38.金の雲
【リディア視点】
わたしの成人の儀は、無事に終わった。
左目は青緑――明るく澄んだ色になっている。
お父様は、どんな色でも喜ぶだろう。けれど、国王陛下の稀色に近いとなれば、きっと声の調子が違う。商会の帳簿を閉じる手まで軽くなるはずだ。
親孝行をした気になる。少しだけ。
――でも今は、それどころではない。
わたしは金色の雲を見上げたまま、立ち尽くしていた。
揺れているのに、流れていかない。雲という言葉を当てるほうが不自然なものが、空の高いところに止まっている。
星の海の入口。
竜王様の宮殿がある場所――イリスが行かなければならない場所。
「……どうやって、上に行くんだろう」
思わず口に出すと、グレイ副団長が腕を組んだ。
「兵団の昔話として聞いた」
声は低いのに落ち着いていて、話の端がぶれない。
「この金の雲に何があるのか、調査隊が出た。足場を作って登ろうとした」
「足場……?」
「ああ。資材を運び入れてな。だが、その足場は倒れた」
副団長は雲を見上げる。見上げ方に感情が混じらない。
「何度やっても崩れる。金の雲には、たどり着けなかったと」
イリスが眉をひそめた。
「人の力では、届かないってこと?」
「そうかもしれん」
レオが首を傾げる。
「ピピなら、あそこまで飛べるんじゃないか?」
その瞬間、ピピが「ピピッ」と鳴いて逃げた。
小さな白い体がひらりと舞って、モノリスの上にちょこんと止まる。
――かわいい。
場に似つかわしくない感想が浮かんでしまった。けれど次の瞬間、その可愛げが消える。
ピピの目が、妙に強く光った。
「ピピ!」
わたしが呼ぶより早く、みんなの視線が集まる。
ピピはモノリスから飛び、サイラスの肩へ縋りつくように止まった。
「大丈夫か?」
レオが身を屈める。覗き込んだ顔が固まった。
「……ピピの目が」
縦に並んだ三つのうち、真ん中の目が変わっていた。
青紫。サイラスの左目と同じ系統の色に見える。
「なぜ……」
サイラスが、はっきり驚いた顔をした。
この人の表情が動いたのを、わたしは初めて見た気がする。
サイラスはピピを手のひらに乗せ、落ち着かせるように目の周りや羽の根元を確かめた。
ピピは小首を傾げて、じっと彼を見返している。
「核が染まったのでは――と、団長が言っていたな」
グレイ副団長が思い出すように言う。
ルミナリアが頷いた。
「そうです。ピピのオーラは、サイラス様と同じ色合いです」
「なら、その影響で……モノリスに触れて祝福を得たのかもしれん」
サイラスは数息、何も言わずにピピを見ていた。
やがて、納得したのか諦めたのか、表情が静かに戻る。
「目の色以外は、変わっていないようだ」
ピピはもう一度小首を傾げ、ぴっと短く鳴くと、サイラスの黒髪の中へ潜り込んで隠れてしまった。
安心したのか、いつもの場所に戻っただけなのか。判断がつかない。
サイラスが息をひとつ吐き、金色の雲を見上げた。
「……試してみる」
杖を構える。
彼が前に出ると、空気の張りが変わるのが分かる。
「契約執行――氷柱」
地面から氷の柱が伸びた。
真っ直ぐに、迷いなく。高さだけが増えていく。
わたしは言葉を失って見上げた。
このまま雲に届くのか、と――期待が浮く。
でも。
バキン。
途中で、柱が砕けた。
無数の破片が落ちて、地面に散る。冷たい音だけが残った。
「……無理か」
サイラスが杖を下ろす。声が短い。悔しさを言葉にしない。
イリスが、自分の滑走靴に視線を落とした。
「わたしが飛んで、偵察してくる」
「イリス」
副団長が呼ぶ。低い声だ。止めるための声。
「危険だ」
「大丈夫。ちょっと見てくるだけ」
イリスは靴を起動させた。
ふわりと体が浮く。あの軽さは、見ている側の胸を落ち着かせない。
「すぐ戻る!」
イリスが上がっていく。
金色の雲へ、一直線に近づいていく。
わたしは、無意識に指を握りしめていた。
商会で値切り合いをしている時の手ではない。勝手に固くなる。
――大丈夫。イリスは、戻ってくる。
そう思おうとした、その瞬間。
イリスの体が、ぐっと引かれた。
「え!?」
声が遠い。
体が抵抗する暇もなく、金色の雲がイリスを飲み込む。
「イリス!」
レオが叫ぶ。
でも距離がある。伸ばした手は届かない。
イリスは、雲の中へ消えた。
「イリス様!」
ルミナリアが叫んだ。
次の瞬間――彼女が、地面を蹴った。
トン、と音がしただけだった。
跳んだというより、跳ね上がった。細い体が勢いよく持ち上がり、金色の粒が遅れて追いかける。
「ルミナリア!?」
わたしの声が裏返る。
ルミナリアは上を見る。目を逸らさない。
そして、そのまま――勢いを増して一直線に昇っていった。
「待て!」
グレイ副団長が飛び上がる。
レオも地を蹴る。でも、届かない。速すぎる。
触れる前に、ルミナリアは雲へ吸い込まれて消えた。
「くそっ!」
レオが拳を自分の手に叩きつける。
怒りというより、置いて行かれた焦りが音になる。
サイラスが、肩のあたりに手を入れた。
黒髪の中からピピが顔を出す。
「行け」
短い命令。
ピピが「ピピッ」と鳴き、飛び立った。
白い羽が空を切る。小さな影が雲へ向かう。
そして、吸い込まれるように消えた。
「……ピピ」
サイラスが小さく呟いた。
その声は、抑えているのに硬い。
わたしは雲を見上げた。
金色の雲は揺れているだけで、何ひとつ変わらない。
イリスも、ルミナリアも、ピピも見えない。
空だけが広い。
「……どうしよう」
自分の声が震えて、驚いた。
グレイ副団長が静かに言う。
「待つしかない」
「待つって……」
「イリスは、必ず戻ってくる」
確信に満ちた声だった。
根拠があるのか、信じているだけなのか――どちらでも、今はその言葉が必要だった。
「信じろ」
レオも頷く。
「イリスは強い。大丈夫だ」
サイラスは何も言わない。
ただ空を見上げたまま、動かない。怒っているのか、考えているのか、どちらにも見えた。
わたしは祈った。
商会の娘が祈りを口にするのは、あまり得意じゃない。それでも。
――イリス。ルミナリア。ピピ。
――どうか、無事で。
金色の雲は、静かに揺れ続けていた。




