51.禁術
【イリス視点】
ゼロの村の朝は、まだ冷える。
母さんが火を起こして、鍋をかけて、わたしの前に湯気の立つ椀を置いた。いつもの匂い。これだけで、胸の奥に残っていたざらつきが少しだけほどける。
「ちゃんと食べなさい」
母さんはそれだけ言って、わたしの髪を指で整えた。乱れたところを戻すみたいに。
わたしは、黙って頷いた。言葉にしたら、また変なところが崩れそうだった。
星の海のことを話してから、母さんは余計なことを聞かなかった。
見えないものを無理に形にしない。そういう強さが、この家にはある。
椀を空にすると、母さんは立ち上がって外を見た。
「……来たみたい」
戸口に、足音。
グレイ、レオ、サイラス。三人が並んで立っている。ピピも、いつもの顔でサイラスの肩に乗っていた。
「お世話になりました」
グレイが頭を下げる。母さんが軽く会釈を返す。
「イリスを頼みます。――でも無理はさせないでね」
母さんの言い方は柔らかい。
グレイは一度だけ目を細めて、短く頷いた。
わたしは外へ出た。土の匂い。村の小さな物音。
それらが全部、わたしを日常へ引き戻してくる。
「行けるか」
グレイが言った。
わたしは頷いた。行ける、と言い切るのは怖かったけれど、行かない選択肢もなかった。
母さんが、わたしの手を握った。いつもより長く。
「帰っておいで」
それだけ。
わたしは、その手を離して歩き出した。しばらく、手は温かかった。
⸻
王都は、変わっていない。
兵舎も、変わっていない。石畳の音。廊下の匂い。訓練場のざわめき。
でも、ひとつだけ欠けている。
ルミナリア。
いつもなら、いきなり声が飛んでくる。笑いながら走ってくる。
その“賑やかさ”がない。空いてしまった席みたいに、ここだけが少し広い。
ほんの少しの間、ここに居ただけなのに、空いた空間が大きい。
わたしは、息を整えた。
寂しい、とは言わない。言ったら、変な方向へ落ちそうだった。
「訓練、する?」
レオが聞いた。
いつものレオなら「やろうぜ!」と言うところなのに、言い方が落ち着いていた。目も、無駄に泳がない。
何かあったのかな。
でも、わたしは聞けなかった。聞いていい気がしなかった。理由が見えないまま、触れると壊れそうなものってある。
「うん。身体、動かしたい」
そう返すと、レオは短く頷いた。
⸻
朝から、訓練場。
わたしは槍を握る。グングニルの重さが、手の中でちゃんと現実になる。
これがいい。考える前に、身体がやることを持つのがいい。
グレイが前に立った。
「基本からやる。崩れている」
その言い方は容赦がなかったけれど、目は優しい。
わたしは槍を構え直した。
何度か打ち合って、踏み込みを深くした瞬間、足が滑った。
地面の砂を蹴って、体勢が崩れる。槍先がふらつく。
次の瞬間、腕を掴まれた。
グレイの手。強い。迷いがない。
引き戻されて、わたしは彼の胸元にぶつかった。硬い。体温がある。
呼吸が一拍遅れた。
……これ、危ない。
「無理に前へ行くな。戻る場所を残せ」
グレイはそれだけ言って、わたしを離した。
わたしは、槍を握り直して頷いた。
顔が熱い。心臓が、やたら早い。
でも――
違う。
星の海で、天使の手を取ったときの、あの感覚とは違う。あれは、身体が勝手に「ここだ」と決めたみたいだった。二人で飛んだ星の海。
今のは、ただ、触れて、近くて、びっくりしただけ。
わたしは、槍先を下げた。少しだけ深く息を吐いた。
「……もう一回」
そう言うと、グレイは短く頷いた。
横でレオが、何も言わずに見ていた。
からかいもしない。声も出さない。
その静けさに、なんだかレオが急に大人になった気がした。
⸻
訓練が終わっても、天使の顔が頭から離れない。
目を閉じると、あの場面だけが残る。手を離した瞬間。金色のもや。戻るための境目。
思い出そうとすると、手の中の砂みたいにこぼれる。
大事なはずなのに、形にならない。
そして、内殻のこと。
暗くなる、と竜王は言っていた。
覇王も同じことを言ったという。
わたしは、槍の柄を握った。
爪が白くなる。力を抜いて、また握り直す。
そのとき、訓練場の端がざわついた。
ダルジード団長が来ていた。
普段より人数が多い。伝令もいる。顔色が、硬い。
「グレイ。サイラス。レオ。――イリスもだ」
呼ばれた名前が、順番に刺さる。
いつもの指令と違う匂いがする。
グレイが前に出た。
「何が起きた」
団長は短く言った。
「神殿だ。法王が禁術を使って、魔獣を増やしていた可能性が高い。王の依頼で、内々に片をつける」
言葉が落ちる。
訓練場の音が、一瞬だけ遠くなる。
「なんのために魔獣を」
グレイが短く聞く。
「どうやら、魔獣が増えれば、イリスが天使を呼ぶと考えたらしい。浅はかなものだな」
わたしの……せい……?
「王室案件だ。他言無用」
団長の言葉に、グレイたちが短く頷く。
「部隊を分ける。わたしが先に入る。グレイ隊は前衛に入れ」
グレイが頷いた。サイラスも、レオも。
わたしも反射のように頷いた。
でも頭のなかは、追いつかない。
「集中しろ」
グレイの声がわたしを現実に引き戻してくれる。
⸻
神殿に近づくにつれて、空気が薄くなる。
音が遠い。鳥も鳴かない。
門は開いていた。
誰も立っていない。
ダルジード団長が手を上げ、隊を割った。
グレイが短く指示を出す。レオとサイラスが左右に散り、わたしは槍の柄を握り直して奥へ進んだ。
廊下の壁布が裂けて、床に落ちている。
焦げた匂いが、鼻の奥に残る。神殿の匂いじゃない。
「……禁術の残りだな」
サイラスが低く言った。
礼拝堂の扉は、半分だけ開いていた。
中から、冷たい気配が漏れてくる。
踏み込んだ瞬間、足が止まった。
床一面に、円と線。
石は黒ずみ、粉が散っている。焼けた跡が紋を縁取って――そして、その線の上を、黒い粉がゆっくり“流れて”いた。
止まっていない。
床の紋が、呼吸しているみたいにかすかに脈打つ。
中央に、人影が集まっていた。
法王。
その周りに神官たち。
立っていない。
崩れるように座り込み、あるいは膝を折ってうなだれている。祈りの姿勢に見えるのに、祈っていない。目が開いている者もいる。どこも見ていない。
法王が、かすかに顔を上げた。
その唇が動く。
声は掠れて割れて、単語にならない――のに、口だけが繰り返す。擦れた音が、床の紋と同じ間で続いていた。
笑っていた。
皮膚が引きつるみたいな、いやな笑い方で。
わたしの左目の奥が、熱くなる。
理由がわからない。わからないのに、背中が冷える。
「禁術の反動のようだな……」
グレイが前へ出て言う。そして、床の紋を一瞥した。
「触れるな。……まだ動いている」
レオが眉を寄せた。
「止められないのか?」
サイラスが床の黒い粉を指先で追いかけ、すぐに手を引いた。
「ここで何かを生むんじゃない。流してる。……離れたところへ、魔力を通してる」
団長の副官が駆け込んできた。息が切れている。
「団長! 北の外縁、森沿いで魔獣が急増しています。斥候が確認!」
礼拝堂の空気が、さらに冷えた。
――ここだ。
ここで“増える”んじゃない。外で増える。
この場所は、そのために回っている。
ダルジード団長の声が落ちる。
「……やはり、法王か」
法王が、また口を動かした。
ひび割れた声が、ようやく形になる。
「……天……虹……目……」
次が続かない。
唇の端だけが上がっている。
団長が、短く命じた。
「確保。全員。生きたまま連れていく」
兵が動いた。
神官たちは抵抗しなかった。抵抗できない。肩が落ち、指が震え、息が浅い。
縄が掛けられる。
手首を縛られ、口を布で塞がれ、抱え上げられる。
――でも。
床の紋は、まだ流れている。
黒い粉が、線に沿って外へ外へと運ばれていく。
誰も止められない。
確保しても終わらない。
わたしの手が震えた。槍の柄を握る手が、汗で滑る。
左目の奥が、熱い。熱いのに、指先は冷たい。
このまま、外で誰かが喰われる。
また。まだ。
わたしは一歩、前へ出た。
「イリス」
グレイが短く呼んだ。止めるための声じゃない。確認する声だった。
わたしは頷いた。声は出ない。
槍を持ち替える。グングニルが重い。重いから、落ち着く。
――熱が、左目の奥から槍へ落ちた。
穂先が、虹色になった。
透明な刃の中で色が割れて、角度が変わるたびに赤や青や緑がきらりと入れ替わる。
床の中心――円のいちばん奥が、かすかに白く光っている。
そこだけが、まだ“息”をしている。
わたしは、腕を振った。
グングニルが飛ぶ。
まっすぐに、中心へ。
虹色の槍先が石に当たった瞬間、音が消えた。
黒い粉がふわりと浮いて、線から離れた。
円と線が、ほどける。砂粒みたいに崩れていく。焦げた輪郭も、ひと息で薄くなって消えた。
床は、ただの石畳に戻った。
わたしの呼吸が、遅れて戻る。
手にグングニルが戻ってくる。膝が少しだけ抜けて、槍の柄が手から離れそうになる。
「虹……虹……」
法王がグングニルとわたしを見て繰り返した。
兵が法王たちを引きずるように連れ出していく。
白い衣が床を擦った。その白が、やけに汚れて見えた。
神官たちも次々に引き立てられた。
外へ。門へ。運搬用の荷車へ。
最後の一人が門を出たところで、礼拝堂はやっと“空っぽ”になった。
残るのは、消えた紋の名残と、焦げた匂いだけ。
「よくやった、イリス」
グレイの声が聞こえる。
わたしは、床の中心を見つめた。
止まっている。もう流れていない。
なのに、手の震えが止まらない。
――わたしのせいで、あの人たちはあんなふうになったの……?
そのとき――
頭上の“天井”が、揺れた。
わたしの左目の奥が、熱くなる。
あ……。まさか。
「……来る」
レオが「何が?」と尋ねると同時に、グレイが剣を抜いてわたしの前に立っていた。
そして、天井の揺れ目からその姿が現れる。
金色に揺れる髪。
琥珀に変わる瞳。
天使が白い羽根を広げ、降りてきた。




