45.星の海をふたりで歩く
手紙をつけて、祈るようにピピを放った。
ピピ、お願いね。サイラスのところへ。
「ピピピッ」
鳴き声が、星の海へ消えていく。
わたしはピピの姿が見えなくなるまで見送った。
「きっと大丈夫ですよ。ピピはサイラス様のもとへお手紙を届けます」
ルミナリアが明るい声で励ましてくれる。
「うん。ピピなら大丈夫だね」わたしもルミナリアに頷いた。
竜王が天使に言う。
「二人のときに話せと言ったね」
「ん?ああ、そうだな」
さっきの、竜王とルミナリアの、なんていうか「イチャイチャ」ね。
あれを目の前で続けられるのは、たしかに目も耳も困る。
「なら、二人にしてくれるかい?」
直球。
邪魔だからどこかへ行けと言われたらしい。
天使がふっと息を吐いた。
「わかった。……行くぞ」
天使がわたしの横に並び、わたしたちは二人、星の海を歩き始めた。
追い出された格好だけど、でも、二人きりにしてもらったのかもしれない。
足元に星が敷かれている。踏んでも沈まない。触れているのに、触れていない。不思議な感覚だ。一歩ごとに、わずかに光が揺れる。わたしの足音に反応しているみたいだった。
天使の翼が、歩くたびにゆっくりと揺れる。白い羽が星の光を反射して、輝きを帯びている。大きな翼なのに、重さを感じさせない。むしろ、その存在が空気を軽くしているみたいだった。
空を見上げた。
ここからも蒼珠が、見えた。
なんでさっきは気づかなかったのだろう。蒼珠が動いているから?
大きい。こんなに大きく見えるなんて。
青い球体が、ゆっくりと回っている。表面に白い渦が見える。雲だ。海も見える。陸地も。あそこに、わたしがいた。佐原あやめとして、暮らしていた。
「……綺麗」
呟いた。
天使も、蒼珠を見上げている。瞳に、蒼珠の青が映っている。
「ああ」
短い返事だった。
しばらく、二人で歩いた。天使は何も言わない。わたしも、何を話せばいいのかわからなかった。でも、沈黙が苦しくない。ただ、そこにある。
それからふいに天使が言う。
「蒼珠に、行ってみたいか?」
美しい瞳がわたしを見つめている。金と琥珀が混ざり合って、ゆっくりと移り変わる。見つめられると、息をするのを忘れそうになる。
「うん。わたし、あの蒼珠で暮らしていたことがあるの。また、行ってみたい」
天使が立ち止まった。
わたしを見つめる琥珀の目が、大きく見開かれている。まつ毛が、わずかに震えている。
「暮らしていた……?」
声が、低くなった。確かめるような口調だ。
「そのときの名は?」
「ええと、あやめ。佐原あやめ」
天使の呼吸が、止まった。
目が、さらに見開かれる。唇が、わずかに開く。何か言いかけて、止まる。そしてまた、わたしを見つめる。
「そこから、内殻へ来たのか?」
「うん。あやめが事故に遭って、次に気が付いたら、イリスになってた。モノリスで祝福を受ける直前」
あやめのとき、天使の記憶は何もない。
天使はしばらく黙ってそのままわたしを見ていた。
何を考えているのだろう。
表情が読めない。驚いているのか、困っているのか、それとも――
わたしはただ、見とれるように天使の顔を見ていた。
金の髪が、星の光に揺れている。整った顔立ち。長いまつ毛。その下の、琥珀と金の瞳。
二人の間には、視線と沈黙だけがある。
やがて天使が、口を開いた。
「アイリス」
その呼び方に、急に、胸が熱くなった。
左目の奥が、じんわりと温かい。
「……その呼び方、好き」
思わず言ってしまった。ルミナリアの影響かもしれない。
言ってから自分でちょっとどぎまぎした。顔が熱い。
天使の目が、わずかに揺れた。
「……そうか」
低く穏やかな声。この声も好き。
夢の中でも、何度もわたしを呼んでいた。
そして、あの言葉も。
『……また……忘れて』
罪悪感が、胸の奥で疼く。
思い出せない。何も思い出せない。この人のことを、忘れている。
「……ごめんなさい」
「何を謝る」
「思い出せなくて」
天使は、黙った。
翼が、小さく揺れる。風もないのに。
それから、静かに言った。
「……おまえのせいではない」
「でも」
「人の命は、儚い」
天使が、蒼珠を見上げたまま続けた。
「おまえと私が一緒に過ごせる時間は、短い。待つ時間が、圧倒的に長い」
わたしは、天使の横顔を見つめた。
悲しそうに見えた。いつも、悲しそうだ。
「生まれ変わるたびに、おまえは忘れている」
声が、重い。
「虹の目は……おまえが生まれ変わった証だ。アイリスが生まれ変わったら、祝福で左目が虹色になる」
「……祝福?」
「ああ。私が、そうなるように願った」
天使の声が、かすかに震えた。
「だから、おまえを探せる。虹の目を持つ者を探せば、おまえに会える」
虹の目。
わたしの左目。
これが、天使の願いだった……。
「おまえは、忘れるから」
天使の声が、途切れそうになる。
「でも、今回、おまえは自分からここへ来た。嬉しかった。思い出したのかと思った。だがそうではなかった」
「会いたかったのはほんとうなの!」
「ああ、わかっている。けれど今のおまえには、手紙を出してすぐに無事を知らせたい、男たちがいる」
わたしは、何も言えなくなった。
そのとおりだから。
胸が苦しい。
「あなたの、名前を教えて」
天使が、わたしをじっと見た。
「私の名を、聞きたいか」
「……うん」
天使は、首を横に振った。
「言わない」
「どうして」
「思い出してほしいから」
その言葉が、胸に刺さった。
思い出したい。思い出したいのに、思い出せない。
天使が、また蒼珠を見上げた。
横顔が、切ない。
「アイリス。おまえは、前回も思い出さなかったよ。ずっと」
声が、落ちていく。
「そして最期、私の腕の中で、息を引き取るときにやっと思い出した」
息が、止まった。
天使の腕の中で。
最期のときに。
思い出した。
「次に巡り合うときは、きっと……おまえはそう言って、私の名を呼び、その目を閉じた」
天使の声が、震えている。
「そしてまた、おまえは忘れている……」
天使の声が、途切れた。
大きな涙の粒が、彼の頬を伝って落ちた。
涙は星の海に落ちて、光に溶けて、消えた。




