37.リディアの成人の儀
朝早く、わたしたちはゼロの村を出た。
母さんの朝ごはんを食べて気分よく歩き出す。
馬車と馬は村に置いていく。今日は歩きだ。
「今日中に戻る」
グレイが短く言って、村の門番に伝えた。
メンバーは、リディア、ルミナリア、グレイ、レオ、サイラス、ピピ。そしてわたし。
ピピはサイラスの肩に乗って、首を傾げたり戻したりしている。
「徒歩でモノリスって、想像より近いのね」
リディアが言った。
「村からなら数時間だ」
レオが前を歩きながら振り返る。
「途中で休みたくなったら言えよ。無理するな」
「わたしは大丈夫です」
ルミナリアが即答した。声が明るい。けれど背中は小さくて、歩幅がわたしより少し短い。
リディアも同じだ。商会の娘が山道に慣れているわけがない。
洞窟へ向かう道に入ると、空気がひんやりしてきた。
入口の前で、グレイが一度だけ周囲を見回す。目の動きだけで済ませて、すぐ歩き出す。
洞窟の中は螺旋状に続いていた。壁の苔が淡く道を照らしている。
上りは息が切れる。リディアが靴の先で小さく石を蹴って、よろけかけた。
「おっと」
レオが近くにいた。手を差し出して、リディアの肘を支える。
支え方が軽い。持ち上げない。倒れないところで止めるだけ。
「ありがとう」
リディアが笑う。
「レオって、ほんとに自然なのね」
「自然ってなんだよ」
レオが照れたように言い、すぐ前を向く。
ルミナリアも段差で足を滑らせかけた。今度はわたしが手を伸ばす前に、レオがさっと手を取っていた。
「大丈夫です。ありがとうございます」
ルミナリアはきちんと頭を下げる。
サイラスは会話に入らない。歩く速度も変わらない。
ピピだけが、ときどき彼の頬の近くで小さく鳴く。
分かれ道が見えてきた。石板の矢印が並んでいる。
レオは迷わず進む。グレイも同じ方向へ足を向けた。
わたしは少し遅れて、矢印を見上げた。
この道は、きっともう少し王都に近い入口からでも繋がっているはずだ。洞窟は広くて、枝分かれが多い。
それでもグレイは、わざわざゼロの村に寄った。
母さんに会わせてくれた。
それだけで、胸のどこかが落ち着いているのが分かる。
やがて洞窟の出口が見えた。
「止まるな」
グレイが言った。声は低いけれど、きつくない。
「出た直後が一番見られやすい」
レオが先に出て、短く手を上げた。
「問題なし」
順番に外へ出る。
少し歩くと、遠くに蒼珠が見えてきた。内殻の天井とは違う、広い空の下で、蒼珠は青く浮いている。
「……これが」
リディアが立ち止まった。
目が丸くなる。
「これが蒼珠……」
彼女は一歩、また一歩と近づくみたいに歩いた。
「なんて……すごいの」
リディアは息を吐いた。吐いた息のほうが震えている。
ルミナリアも蒼珠を見上げた。笑顔なのに、今日は目が動かない。じっと見ている。
グレイとレオは周囲を警戒しながら、自然に先導の位置を変えていく。守りの形が整っていくのが分かる。
サイラスは蒼珠を見ていない。地面の石や草の状態を見ている。視線の使い方が違う。
ルミナリアが、蒼珠を見上げたまま言った。
「……オーラを感じません」
「え?」
わたしは彼女の横顔を見る。
「どうしたの?」
「蒼珠には、人のいるオーラを……感じないのです」
ルミナリアは困ったような顔をした。困っているのに、声は落ち着いている。
「遠くてもわかるの?」
わたしが聞くと、ルミナリアは頷いた。
「ええ。あまりに少ないと、わからないこともあるかもしれません。でも……蒼珠は、とても大きいのに」
意味が追いつかない。
蒼珠は人の世界。そこに人がいない、なんて。
サイラスが横から言った。
「蒼珠には人がいないってことだろ」
「そんなこと……ある?」
口から出た声が自分でも頼りない。
「むしろ、なぜ人がいると思うのかのほうが不思議だ」
サイラスは淡々と言った。
ルミナリアの金の目は、見えるものが多すぎて、こちらが追いつけない。
そのとき、グレイが立ち止まった。
レオも同じところで足を止める。
二人の視線が、空の高いところへ向いていた。
「……あれだ」
レオが言った。
金色の雲みたいなものが、遠くの空に滞っている。
内殻で見たのと同じ形。揺れているのに、流れていかない。
「あった」
グレイが短く言った。
「行くぞ」
歩きながら、リディアがぽつりと言う。
「蒼珠の色が……竜王様の色に近い、って」
ルミナリアがすぐ頷く。
「絵姿の色合いは、蒼珠の色とよく似ていらっしゃいます」
歩きながら、言葉が勝手に出た。
「わたし、竜王のところに行かなくちゃいけない」
ルミナリアが振り向いた。
「天使様に会いに?」
「そう」
わたしは頷いた。
「天使は竜王の宮殿にいるって、覇王も言ってた。でも……どこにあるのか、どうやって行けばいいのか、まだ分からない」
「覇王様は具体的には、どんなふうに?」
リディアが聞く。目が真剣だ。予知夢を見る子の目をしている。
「竜王の宮殿は、星の海にあるって」
わたしは言ってから、言葉の響きを自分で確かめる。
「星の海……」
ルミナリアが微笑む。
「きれいな響き。どこにあるのでしょう」
サイラスが言った。
「この外殻だろ」
「え!?」
思わず声が出た。
「そんなこと言ってたっけ?」
「言い方は違ったが」
サイラスは前を見たまま言う。
「蒼珠がきれいに見える場所、とも言っていた。指さしていた方向も下ではなかった。なら外殻だ」
わたしは口を閉じる。
納得するしかない。サイラスの推測は、いつも筋が通っている。
そのとき、前方の草むらが揺れた。
魔獣だ。犬のような。
あのとき。わたしがこの世界に来てすぐにこのあたりで遭ったのと、同じ種類の魔獣。
懐かしい、なんて気持ちまでしてくる。
わたしはリディアとルミナリアの前に立った。
サイラスも一歩ずれて同じ列に入る。杖を構えない。構える必要がない顔をしている。
「動くな」
グレイが低く言った。
レオが前へ出た。
剣を抜く音が短い。
魔獣が跳んだ。
レオの剣が横に走る。切るというより、弾くみたいな動き。
続けてグレイが入り、もう一体を落とす。音が少ない。視界に入る黒い血も少ない。見せないように処理しているのが分かった。
リディアが息を止めていた。
ルミナリアは目を大きくして、でも叫ばなかった。叫べないんじゃない。状況を見ている。
「お二人とも、お強いですね」
ルミナリアが言った。声が震えていない。
「本当に……お願いしてよかった」
リディアも言う。ほっとしたのが分かる。
「ルミナリアの癒しの出る幕がないね」
わたしが言うと、ルミナリアは少しだけ口元を上げた。
「出番がないのは、良いことです」
グレイが剣を収めた。
「進む」
やがて大きなクレーターの縁が見えた。
下りは足にくる。リディアが慎重に足を置くたび、レオが自然に近くにいる。近すぎない距離で。
クレーターの底に黒い板が立っている。
モノリス。
近くで見ると本当に小さい。静かで、無言で、そこにある。
「これがモノリス……」
リディアが言った。
「小さいのね、案外。それに……ここからだと蒼珠が見えない」
クレーターの壁が蒼珠を隠している。
さっきまで見えていた青が消えた。視界が急に狭くなったような気がした。
「成人の儀は、ここだ」
グレイが言った。
「リディア。手順は分かってるな」
リディアは頷いた。
歩いてモノリスの前に立ち、目を閉じる。
その背中が小さい。けれど、逃げていない。
少し間があって、リディアがゆっくり振り向いた。
目を開けるのが怖いのは、わたしも知っている。全員が黙ったのは、それが同じだからだと思う。
「……わたしの左目は、何色?」
リディアが聞いた。声がかすれていないのがすごい。
リディアの左目が変わっていた。
明るい青緑。透けるような色で、青が先に来て、緑があとから追いかけてくる。
ターコイズブルー。
わたしの頭の中で、その名前が浮かんだ。
「とてもきれいな青緑よ」
わたしが言うと、リディアの唇が少しだけ動く。笑おうとしているのに、まだ信じきれない顔。
「王の瞳と似ている」
グレイが言った。
「王よりも明るいが」
リディアが肩の力を抜いた。
「……よかった」
ルミナリアが、両手を胸の前で揃えた。
「とても澄んでいます。リディア様に、とても似合います」
レオが拳を軽く握って笑う。
「やったな」
サイラスは何も言わない。けれどリディアの目を一度だけ見て、小さく頷いた。それで十分だった。
「じゃあ帰ろう」
わたしが言うと、ルミナリアが不意に空を見上げた。
「帰りは……金の雲がないから、目印がなくて大変ですね」
彼女の声は心配というより、確認だった。
「大丈夫だ」
レオが言った。
「俺がわかってる。グレイもいる。逆でも安心しな」
その言葉に、サイラスが足を止めた。
「どうした?サイラス」
レオが聞く。
サイラスは空を見上げた。
金色の雲の位置。クレーターの縁。ここから見える角度。
「目印」
サイラスが言った。
「この金の雲のようなもの……」
「モノリスがわかるような目印なんだろうな」
レオがさらっと言う。
サイラスは、レオを見た。
「逆でも、と言ったな」
「言った」
レオが頷く。
グレイが一歩近づいた。
「サイラス。言ってみろ」
サイラスは少しだけ黙ったあと、言った。
「モノリスのために目印があるのではない。金の雲の下だからモノリスがある。逆だとしたら――」
「?」
わたしの頭が遅れる。
「どういう意味?」
ルミナリアが、ぱっと顔を上げた。
「ああ、ほんとに……!」
彼女の視線が雲の向こうへ伸びる。
「金の雲の位置からなら、蒼珠もとてもきれいに見えそうです」
レオが目を見開いた。
「……あの金の雲が、星の海の入口ってことか!」
全員が、同じ方向を見上げた。
金の雲は揺れているのに、その場所から動かない。
「まさか」
リディアが言った。声が小さい。
「こんなところに」
わたしが続けた。
モノリスは小さい。
でも、この場所は小さくない。
わたしの左目が、じわっと熱を持った。
天使がいる場所への道。
行き先が、突然現れた気がした。




