46.泣かせたくない
この人を泣かせたくない。
なのに、涙の粒がひとつふたつと止まらず流れていく。
「泣かないで」
切実な思いがこみ上げてきて、わたしは、手を伸ばした。指先が、天使の頬に触れる。涙の粒が、わたしの指に触れた。温かい。
天使が、わずかに目を閉じる。涙が、また一粒、流れた。
わたしの指を伝って落ちていく。星の海に落ちて、光に溶ける。
「……おまえを見守っているだけでいいと思ったのに」
静かな声だった。穏やかなのに、悲しみが滲んでいる。
「ずっと、そう思っていた。おまえが幸せならば、それでいいと。思い出すまで待とうと」
天使がゆっくりと瞬きをした。まつ毛が揺れる。涙の粒がたくさん落ちて流れる。琥珀の瞳が、わたしを見つめる。じっと、真っ直ぐに。
「だが、会ってしまった」
わたしは、何も言えなかった。
胸が詰まって、声が出ない。
天使が、続ける。
「おまえは私を忘れている。それでもいい。会えたからそれで十分だと」
声が、途切れそうになる。呼吸が浅い。
「なのに。おまえの顔を見ていたら、欲が出てきて、止められない」
欲。
思い出してほしい、という欲。
一緒にいたい、という欲。
胸が、痛い。
苦しい。
「……ごめんなさい」
「謝るな」
天使が、首を横に振った。金の髪が揺れる。
「おまえは、何も悪くない」
わたしは、唇を噛んだ。
喉の奥が熱い。涙が溢れそうになる。
この人を泣かせたくない。思い出したい。
左目が、とくんとくんと鼓動のようにこの人を求めている。脈打つみたいに、熱い。
わたしは、この人に出会うためにここに転生した。
今度はほんとうだ。魔獣のまやかしなんかじゃない。
わたしのなかの深いところが、それが真実だと告げている。確信がある。疑いがない。
わたしがこの世界に来たのも、虹色の目になったのも、空を飛べるのも、夢で声を聞くのも、目の奥が誰かを呼ぶのも。
全部、この人に巡り合うため。
それほど大切な人のことをわたしは思い出せず、涙をこぼさせている。
「泣かないで……」
また言いかけて、ようやくわたしは気が付いた。
いま目の前にいるこの人が、大切なのだと。
思い出せなくても、わかる。この人が、大切。
伝えなくては。ちゃんと伝えなくては。
「わたし……思い出せないけれど」
声が震える。それでも、言う。
天使は黙って見つめ返す。琥珀の瞳が、揺れている。
「思い出せなくても、あなたのことが、好き」
天使の目が、見開かれた。
目のふちに残っていた涙が全部、はらはらと落ちていく。光の粒みたいに、星の海に消える。
「前のことは、わからない。でも、今、わたしはあなたが好き。あなたが誰でも。わたしが誰でも」
言葉が、溢れる。止まらない。
「新しく始めるのじゃだめ?イリスとして、今のあなたとわたしと、ふたりで」
天使が、黙った。
「アイリスじゃなくて、イリスを見てほしい。今のわたしを」
ちゃんと言えた。伝えた。
心臓が、早く打っている。
でも、天使の表情は、変わらない。
答えが、来ない。
沈黙が、重く落ちる。
ただ、わたしを見ている。琥珀の瞳が、揺れている。迷っているのか、苦しんでいるのか。
やがてその唇が、声を漏らした。
「一緒に、内殻に行ってほしいから……?」
はっと息が詰まる。
――内殻を救うために、そう言っているのではないか。
そう思われている。
わたしは、天使の目を見た。
「……信じてもらえないよね」
天使が、目を伏せた。
「信じたい」
声が、小さい。かすれている。
「だが、わからない」
そうだよね。
わたしも、わからない。
本当に好き。
でも、内殻を救いたい気持ちだってもちろんある。
どっちが先なのか、自分でも、わからない。
天使が、顔を上げた。
「アイリス……ここにいることはできないのか」
ささやくような声は、さらに小さくなる。祈るみたいだ。
「ここに……残れないか」
残る。
天使と、一緒に。
星の海で、ずっと。
頭の中が、真っ白になる。
考えが、止まる。
でも――
「……できない」
声が、震えた。涙が、あふれる。
「母さんがいる。グレイも、レオも、サイラスも。みんな、待ってる。心配してる」
天使は、黙った。
「それに、わたしはアイリスじゃない……わたし、帰らなきゃ」
天使は、何も言わなかった。
ただ、目を閉じて、頷いた。小さく、ゆっくりと。
そして今度は彼が、わたしの涙をぬぐった。
彼は大きく翼を広げた。白い羽が、星の光を受けて輝く。
「わかった……おいで」
天使が、手を差し出した。
わたしは、その手を取った。
温かい。大きな手。指が、わたしの手を包む。
「飛ぶよ。一緒においで」
翼が、大きく羽ばたく。
風が起きる。星の光が揺れる。
わたしも手を引かれるままに、空を飛んだ。
二人で、手をつないで、星の海を飛んだ。
一面の夜と星の世界。
どこまでも続く、静けさ。
涙は止まった。
竜王の宮殿が遠くに消えていく。白い建物が、小さくなって、見えなくなる。
自分がどこにいるのか、だんだんとわからなくなってくる。上も下もない。ただ、星だけ。
蒼珠だけが、自分の上下を知らせてくれる。青い球体が、ゆっくりと回っている。
飛びながら、何も怖くなかった。
この人と手をつないで飛んでいれば、それだけですべては完成する。
このままこの世界に溶け込んでいけそうだ。消えてしまってもいい、とさえ思う。
でも、それは許されない。
わたしには、帰る場所がある。
どれくらい長い間、そうして一緒に飛んでいただろう。
時間の感覚がない。一瞬かもしれないし、何時間かもしれない。
やがて金色のもやが、見えてきた。わたしが出てきたところだろうか。
雲みたいに、ゆらゆらと揺れている。柔らかそうで、触れたら消えてしまいそうだ。
天使が、そこで止まった。
羽ばたきが、止まる。でも、落ちない。空中に、浮いている。
「ここだ」
低い声だった。
――わたしを戻すためにここへ連れてきてくれた。
わたしは、金色のもやを見つめた。
ここを抜ければ、内殻へ戻る。
母さんのところへ。グレイたちのところへ。
天使の手から、離れなきゃいけない。
離れたくない。
でも、行かなきゃ。
何も言えなかった。
言葉が、出ない。
天使も、何も言わなかった。
ただ、わたしを見ている。琥珀の瞳が、悲しそうだ。
わたしは、天使の手をそっと離した。
温もりが、消える。
そして、金色のもやに向かって、飛び込んだ。
涙が、またあふれて、もう止まらなかった。




