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53.サンサーラ

【イリス視点】


 神殿は、静かになった。


 法王たちがいなくなっても、柱も床も同じ場所にある。けれど空気だけが違う。耳が、余計な音を探さなくて済む。


 天使は、わたしの手を取ったまま言った。


「ここで暮らす」


 それだけだった。


 問いは残った。けれど、問いの形にすると崩れそうで、わたしは頷いた。


 翌朝から、内殻の天井の明るさは一定になった。前より明るい。

 減っていたことに、あまり気づいてはいなかったのだけど。

 魔獣は、寄りにくくなったらしい。兵の報せが減る。巡回が短くなる。


 忙しくなくなると、人は別のことで困る。


 最初に困ったのは、サイラスだった。


「……手が余る」


 そう言って、薬箱を運んできた。神殿の一角に、寝台と布と水差しを揃える。誰に命じられたわけでもないのに、手が勝手に動くらしい。


「ここにいたほうが早い。いざという時に」


 その言い方は、いつも通りだった。青紫の左目は静かで、右目が黒く輝くのを見ることはほぼなかった。


 グレイは、変わらない。


 王が来た日も、グレイはわたしの隣に立たなかった。半歩、後ろ。

 剣の角度だけが、微妙に変わる。誰かが余計な一歩を踏み出そうとした瞬間、何も起きないうちに止まる。


 王は天使を見て、言葉を選んだ。団長も同じだった。

 天使は、選ばれた言葉を受け取って、必要な返事だけを返した。


 あれこれ決め事が増えた。

 見張りの配置。出入りの制限。神殿を覗きに来る者への対応。


 わたしは、半分聞いて、半分聞かなかった。

 天使がいる。わたしがいる。それ以外は、少し遠い。


 レオは、時々神殿へ顔を出した。

 最初はうるさかったのに、だんだん黙る時間が増えた。話す内容も変わる。


「今度さ、リディアの家に……」


 それだけ言って、言葉を切る。照れているのか、迷っているのか、わたしには区別がつかなかった。

 指に小さな輪が増えているのだけは、見えた。


 わたしは、笑ってしまった。

 からかいじゃない。単純に、よかったと思った。


 天使は、そんなレオにも、グレイにも、サイラスにも、同じ距離でいた。

 近づきすぎない。拒まない。境目のない声で挨拶をして、用が終われば戻る。


 そして、わたしには――


「イリス」


 そう呼ぶ。


 毎日、何度でも。


 彼の名を思い出せないまま、そして教えてもらえないまま、時が過ぎていく。

 教えて、と言う前に喉が固まる。そういう類の名だとわかってしまう。


 

 ときどき二人で内殻を飛んだ。

 外殻を飛ぶときもある。

 天井の具合や魔獣の動きを確かめる、という名目で——

 二人で飛ぶことは、とても楽しい時間だった。

 

 思い出せないままでも、日々は積もる。


 食事の匂い。

 石畳の冷たさ。

 サイラスが並べる瓶の音。

 グレイの足音は、相変わらず静かで、いつも同じ場所で止まる。

 レオの声は、少し低くなった。


 彼は、朝も夜も同じ顔でいた。

 変わらないことに、最初は怯えた。途中から、そこに寄りかかれるようになった。


 わたしは、歳をとった。

 鏡を見なくてもわかる。手が変わる。歩幅が変わる。眠りが浅くなる。


 それでも、彼の手は、変わらない。

 変わらないから、怖い日もあった。


「……置いていかないで」


 ある夜、わたしはそう言ってしまった。

 言った瞬間に、恥ずかしくて息が止まった。


 彼は、すぐに答えなかった。

 ただ、わたしの指を一本ずつ包んで、ほどけないように組み直した。


「置いていかない」


 短い声だった。


 それで、よかった。



 最後の日は、特別なことがなかった。


 神殿の中は整っていて、薬の匂いも薄い。

 外で騒ぎが起きている気配もない。


 わたしは寝台に横になって、彼の髪を指先でなぞった。

 細い。さらさらして、指が引っかからない。


「……思い出せなかったね」


 わたしは笑おうとした。うまくいかなかった。


 彼は、わたしの額に触れて言った。


「それでよかった」


 言い切る声だった。迷いがない。


 わたしは、目を閉じた。

 彼の腕が、背中を支える。抱き上げるんじゃない。落ちないように持っている。

 

 置いていくのは、わたし。


 息が短くなる。

 音が遠くなる。


 最後に呼ぶ声が聞こえた。


「……アイリス」


 わたしは、その音に頷いた。頷けたと思う。


 それで終わるはずだった。



 終わらなかった。


 途切れるはずのところで、意識だけがほどけていく。

 誰かの声がするわけでもない。目が見えるわけでもない。


 ただ、同じ熱だけが、左の奥に残る。


 生まれて、歩いて、走って、働いて、笑って、泣いて。

 名は変わる。髪も変わる。声も変わる。


 それでも、同じところが反応する。


 ある時代では、虹色を隠して暮らした。

 ある時代では、隠さずに追われた。

 ある時代では、誰にも気づかれずに終えた。


 巡り続ける輪廻転生(サンサーラ)

 

 数えきれないほど、繰り返して――


 次に開いた目は、硬い天井ではなく、青い空を見た。



 駅前の人波。


 わたしは、歩いていた。

 イヤホンを外し忘れたまま、画面を見ていた。

 誰かが肩にぶつかった。


 その瞬間、目の端で、金色が横切った。


 ふつうなら、見落とす。

 でも、今日は違った。


 胸が止まる。足が止まる。

 息が変になる。


 目の奥に、熱。


 記憶が、遅れて押し寄せる。


 神殿。石畳。手の温かさ。名前。

 そして、腕の中の静けさ。


 わたしは、信号の手前で立ち止まった。


 目の前を、ダンプが通過した。


 風圧。

 眩暈のような揺れ。


 全部が、繋がる。


 わたし、佐原あやめ。アラサー。社畜OL。

 

 今度は――死ななかった。


 わたしは振り返った。


 人波の向こうで、金髪の男性が、立ち尽くしていた。

 呆然としたまま、こちらを見ている。


 わたしは走った。


 迷わず、腕を掴んだ。


「アマレリオン!」


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