40.おまえに翼をやろうか
【サイラス視点】
王都に戻り、リディアをオルテガ商会へ送り届けた。
商会の門は高く、出入りの人間も多い。荷車が行き来し、帳面を抱えた男が走り、店先では客が声を張る。いつもの王都の朝だ。
だが門をくぐった瞬間、空気の張りが変わった。奥へ通される導線が整っている。兵団の兵舎とは違う、商会の秩序だ。
奥の応接で、オルテガが娘の姿を見た。
視線が一度、全身をなぞる。怪我の有無、足取り、顔色。確認し終えてから、ようやく息を吐いた。肩が下がるのが分かる。
次に、左目。
リディアの左目――明るい青緑を見て、オルテガは目を細めた。
「美しい色だ」
声は低い。交渉の声じゃない。
「国王陛下の瞳に近い。誇りに思うといい」
リディアは小さく笑い、頷いた。笑みは控えめだが、目は落ち着いている。昨日までの彼女より、少しだけ芯がある。
礼を済ませ、俺たちは商会を出た。門を抜けると、また王都の音に戻る。呼び込み、馬の蹄、荷車の軋み。人の生活が、当たり前のように回っている。
「これからどうする?」
グレイが聞く。
「兵舎に戻って、団長に報告だな」
レオが腕を組む。
「イリスのことも」
俺は右目に指を当てた。
うずく。視界の端がわずかに濁る感じがする。鏡を見なくても分かる。黒い色が出ている。覇王の色だ。
「……俺は、行くところがある」
二人の視線が揃う。グレイは表情を動かさず、レオは眉を上げた。
「どこへ?」
レオが聞いた。
「覇王のところだ」
グレイの目が細くなる。警戒というより、判断に入った目だ。
「一人で?」
「ああ」
「危険だ」
短い。それ以上はいらない。
「わかってる」
杖を握り直す。手の中で位置を決めるだけの動作なのに、意識が落ち着く。
行く理由を言葉にするのは、好みじゃない。だが、ここは言う。
「呼ばれている。行かなければならない」
右目を見せた。
これが合図だ。来い、と言っている。
グレイは一拍置いてから頷いた。
「……わかった。気をつけろ」
「ああ」
レオが拳を俺の肩に軽く当てた。力は入っていない。確認だけだ。
「無茶すんなよ」
「心得てる」
俺は二人と別れた。
---
王都を離れ、山へ入る。三日。休む回数は必要最低限にした。
道は覚えている。足の置き方も、地面の硬さも、木々の間の抜け方も。前回ここへ来た時と同じだ。
妙に静かだった。
獣の気配が薄い。鳥の声も途切れがちで、草むらの擦れる音すら少ない。こちらが速く歩いているからではない。空気がそういうふうに作られている。俺はそう感じた。
覇王の城に着いた。
一切、魔獣に遭わなかった。
遭遇しないのが幸運ではなく、そうなるように通されたのだと分かる。途中で迷う余地も、寄る余地もない。
城の奥へ進む。
広い。足音が返る。壁は冷たく、飾りは少ない。いるべき者だけがいる場所だ。
玉座に、以前と同じように覇王がいた。
黒い髪。
黒い瞳。
表情が動かない。視線だけが真っ直ぐで、外さない。
「来たか」
覇王が俺を見る。
「……ああ」
「右目が導いたか」
「そうだ」
覇王は視線を外さない。俺の右目を見ているのか、俺自身を見ているのか分からない。
「なぜひとりで来た。イリスはどこだ。虹目も反応しない」
「だから俺を呼んだのか。イリスは星の海へ行った」
「……そうか。もう行ったのか」
声が、わずかに落ちた。理由までは分からない。だが、喜んではいない。
俺は一歩前へ出た。距離を詰める。ここでは、回りくどい確認は不要だ。
「なぜ俺を呼んだ」
覇王の目が暗くなる。
「虹目のイリスが天使と会ったら……ふたりとも戻らないかもしれない。俺はそれを懸念している」
胃のあたりが固くなる。
可能性としては、あり得る。だが、他人の口で言われると意味が違う。
「だが、気づいた」
覇王は続けた。
「事実を伝えればよい。あの娘は今、天使よりも、おまえたち仲間を大切にしているように見えた」
事実――と、覇王は言った。
「天使がいないと内殻はいずれ暗闇となる。そのことを伝えれば、あの娘は天使とともに戻るだろう。そう思って呼んだ。だが……遅かった」
「……内殻が暗闇に?」
「ああ。天井の明るさは天使が作った」
覇王は言い切る。推測ではなく、知っている言い方だ。
「天使がいなければ、いずれ消える」
「消えたら」
「人は暮らせない」
淡々と断言する。
王都の天井。ゼロの村の天井。あの明るさがなくなった後の生活を想像しようとして、うまくできない。想像が追いつく前に、結論だけが来る。
「いつ消える?」
「わからん。すぐではない。ゆっくり薄れていく」
そして、平然と言った。
「俺にはどうでもいいことだ。天使に会えれば、それでいい」
俺は唇を噛んだ。
この男の関心は内殻にない。人にもない。天使だけだ。そこは最初から変わっていない。
なら、こちらも要点に戻す。
「聞きたい」
「何だ」
「金の雲――星の海へ、どうすれば行ける?」
覇王は迷わない。
「飛べばよい」
黒い瞳が、少しだけ細くなる。条件を提示する時の目だ。
「おまえに……翼をやろうか?」
「翼?」
「ああ。俺の力で、おまえに翼を与えられる」
覇王の声は静かだ。静かだから、断りづらい。断れば終わりだという意味が含まれている。
「だが、おまえは人でなくなる」
息が止まった。
「人で、なくなる……?」
「ああ。この外殻で生きていくがいい」
覇王は感情のない声で言う。
――言い切ったあと、ふと黙る。
黒い瞳が、俺の顔をじっと測る。逃げ道を探しているのか、折れる箇所を探しているのか。視線だけでやる。
「……翼ができたら」
覇王が、低く続けた。
「この城で暮らしてもいい」
“戻れない”を突きつけた口で、“居場所”を差し出す。
俺は返事が遅れた。
「俺の目の届くところに」
覇王の真意を探ろうと顔を見たが、妖しく口角をあげるだけで、感情は何も見せない。
罠なのか、取引なのか。
翼を得れば、星の海へ行ける。
イリスのところへ行ける。
内殻のことも、天使のことも、直接ぶつけられる。
ルミナリアも、ピピも――追える。
だが、人でなくなる。
戻れない。切れるものが出る。
イリスが知ったら、どうする。
俺が戻れないと分かったら、それを背負うのか。背負わせたくない。だが、背負わせない道があるのか。
覇王が問う。
「……どうする?」
俺は答えられなかった。
選べない。
どちらも、選べない。




