50.千年の孤独
【天使視点】
星の海を抜け、外殻へ向かった。
金色のもやが視界いっぱいに広がる。イリスはここを通って、内殻へ帰っていった。
私は、その中へ飛び込んだ。
金が、目にまとわりつく。体が引かれ、上下の感覚がほどける。どこかへ持っていかれる感触だけが残った。
次の瞬間、抜けた。
ここは、勝手に出入りできる場所ではない。金の雲は祝福を受けた者だけが通れ、私も竜王セレノヴァルクの許可か招きがなければ入れない。
――今回だけだ。
眼下にモノリスが立っている。人影はない。
顔を上げると、蒼珠がそこにあった。静かに回り、遠いはずなのに大きい。
覇王の城は、蒼珠から見えない側にある。
セレノヴァルクの声が、頭の中で繰り返された。
『先に、アレのところへも寄ってやれ。孤独を知るなら、あの者の気持ちもわかるだろう』
孤独。
私は、それを知っている。会えた時間はいつも短く、その後の長さだけが積み上がっていく。アイリスを待つあいだは、いつもひとりだった。
そして覇王ストルガテュフォンも、千年――私に会えないまま待ち続けている。
痛いほどわかる。
それでも、私に何ができる。
けれど今は、翼を動かした。迷っている時間のほうが、重い。
灰の大地へ。ストルガの支配する領域へ。
城が見えてきた。地面と同じ灰色で、輪郭が岩に溶けている。岩から生えたような建物だ。装飾は少なく、無駄がない。
静かで、冷たい。ストルガらしい。
私は城の前に降り立った。門は開いている。いつものことだ。開いていようと閉まっていようと、意味は変わらない。
中へ入る。
外からは想像できないほど、内側は豪奢だった。厚い絨毯が足音を吸い、歩くたびに沈む。
奥へ進むほど、静けさが増していく。この城は、いつもこうだ。
最奥の玉座の間に、彼がいた。
覇王ストルガテュフォン。
黒く長い髪。黒く煌めく瞳。
玉座に座ったまま、私を見ていた。
表情は動かない。だが、目だけが揺れている。
「アマレリオン……」
低い声が、私の名を呼んだ。
そこに混ざっているものが、はっきり分かる。喜びと、悲しみと、諦め。――全部。
私は立ち止まった。返す言葉が見つからない。喉が固まり、息だけが浅くなる。
ストルガは立ち上がった。急がない。玉座から降りて、こちらへ向かってくる。
黒い髪が揺れ、黒い衣が床を引く。足音は絨毯に沈み、なのに距離だけが縮んでいく。
そして、私の前で止まった。
黒い瞳が、まっすぐに私を捉える。近い。そこに私が映っている。金の髪、琥珀の瞳。――存在を確かめるみたいに。
「また……幻かと思った」
押し殺した声だった。言い終えたあと、ほんの少しだけ呼吸が乱れる。
千年分の重さが、短い一言に詰まっていた。
「……遅くなった」
「おまえは、ほんとうにアマレリオンなのだな」
私は、じっと黒く輝く目を見つめる。
ストルガが、首を横に振った。
「疑ったわけではない。ただ、すぐには信じられず……」
ストルガの手が、伸びてきた。
私の頬に、触れる。
冷たい手だった。
私の頬をそっと、撫でる。
手をそのままにストルガは聞く。
「なぜ、星の海を出た」
「……アイリスに会いに」
「竜王が許したのか」
「そうだ。魂の片割れを見失うな、と」
ストルガの指先が、私の耳たぶへと伸びる。
「イリスは、おまえのアイリスは、思い出したのか?」
耳たぶから首筋へと、ストルガの指先がそっと移動していく。
「思い出さない」
「それでも良いのか?」
「思い出さなくても、私のことを好きだと言った」
ストルガの指は、私の喉を静かにさする。
「忘れられて、つらくないのか?」
指先が少し降りて、鎖骨の窪みを確かめるようにそっと触れる。
「離れているほうが、つらい」
唐突に、指先が私の顎をなぞった。
「イリスには、男たちが付いている。信頼しあっているようだった」
「知っている。隠さず言おう。私は彼らに嫉妬した」
「アマレリオンが、嫉妬を……」
指先が下唇に触れて、止まった。
「千年、待った」
ストルガが、呟いた。
「おまえに会えるのを、待った」
指先が唇を離れ、私の髪に触れる。
髪を、ゆっくり指で梳く。
「星の海から出てくるのを、ずっと」
声が、低い。
「待ち焦がれていた」
両手が私の頭を挟み、顔をまっすぐ固定した。
「でも、まだ足りない」
声が、かすれている。
「私の千年は、まだ終わらないのだな」
胸が、痛い。
「会いに来た」
やっとそれだけ言った。
ふいに、両手が肩から背中に回った。抱きしめられた。
強く。
私の体が、ストルガの腕の中にある。
そのままストルガが囁くように言う。
「お互いに、なぜなんだろう、と思う」
あまりに小さな声で、聞き逃しそうだった。
そうだ。なぜなのか。
おまえはなぜ私を。
私はなぜアイリスを。
答えのないまま永遠を生きている。
孤独に、生きている。
私はただ、ストルガの強い腕に抱かれていた。
そのままどれくらいの時が経っただろうか。
ストルガが、私の耳元で吐息のように囁いた。
「アマレリオン、今は行け」
「ストルガ……」
「人は儚い。今は『人』の元へ行け」
ストルガの声は、私の髪の中へ埋もれるようにこぼされる。
「おまえの、アイリスの元へ。間に合ううちに」
ストルガの声が、震えている。
「俺は、ここにいる」
私を、抱いたまま。
「またひとりになったら、一緒にいて待っていてやる」
その言葉に、胸が痛んだ。
またひとりになったら。
アイリスが、また逝ったら。
その時、ストルガは、私のそばにいてくれるのだと言っているのか。
私の孤独を、分かち合ってくれる、と。
それがおまえの。
「今は、行け」
ストルガが、私を離した。
私は、ストルガを見つめた。
黒い瞳が激しく輝いて、私を見つめ返す。
「ありがとう。ストルガ」
ストルガが、頷いた。
「行け。アマレリオン」
名を呼ぶ声は、硬いままだ。
私は、翼を広げた。
ストルガが、私の翼にそっと触れて、慈しむように撫で上げる。
そして手を離した。
私は、飛んだ。
城を出た。
振り返っても、ストルガの姿は見えなかった。
覇王の城が、小さくなっていく。
ストルガの孤独を、私の孤独に重ねて刻む。
内殻へ。
魂の片割れの元へ。




