43.内殻の危機
長椅子に、四人がいた。
竜王が座って、その膝の上にルミナリアが横になっている。金と青に染まった髪が、竜王の膝から流れ落ちている。目を閉じて、静かに呼吸している。意識はない。眠っているみたいだった。
向かい側の長椅子に、わたしは座っている。わたしの肩にはピピ。
少し離れた椅子には、天使が座っていた。翼を畳んで、わたしをじっと見ている。
さっきまでの竜王とルミナリアの姿がまぶたの裏から離れない。美しくて、胸が詰まるような圧倒的な二人だった。思い出すと、どきどきする。
天使が、竜王に声をかけた。
「気を失うほど、口づけるやつがあるか」
竜王は、ルミナリアの髪を指先で払いながら、低く答えた。
「……魔力が溜まっていたからね」
「言い訳だ」
天使の声は、呆れているのか、非難しているのか、わからなかった。
竜王は何も言わず、ルミナリアの頭に手を置いた。優しく撫でる。その仕草が、思ったより柔らかかった。
彼女の金の髪の先は夜色に染まり、竜王の膝の上から流れ落ちている。
「ルミナリアが、自分の意思で自由に行動したのは、初めてだと思う……」
天使が、わたしを見た。それから、竜王を見て、低く言った。
「……最初の欲が、おまえか」
竜王は答えなかった。ただ、青い目を向けて、ルミナリアの髪を撫で続けている。
ルミナリアの顔は、穏やかだった。苦しそうでも、悲しそうでもない。ただ、安心しているみたいに見えた。
欲……。たしかにそうだ。ルミナリアは自分の気持ちそのままに動いた。
純粋さを持ったまま、自由に。自分で決めて。
天使が、ため息をついた。
「……で、どうするつもりだ」
「何を」
竜王が視線を天使に送る。
「この娘を」
「好きにする」
「好きに、か」
天使は、竜王をじっと見た。竜王は視線を外さない。
わたしは、何も言えなかった。口を挟む隙がない。
天使の姿をそっと見つめる。さっきまで、天使がわたしをずっと見ていたから、なんだかまっすぐ見ることが難しかった。
色が移り変わる金の髪色。天使が何かしゃべって動くたびに、周りの空気がつられてきらめいていくように見える。
長いまつげ。その下の琥珀と金の混ざる瞳。
ずっと寂しげだ。
わたしが思い出さないから。
わたしとこの人に何があったのだろう。
お互いの名前。過ごした日々。交わした約束。そんなものがきっとあったに違いない。
わたしを夢で呼んでいた人……。
どうして思い出せないのだろう。
そのとき、竜王がわたしを見た。
「イリス。おまえに、伝えておくことがある」
背筋が伸びた。
「はい」
「内殻は、光を失いつつある」
唐突な言葉に、息が止まった。
「……え?」
「彼がここに来てから、内殻の光は少しずつ弱まっている」
竜王は、天使に軽く目をやり淡々と続けた。
天使はわたしを見つめて黙っている。
「天使の力がなければ、内殻は闇に沈む。人は、生きられなくなるよ」
頭が真っ白になった。
光が、消える? 内殻が、闇に?
人が、生きられなくなる……。
「それは……いつから……?」
「もう何百年も前から、始まっている。人が天使を酷使して、私がここに彼を連れてきてからだね」
竜王の声は、変わらない。
「何百年……」
想像できない時間だった。
「光が弱まる速度は、加速している。おまえがここに来てから、内殻ではすでに数日が過ぎた」
数日……?まだ数時間のつもりだった。
「内殻の時が過ぎるのは速いからね」
ほんの少しの時間だと思っていた。
母さんは、どうしてる。
グレイは。レオは。サイラスは。
みんなどんなに心配しているか。
神殿にひとりで行ったことを後悔したのは、ついこの前のことだったのに。
またみんなを置いてきてしまった。
「わたし、帰らなきゃ」
立ち上がりかけた。でも、竜王が首を横に振った。
「帰っても、おまえには何もできないよ」
光のことは、たしかにわたしには何もできない。
だけど心配して待っている人たちがいる。
「でも……!」
「光を取り戻すには、天使とともに内殻に戻るしかない」
その言葉で、視線が天使に向いた。
天使は、わたしを見ていた。
瞳が、揺れている。
でも、何も言わなかった。
左目の奥が熱くなる。
涙になりそうで、上を向く。
この人を置いて、内殻に戻ることはできない。
もうひとりにできない。したくない。
思い出せなくても、そのことはわかる。
竜王が、静かに言った。
「イリス。おまえは、何がしたい」
わたしは――何が、したいの?
天使をひとりにはできない。
でも心配して待っている仲間をこのままにしたくない。会いたい。
だけど、天使を内殻に連れて行けば、人に利用されることになる。
どうすれば。
そのとき、ルミナリアが「ん……」と声を出した。
静かに目を開ける。
「わたくし……」
そしてゆっくりと体を起こし、竜王の顔を間近で見る。
「!――竜王様……」
一気に全部を思い出したのだろう。ルミナリアの白い顔がみるみる赤く染まっていく。
竜王が、またあの、辺りの空気を変えるような微笑みを浮かべた。
「起きたのかい」
その声を聞き、微笑みを目の前で見たルミナリアは、みとれるような沈黙の後、
「はい」と小さくうなずいた。
そのまま竜王の隣に、座りなおした。
竜王はすっとルミナリアの腰を引き寄せ、自分の身体に添わせる。
青と金が静かに混ざり絡み合っている。
ふたりの「形」はこうなったのだと、自然に心に落ち着いた。
竜王がルミナリアの耳元で何でもないことのように言う。
「ルミナリア。我が名は、セレノヴァルク」
天使が、一瞬驚いた目で竜王を見た。
もしかすると彼らの間では、名前を教えることには特別の意味があるのかもしれない。
わたしは、天使の名前を思い出せない……。
きっといまの竜王と同じように教えてくれたはず。
「セレノヴァルク、様」
ルミナリアは宝物のようにその名を繰り返す。
「おまえにひとつ、私の望みを言おう」
ルミナリアが、嬉しそうに「はい」と答える。
「二人のときは、セレンと呼びなさい。様は要らない」
ルミナリアが何か答える前に、天使が口をはさんだ。
「二人のときの話なら二人だけでやれ。ここでやるな。話の続きがまだだ」
……賛成。眼福だけど、目の毒な感じ。
ルミナリアがやっとわたしたちに気づいたようで、また顔を赤くする。
「天使様、イリス様、ごめんなさい。わたくし……大切なお話合いの途中なのですね」
「イリスがどうしたいのか、問うていた」
竜王が説明する。
天使がいないと内殻はやがて暗闇となり、人は滅ぶだろう、ということ。
内殻の時間の流れは速く、わたしたちがここに来てからすでに数日が経っていること。
わたしはまだ、忘れているはずのことを思い出せていないこと。
説明を聞いたルミナリアが、いつもの明るい顔に戻って言った。
「イリス様。グレイ様たちがどうなさっているか、気が気ではないのですね」
「うん。きっとまた、とても心配してる」
「では、ピピを飛ばしましょう。お手紙をつけて」
あ!
「その魔鳥がピピというのか?」
竜王の問いに、ルミナリアが頷いて説明をする。
「そうなのです。伝書鳥で、魔導士のサイラス様の魔力を核にため込んだとかで、モノリスの祝福を受けたのです」
「それはまた、珍しいことだね」
竜王がピピを見る。ピピがわたしの髪の後ろにそっと逃げ込んだ。
「翼があっても、祝福を受けた者以外はあの金の雲を通れないようになっているのだよ」
そうか、ふつうの魔鳥は入れないのね。
「不思議なものですね。あの、ですから手紙をつけてピピを飛ばせば、イリス様を待っている方々が安心すると思うのです」
そうしよう。とにかく無事だと、それを伝えたい。
わたしは手紙を書くことにした。
天使が複雑な目で見ていることに、そのときは気づかないまま。




