずかに固くなるのがわかった。歩幅は変えないのに、背中だけが遠くなるみたいな。
「……理由がある」
「聞いてもいい?」
沈黙が挟まる。
わたしは足の回転だけに意識を置いて、待つ。車輪が小さく鳴る。
「昔、仲間がいた」
サイラスが言った。
「仲間?」
「ああ。魔導士の集団だ。魔術の研究施設で、俺はそこで学んでいた」
レオもわたしも、口を挟まずに聞いた。
「信頼していた。だが……裏切られた」
声が少しだけ低くなる。
「俺の研究を盗まれた。成果を横取りされた。……それで、追い出された」
レオが顔をしかめる。
「ひでえな」
「それ以来、俺は一人で――」
そこで、道の勾配が急にきつくなった。
「うわっ」
車輪が勝手に速度を上げる。足が追いつかない。
体が前へ持っていかれる。
「イリス!」
レオの手が伸びたけど、もう遅い。わたしはそのまま坂を滑り落ちる。
まずい。止まれない。
反射で、飛んだ。左目の奥がじんとする。
体がふわっと軽くなる。地面が遠ざかる。
「おおっ……!」
空中で体勢を探る。
高い。最初に魔鳥を追いかけたとき以来の高さだ。
胸の奥がきゅっと縮む。息が詰まりかけて、歯を食いしばる。
でも次の瞬間、視界の先に道が伸びていて、身体がそれに合わせて前へ向いた。
大丈夫。飛べてる。
滑走靴が、わたしを運んでる。
空気が髪を撫でていく。気持ちいい。
思わず、口の端が上がった。
「イリスー!」
レオの声が遠い。
「大丈夫ー!」
手を振り返してしまう。
その勢いのまま、もっと速度をつける。
速い。どんどん加速する。
最高――
と思った瞬間、バランスが崩れた。
「うわああああっ!」
体が傾く。制御できない。
視界が斜めになる。道の脇の森が、どんどん近い。
まずい、まずい、まずい。
次の瞬間、枝が顔を叩いた。頬が熱い。
そのまま地面に叩きつけられて、息が抜けた。
「……いたい……」
起き上がる。体中が痛い。
でも、骨は折れてない。たぶん。たぶん。
「レオ! サイラス!」
叫んでも返事はない。森の中に吸われていくだけだ。
滑走靴を見る。まだ動く。けど、どっちへ飛べば道に戻れるのか、見当がつかない。
とりあえず歩く。
森を抜ければ、どこかで合流できるはず。そう思って進み始めた。
少し行ったところで、茂みが揺れた。
白い影が飛び出してくる。
「うさ――」
言いかけて止まる。
耳は長い。でも、目が三つ。縦に並んでる。
魔獣だ。
「やばっ」
跳びかかってきた。
わたしは横に転がり、すぐ滑走靴を起動させて飛び上がる。
また跳んでくる。
空中で体をひねってかわす。距離が近い。森の中だと逃げ道が少ない。
低く飛ぶ。地面すれすれで回り込んで、背後に出る。
「――えいっ!」
剣を振るうより先に、足が出た。
蹴りが入る。勢いのまま、うさぎ魔獣が木に激突して、ずるりと落ちた。
「よし」
動かない。
息が上がる。肩が痛い。顔もヒリヒリする。
でも、いまは立ってる。
わたしはもう一度、森の奥へ進んだ。
……深くない?
どんどん奥へ入ってる気がする。
そう思ったとき、急に視界が開けた。
森の奥に、小さな空間がぽっかり空いている。
真ん中に小さな湖。湖のまわりを、淡い揺らぎみたいなものが囲っていた。布みたいに見えるのに、揺れて、ほどけて、また戻る。
「なに、これ……」
近づいて、そっと手を伸ばす。
指先がすっと通り抜けた。あたたかい。
迷うより先に、足が一歩入った。
空気が変わる。
森のざわめきが、遠のく。湖面だけが静かに揺れている。
そして――湖のほとりに、誰かがいた。
男性。二十歳くらいだろうか。
金色とも白金ともつかない髪が、さらりと揺れる。色がひとつに決まらない。見ていると、目が離れなくなる。
息を忘れた。
彼も、何も言わずにわたしを見ている。
その目の色も、髪と同じように揺らいでいた。琥珀から白金へ。両目とも、同じ色。
サイラスの整った美しさとも違う。
うまく言えない。……ただ、胸がどくん、と鳴った。
言葉が出ない。
次の瞬間。
その目から、涙が一粒、落ちた。




