41.星の海
金色の雲が、わたしを飲み込んだ。
抵抗する間もない。体が引かれて、上下の感覚がわからなくなる。視界が回る。
そして、空中に放り出された。待って、待って!
投げ出された先は、夜。
星の夜だ。
足が浮いてる。落下してる。地面が遠い。このままじゃまずい。
必死に体を捻って、靴先を下へ向ける。空気をつかむように腕を開き、重さを散らす。膝を折って衝撃を逃がした。間に合った。
叩きつけられずに済んだ。でも、膝が地面に当たって、骨の芯まで痺れる。片手をついて、座り込む形になった。
肺が熱い。喉が痛い。息を整えながら、顔を上げた。
――ここは。
見渡す限り、夜と星だった。
群青の地面に、星が敷かれている。粒じゃない。近いのに遠くて、触れそうなのに届かない。空にも、足元にも、同じ密度で広がっている。
言葉にならず、口が動いた。
「これが……星の海……」
自分の声が、薄く響いて消えた。静かすぎる。呼吸の音が大きく聞こえる。
その静けさに、ひとつ、何かの気配がした。
斜め横。距離は近い。布が擦れるような、髪が触れるような、小さな音。
「……?」
首だけを動かす。
そこに、いた。
白い翼が大きく広がっている。背に収めきれないほどの大きさなのに、重さを感じさせない。
髪は金とも白金ともつかない色で、さらりと落ちていた。色がひとつに定まらない。目が勝手にそちらへ吸い寄せられる。
そして、瞳。
琥珀。金。白金。混ざり合って、ゆっくりと移り変わる。
彼は動かなかった。目を見開いたまま、わたしだけを見ている。
わたしもただ、見つめ返す。
どれくらいそうしていたのか、分からない。瞬きの回数が分からなくなるような時間。
先に、彼のほうが声を漏らした。吐いた音が、震えている。
「アイリス……」
名前が落ちた。確かめるような声音だった。
「……アイ、リス?」
自分の声が、自分のものじゃないみたいだった。
彼は、視線をほんの少しだけ落とした。笑う形になりかけた口元が、途中で止まる。
「あなたは……天使、よね」
返事の代わりに、まぶたが一度だけ揺れる。堪える仕草に見えた。次の言葉は、静かだったのに、重かった。
「……おまえは、わたしの名も、自分の名さえも、忘れてしまったのだね」
その声で、体のどこかが反応した。この声は、夢のなかのあの声。『……また……忘れて……』
息が引っかかって、うまく吸えない。
あなたが呼んでいたの。
わたしは、何を忘れているの。
なぜ、こんなに苦しいの。
何をどうすればいいんだろ。言葉が出ない。沈黙が落ちる。
天使の翼がわずかに揺れる。
その静寂が、急に破られた。
「イリス様ー!」
声が響いた。遠くから。星の粒が揺れるみたいに音が伝わってくる。
顔を上げた。
星の海の向こうから、走って来る姿が見える。金色の髪が揺れて、白い服の裾がはためいている。
「ルミナリア!?」
立ち上がろうとして、膝がまだ痺れていた。片手をついたまま、見る。
ルミナリアが走ってくる。両手を振って、笑顔で。怪我ひとつないみたいに元気に。
「イリス様ー! よかったー!」
ルミナリアが抱きついてきた。勢いで少しよろける。
「心配しました! 離れたところに落ちたみたいで、探したんです!」
「ルミナリア……怪我は?」
「ありません! 大丈夫です!」
にこにこしている。息も切らしていない。どれだけ走ってきたのか分からないのに。
「イリス様は、あ、お怪我を!」
そう言ってわたしの膝にルミナリアが手を当てる。指先のぬくもりが広がった。痛みがすーっと消えていく。
「ありがとう。ルミナリア。助かった」
「わたくしのお役目ですから。いつでも言ってくださいね」
そう言ったルミナリアの視線が動いた。
天使を見た。
目が、輝いた。
「まあ! 天使様ですね!」
ルミナリアが駆け寄る。テンションが跳ね上がっている。止まらない。
「お会いしたかったんです!」
天使は少し驚いた顔をした。表情が動くのが、わたしより先だった。
「わたくし、ルミナリア・アリアと申します!」
綺麗な所作で軽く膝を曲げて挨拶をする。丁寧なのに、勢いがある。
「ここが星の海なのですね! 本当に美しい! 天使様も、イリス様に会えてよかったですね!」
息継ぎがない。言葉が次々出てくる。
でも、ルミナリアの言葉を聞いた天使の目が、わずかに伏せられた。
ルミナリアの言葉を遮るみたいで申し訳ないけど、言わなきゃいけない。
「ルミナリア……あのね、わたし、思い出せないの」
ルミナリアの言葉が止まった。
「え?」
「天使のことも、たぶん、自分のことも」
ルミナリアは一瞬だけ黙った。目が丸くなる。でも、すぐ笑った。優しく。
「そういうこともありますよ」
わたしの手を取った。温かい。
「思いつめないで。イリス様は、イリス様です」
それから天使を見る。
「天使様も、いま会ったばかりです。焦らないで。いつか、きっと思い出します」
ルミナリアの目線が逃げない。言葉が真っ直ぐで、疑いがない。
天使は何も言わなかった。小さく頷いただけ。その仕草が、重く見えた。
そのとき――
「ピピピッ!」
小さな声。空から。
見上げると、白い小鳥が飛んでいた。
「ピピ!」
手を伸ばした。
ピピがわたしの肩に止まった。軽い。爪が服を掴む感触が懐かしい。
「ピピ、無事だったんだ!」
指で撫でた。柔らかい羽。小さな体。ピピが首を傾げて、ぴっと短く鳴いた。
真ん中の目が、青紫。サイラスと同じ色だ。
ルミナリアが、ぱっと顔を上げる。
「天使様! 竜王様にも、お目にかかりたいです!」
天使が、ルミナリアを見た。
「……わかった」
天使が立ち上がった。翼を広げる。
星の光を纏って、背中全体が光の帯みたいになる。
「ついておいで」
天使が歩き出した。
わたしたちは、その後を追う。
竜王の城へ。




