表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

52/54

51.禁術

【イリス視点】


 ゼロの村の朝は、まだ冷える。

 母さんが火を起こして、鍋をかけて、わたしの前に湯気の立つ椀を置いた。いつもの匂い。これだけで、胸の奥に残っていたざらつきが少しだけほどける。


「ちゃんと食べなさい」


 母さんはそれだけ言って、わたしの髪を指で整えた。乱れたところを戻すみたいに。

 わたしは、黙って頷いた。言葉にしたら、また変なところが崩れそうだった。


 星の海のことを話してから、母さんは余計なことを聞かなかった。

 見えないものを無理に形にしない。そういう強さが、この家にはある。


 椀を空にすると、母さんは立ち上がって外を見た。


「……来たみたい」


 戸口に、足音。

 グレイ、レオ、サイラス。三人が並んで立っている。ピピも、いつもの顔でサイラスの肩に乗っていた。


「お世話になりました」


 グレイが頭を下げる。母さんが軽く会釈を返す。


「イリスを頼みます。――でも無理はさせないでね」


 母さんの言い方は柔らかい。

 グレイは一度だけ目を細めて、短く頷いた。


 わたしは外へ出た。土の匂い。村の小さな物音。

 それらが全部、わたしを日常へ引き戻してくる。


「行けるか」


 グレイが言った。

 わたしは頷いた。行ける、と言い切るのは怖かったけれど、行かない選択肢もなかった。


 母さんが、わたしの手を握った。いつもより長く。


「帰っておいで」


 それだけ。


 わたしは、その手を離して歩き出した。しばらく、手は温かかった。



 王都は、変わっていない。

 兵舎も、変わっていない。石畳の音。廊下の匂い。訓練場のざわめき。


 でも、ひとつだけ欠けている。


 ルミナリア。


 いつもなら、いきなり声が飛んでくる。笑いながら走ってくる。

 その“賑やかさ”がない。空いてしまった席みたいに、ここだけが少し広い。

 ほんの少しの間、ここに居ただけなのに、空いた空間が大きい。


 わたしは、息を整えた。

 寂しい、とは言わない。言ったら、変な方向へ落ちそうだった。


「訓練、する?」


 レオが聞いた。

 いつものレオなら「やろうぜ!」と言うところなのに、言い方が落ち着いていた。目も、無駄に泳がない。


 何かあったのかな。

 でも、わたしは聞けなかった。聞いていい気がしなかった。理由が見えないまま、触れると壊れそうなものってある。


「うん。身体、動かしたい」


 そう返すと、レオは短く頷いた。



 朝から、訓練場。

 わたしは槍を握る。グングニルの重さが、手の中でちゃんと現実になる。

 これがいい。考える前に、身体がやることを持つのがいい。


 グレイが前に立った。


「基本からやる。崩れている」


 その言い方は容赦がなかったけれど、目は優しい。

 わたしは槍を構え直した。


 何度か打ち合って、踏み込みを深くした瞬間、足が滑った。

 地面の砂を蹴って、体勢が崩れる。槍先がふらつく。


 次の瞬間、腕を掴まれた。


 グレイの手。強い。迷いがない。

 引き戻されて、わたしは彼の胸元にぶつかった。硬い。体温がある。


 呼吸が一拍遅れた。


 ……これ、危ない。


「無理に前へ行くな。戻る場所を残せ」


 グレイはそれだけ言って、わたしを離した。


 わたしは、槍を握り直して頷いた。

 顔が熱い。心臓が、やたら早い。


 でも――


 違う。


 星の海で、天使の手を取ったときの、あの感覚とは違う。あれは、身体が勝手に「ここだ」と決めたみたいだった。二人で飛んだ星の海。

 

 今のは、ただ、触れて、近くて、びっくりしただけ。


 わたしは、槍先を下げた。少しだけ深く息を吐いた。


「……もう一回」


 そう言うと、グレイは短く頷いた。


 横でレオが、何も言わずに見ていた。

 からかいもしない。声も出さない。

 その静けさに、なんだかレオが急に大人になった気がした。



 訓練が終わっても、天使の顔が頭から離れない。

 目を閉じると、あの場面だけが残る。手を離した瞬間。金色のもや。戻るための境目。


 思い出そうとすると、手の中の砂みたいにこぼれる。

 大事なはずなのに、形にならない。


 そして、内殻のこと。


 暗くなる、と竜王は言っていた。

 覇王も同じことを言ったという。

 

 わたしは、槍の柄を握った。

 爪が白くなる。力を抜いて、また握り直す。


 そのとき、訓練場の端がざわついた。


 ダルジード団長が来ていた。

 普段より人数が多い。伝令もいる。顔色が、硬い。


「グレイ。サイラス。レオ。――イリスもだ」


 呼ばれた名前が、順番に刺さる。

 いつもの指令と違う匂いがする。


 グレイが前に出た。


「何が起きた」


 団長は短く言った。


「神殿だ。法王が禁術を使って、魔獣を増やしていた可能性が高い。王の依頼で、内々に片をつける」


 言葉が落ちる。

 訓練場の音が、一瞬だけ遠くなる。


「なんのために魔獣を」

 グレイが短く聞く。


「どうやら、魔獣が増えれば、イリスが天使を呼ぶと考えたらしい。浅はかなものだな」


 わたしの……せい……?


「王室案件だ。他言無用」

 団長の言葉に、グレイたちが短く頷く。

 

「部隊を分ける。わたしが先に入る。グレイ隊は前衛に入れ」


 グレイが頷いた。サイラスも、レオも。

 わたしも反射のように頷いた。

 でも頭のなかは、追いつかない。


「集中しろ」

 グレイの声がわたしを現実に引き戻してくれる。

 


 神殿に近づくにつれて、空気が薄くなる。

 音が遠い。鳥も鳴かない。


 門は開いていた。

 誰も立っていない。


 ダルジード団長が手を上げ、隊を割った。

 グレイが短く指示を出す。レオとサイラスが左右に散り、わたしは槍の柄を握り直して奥へ進んだ。


 廊下の壁布が裂けて、床に落ちている。

 焦げた匂いが、鼻の奥に残る。神殿の匂いじゃない。


「……禁術の残りだな」

 サイラスが低く言った。


 礼拝堂の扉は、半分だけ開いていた。

 中から、冷たい気配が漏れてくる。


 踏み込んだ瞬間、足が止まった。


 床一面に、円と線。

 石は黒ずみ、粉が散っている。焼けた跡が紋を縁取って――そして、その線の上を、黒い粉がゆっくり“流れて”いた。


 止まっていない。

 床の紋が、呼吸しているみたいにかすかに脈打つ。


 中央に、人影が集まっていた。


 法王。

 その周りに神官たち。


 立っていない。

 崩れるように座り込み、あるいは膝を折ってうなだれている。祈りの姿勢に見えるのに、祈っていない。目が開いている者もいる。どこも見ていない。


 法王が、かすかに顔を上げた。


 その唇が動く。

 声は掠れて割れて、単語にならない――のに、口だけが繰り返す。擦れた音が、床の紋と同じ間で続いていた。


 笑っていた。

 皮膚が引きつるみたいな、いやな笑い方で。


 わたしの左目の奥が、熱くなる。

 理由がわからない。わからないのに、背中が冷える。


「禁術の反動のようだな……」

 グレイが前へ出て言う。そして、床の紋を一瞥した。

「触れるな。……まだ動いている」


 レオが眉を寄せた。

「止められないのか?」


 サイラスが床の黒い粉を指先で追いかけ、すぐに手を引いた。

「ここで何かを生むんじゃない。流してる。……離れたところへ、魔力を通してる」


 団長の副官が駆け込んできた。息が切れている。

「団長! 北の外縁、森沿いで魔獣が急増しています。斥候が確認!」


 礼拝堂の空気が、さらに冷えた。


 ――ここだ。

 ここで“増える”んじゃない。外で増える。

 この場所は、そのために回っている。


 ダルジード団長の声が落ちる。

「……やはり、法王か」


 法王が、また口を動かした。

 ひび割れた声が、ようやく形になる。


「……天……虹……目……」


 次が続かない。

 唇の端だけが上がっている。


 団長が、短く命じた。

「確保。全員。生きたまま連れていく」


 兵が動いた。

 神官たちは抵抗しなかった。抵抗できない。肩が落ち、指が震え、息が浅い。


 縄が掛けられる。

 手首を縛られ、口を布で塞がれ、抱え上げられる。


 ――でも。


 床の紋は、まだ流れている。

 黒い粉が、線に沿って外へ外へと運ばれていく。


 誰も止められない。

 確保しても終わらない。


 わたしの手が震えた。槍の柄を握る手が、汗で滑る。

 左目の奥が、熱い。熱いのに、指先は冷たい。


 このまま、外で誰かが喰われる。

 また。まだ。


 わたしは一歩、前へ出た。


「イリス」

 グレイが短く呼んだ。止めるための声じゃない。確認する声だった。


 わたしは頷いた。声は出ない。

 槍を持ち替える。グングニルが重い。重いから、落ち着く。


 ――熱が、左目の奥から槍へ落ちた。


 穂先が、虹色になった。

 透明な刃の中で色が割れて、角度が変わるたびに赤や青や緑がきらりと入れ替わる。


 床の中心――円のいちばん奥が、かすかに白く光っている。

 そこだけが、まだ“息”をしている。


 わたしは、腕を振った。


 グングニルが飛ぶ。

 まっすぐに、中心へ。


 虹色の槍先が石に当たった瞬間、音が消えた。


 黒い粉がふわりと浮いて、線から離れた。

 円と線が、ほどける。砂粒みたいに崩れていく。焦げた輪郭も、ひと息で薄くなって消えた。


 床は、ただの石畳に戻った。


 わたしの呼吸が、遅れて戻る。

 手にグングニルが戻ってくる。膝が少しだけ抜けて、槍の柄が手から離れそうになる。


「虹……虹……」

 法王がグングニルとわたしを見て繰り返した。

 兵が法王たちを引きずるように連れ出していく。

 白い衣が床を擦った。その白が、やけに汚れて見えた。


 神官たちも次々に引き立てられた。

 外へ。門へ。運搬用の荷車へ。


 最後の一人が門を出たところで、礼拝堂はやっと“空っぽ”になった。


 残るのは、消えた紋の名残と、焦げた匂いだけ。


「よくやった、イリス」

 グレイの声が聞こえる。


 わたしは、床の中心を見つめた。

 止まっている。もう流れていない。


 なのに、手の震えが止まらない。


 ――わたしのせいで、あの人たちはあんなふうになったの……?


 そのとき――

 頭上の“天井”が、揺れた。


 わたしの左目の奥が、熱くなる。

 あ……。まさか。

 

「……来る」


 レオが「何が?」と尋ねると同時に、グレイが剣を抜いてわたしの前に立っていた。

 

 そして、天井の揺れ目からその姿が現れる。


 金色に揺れる髪。

 琥珀に変わる瞳。


 天使が白い羽根を広げ、降りてきた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ