52.「イリス」
【イリス視点】
天使が白い羽根を広げ、降りてきた。
礼拝堂の天井の揺れが、すっと落ち着く。
空気が変わった。星の海の静けさごと、この礼拝堂に舞い降りたみたいに。
わたしの手は、まだ震えていた。
床の黒い粉も、焦げた匂いも、法王の笑いの形も、頭の中に張りついたままだ。
「……どうして」
声になったのは、それだけだった。
天使は答えない。
羽根を畳み、ゆっくりと床に足をつけた。
一歩。
また一歩。
神殿の床を歩く音が、やけに小さい。
それなのに、みんなが動けなくなるのがわかった。
金色から白金へと揺れる髪。琥珀から金へと光る瞳。
視線だけで、通り道が決まるみたいだった。
グレイが剣を抜いたまま、わたしの前に立っている。
でも、止める気配がない。止められない、とわかっている背中だった。
レオも、サイラスも、息を潜めるように天使を見ていた。
天使は礼拝堂の床を見下ろした。
円と線。黒く焼けた跡。粉になったもの。
それを、確かめるみたいに一度だけ目を細めて――
手を、払った。
指先が空をなぞっただけなのに、床の紋がほどける。
黒い粉がさらさらと浮き、細かな砂粒みたいに崩れていく。
残っていた焦げ跡も、輪郭も、ひと息で消えた。
床は、ただの床に戻った。
わたしは息を止めたまま、その光景を見ていた。
彼の視線がまたこちらに戻って、わたしを見つめる。
「……あの人たち、魔獣を、呼んだの」
悔しい。怖い。震えが止まらない。
「わたしが……わたしが、あなたを連れてくるようにって……」
喉が熱い。うまく息が吸えない。
「いま、北の森に……たくさん魔獣が……!」
言い切った瞬間、胸の中が空っぽになった。
代わりに、震えだけが残った。
天使は、頷いた。
そして、わたしの手を取った。
温かい。
指が長くて、力があるのに、握りつぶさない。
わたしの震えをそのまま包む。
「北の森だね」
静かな声。
「行こう」
天使は羽根を広げ、浮き上がる。
わたしの身体も一緒に浮いた。
足が石が床から離れる。
驚く暇もなく、わたしは天使に引かれて礼拝堂を抜けた。
外に出ると、人がいた。
神殿の門前。兵。神官のいなくなった神殿を見に来た者たち。
「……あれは」
「虹目の人と……天使……?」
指をさす声が飛ぶ。
ざわめきが波のように広がる。
天使は見もしない。
わたしも見なかった。
ただ、手の温かさだけが確かで、すっと震えが止まった。
次の瞬間、内殻の高い天井がぐっと近づく。
二人で、内殻を飛んで行く。あの星の海を飛んだように。
下で、グレイが走り出したのが見えた。
レオも、サイラスも。追ってくる。
でも、距離はすぐに開いた。
⸻
北の森は、叫びで満ちていた。
熊に似た魔獣が、何十体も。
以前に外殻への出口で遭遇した魔獣だ。
大きい。腕の爪が太い。口の奥が黒い。何より数が多い。
兵が槍と剣で押し返している。
倒しても、別の方向から現れる。
魔導士の魔術も追いつかない。
「退け! 村人を先に!」
怒鳴り声。泣き声。馬のいななき。
喰われそうな人がいる。
転んだ兵の上に、巨体が覆いかぶさる。
わたしは声が出なかった。
身体が動こうとして、空中で足がばたつく。
天使が、わたしを見て頷いた。
「大丈夫」
そしてわたしの手を離さないまま、少しだけ前に出る。
空の上で両手を広げる。
白い羽根が、森の上に大きく開いた。
降ったのは、金の粒だった。
細かい粒が、雨みたいに魔獣の背に落ちる。
魔獣の動きが止まった。
爪が宙で止まり、口が開いたまま固まる。
天使の声が落ちた。
「外へ行きなさい」
低くて、静かで、逆らえない声。
「ここは、おまえたちの場所じゃない」
熊の魔獣たちは、唸らなかった。
暴れもしなかった。
振り向いて、森の奥へ走っていく。
群れが、同じ方向へ消えていく。
森の中に残ったのは、折れた枝と、荒い息と、逃げ遅れていた人たち、そして立ち尽くした兵だけだった。
「……な、なんだ」
「いまの……」
誰かが呟いた。
膝から崩れた兵が、地面に手をついたまま天を見上げている。
天使は、わたしのほうを見た。
「これで、いいね」
その言い方は、ひどく簡単だった。
簡単すぎて、涙が出そうになる。
「戻ろう。神殿へ」
わたしは頷いた。
声は出ない。ただ、安堵だけがあった。
⸻
神殿に戻ると、門前の人の数が増えていた。
兵だけじゃない。王宮から駆けつけた廷臣たちの顔もある。
わたしたちは神殿の前、彼らの頭上で止まる。
天使は、わたしの手を離さない。
人々が息を止める。
誰も、近づけない。
天使は、淡々と言った。
「私は、しばらくここにいる」
ざわめきが、膨らみかけて止まる。
「静かに居させてくれるならば、魔獣を遠ざける。天井も、保つ」
“保つ”の言葉が、妙に現実だった。
「それ以上のことはしない」
天使の視線が、人々の上をなぞる。
「……させるなら、私はまた離れる」
言い切って、天使は何も足さなかった。
そのとき、ダルジード団長が前へ出た。
胸に拳を当て、敬礼の姿勢のまま話す。
「御礼を申し上げる。御技により、災害級の魔獣から人々が救われたと報せが入った」
またざわめきが起こる。
団長の赤紫の目が、周囲を見回した。
「今夜は押さえる――だが、明日には王自らがここへ訪れることになるだろう」
天使が頷いた。
「明日、王に会おう」
「ありがたく」
ダルジードが重々しく返礼する。それから振り向いて指示を出す。
「グレイ隊は残れ。ここを守れ」
「了解」
グレイの声は短い。
団長が撤収を指示し、兵が散っていく。
人々も、距離を取りながら引いていく。
神殿の前が、少しずつ静かになる。
礼拝堂に入った。床に足をつける。
ひんやりとした空気に、やっと息を吐いた。
天使はまだわたしの手を離さない。
そのまま、わたしのほうへ向き直る。
「ありがとう」
声が震えた。さっきの震えとは違う。
「来てくれて。でも……どうして」
天使は、目を伏せない。
「会いたかったから」
それだけ。
理由の形を作らない言い方。
わたしは、喉が詰まったまま頷いた。
「……わたしも、会いたかった」
天使の指が、わたしの頬に触れた。
指先が、涙の跡をなぞるみたいにゆっくり動く。
「どうして私は、離れていられるなどと思ったのだろう」
その声が、近い。
「イリス」
名前を呼ばれた瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。
アイリスではなく、イリス、と。聞き間違いじゃない。
「名前……」
左目の奥がじんわりと熱い。
天使は、わたしの唇の手前で言葉を止めて、もう一度だけ呼んだ。
「イリス」
それで、わたしの目から水が落ちた。
止める余裕がない。落ちる。
「わたしは……思い出せないのに」
天使は、迷わず言った。
「私は、おまえがいい」
わたしの呼吸が乱れる。
「イリスが、いいんだ」
涙が、頬を伝う。
天使は、その涙に口づけた。
一粒ずつ、確かめるみたいに。
わたしは動けなかった。
恥ずかしさよりも先に、止まらないものが溢れる。
天使が囁く。
「泣かせたくない」
でも、涙は止まらない。
天使は最後に、わたしの唇に触れた。
軽く。確かめるみたいに。
それだけで、世界が静かになった気がした。
遠くで、誰かが息をする音がした。
でも、わたしは目の前の琥珀の瞳から、逃げられなかった。




