35.護衛任務
出発の朝。
兵舎の門前に、馬車が停まっていた。
濃い緑の塗装。扉に、オルテガ商会の紋章。
御者の服まできちんとしていて、馬も艶がある。馬車だけが、ここだけ別の場所みたいに整って見えた。
「立派……」
思わず声が漏れる。
オルテガさんが先に降りて、こちらへ歩いてきた。
「今日はよろしく頼みます。私が同行できず、申し訳ない。リディアを頼みます」
「お任せください」
グレイが短く返す。
その言い方だけで、オルテガさんの肩が少し軽くなったのが分かった。
馬車の窓が開いて、リディアの顔が出る。
「イリス!」
いつものように茶色の髪を結い上げている。つぶらな黒い目をした予知夢の少女。大きな商会の娘。
でも、わたしに向ける声はずっと変わらない。
「おはよう。イリス、一緒に乗りましょう」
「うん。ルミナリアも一緒に」
ルミナリアは、嬉しそうに頷いた。
馬車に乗り込むと、中は外よりさらに整っていた。
柔らかい座席。窓の布。床の敷物。匂いも、変に甘くなくて落ち着く。
「まあ……!」
ルミナリアが目を輝かせる。
「こんな馬車、初めて乗ります。座っていいんですか?」
「もちろんよ。隣に座って」
リディアが、自然にそう言った。
ルミナリアは目を見開いて、それから笑顔になってすっとリディアの隣へ腰を下ろした。
そのあと、サイラスも乗り込んできた。
杖を軽く立てるみたいにして、わたしの隣に座る。
「魔導士のサイラスだ。よろしく頼む」
口調はいつも通りで、表情も動かない。
でも、リディアは落ち着いた声で返した。
「こちらこそ。来てくれて嬉しいわ」
サイラスの髪の毛の中から白い小鳥が顔を出した。
「ピピピッ」
「こっちはピピ。魔鳥だが兵団の伝書鳥だ」
サイラスが言う。
「まあ、かわいい!」
リディアが年相応の少女らしさで両手をあわせる。
馬車が動き出す。
窓から見える外では、グレイとレオが馬に乗って並走していた。
兵団の馬は黒くて大きい。背中に乗った二人が、遠目でも目立つ。
レオがこちらを見て、明るく笑った。
グレイは前を向いたまま、たまに視線だけ周囲へ流している。動きが少ないのに、隙がない。
しばらく、揺れに身体が慣れるまで黙っていた。
それからリディアが、小さく言う。
「神殿のこと……聞いているわ」
「……うん」
「それに、夢で少し見た」
その言葉の温度が、わたしの喉の奥を撫でた。
責めるでも、慰めるでもない。「知ってる」だけ。
「大変だったでしょう」
「……でも、大丈夫。みんなが助けてくれたから」
ルミナリアが、こくこく頷く。
「イリス様は、素敵な仲間に恵まれていますね」
素敵。
その言葉が、まっすぐすぎて少しだけ苦しくなる。
間を埋めるみたいに、リディアが話題を変えた。
「ねえ。成人の儀って、どんな感じだった?」
「……驚いた」
左目に、指がいきそうになるのを止める。
「でも今は、これでよかったって思う」
リディアが、ほっとしたみたいに微笑む。
「わたしももうすぐね。どんな色になるのか、楽しみで……ちょっと怖い」
「リディアなら、きっと似合う色になる」
ルミナリアが、思い出すように言った。
「わたしが金色になったときは、みなさまが喜んでくださいました。だから、わたしも嬉しかったです」
喜ばれることが嬉しい。
それを迷いなく言えるのが、ルミナリアらしい。
リディアが、くすっと笑う。
「金の目って、綺麗。……天使様の絵の目も、金に近いでしょう?」
「うん。琥珀に金が混ざってる感じだった」
絵姿の天使は、魔獣の見せた幻とよく似ていた。
「覇王様の絵も見たことがあるけれど、真っ黒な感じだったわ」
リディアが続ける。
わたしは覇王の顔を思い出す。ちらっとサイラスを見たけれど、前を向いたままだった。
「覇王の目は黒だった。黒いのに、石みたいに硬く見えた。輝いてた」
「わたくしも、絵でしか見たことがないのです」
ルミナリアが身を乗り出す。
「法王様の黒っぽい灰色とは……違うのでしょうか」
「全然違う」
それだけは迷わず言えた。
サイラスの視線が一度だけこちらへ来て、すぐ窓の外へ戻った。
何も言わない。いつも通り。
ルミナリアが、ぽつりと言う。
「竜王様のお目は……絵では青いのです」
「青?」
リディアが聞き返す。
「海の青、と説明が添えてあります」
ルミナリアは、指先をそろえるみたいに膝の上で揃えた。
「星の海とは……そんな青なのでしょうか」
海。
この世界に、その言葉が似合う場所は思い浮かばない。けれど、青は分かる。
「たぶん、蒼珠の色じゃないかしら」
そう言うと、ルミナリアの顔がぱっと上がる。
「蒼珠の色……!」
「うん。深くて、透明で……見ていると引き込まれるみたいな青」
言ったところで、左目の奥が小さくうずいた。
わたしが黙ると、ルミナリアも黙った。
その沈黙が不自然じゃないのが、少しだけありがたい。
わたしたちは、宿場ごとに馬を替えて進んだ。
女子の話は楽しかったけれど、三日目になると馬車の揺れが眠気を連れてくる。
わたしは飽きてきた。
窓の外。
高い位置から見る景色が恋しくなる。身体が勝手に軽くなりたがる。
「ねえ、サイラス」
「ん」
「……飛びたい」
言った瞬間、サイラスが即答した。
「だめだ」
「え」
「護衛任務中だ。余計なことをするな。おまえが飛ぶと、そちらも気にする必要が出る」
淡々としてるのに、ぴしっと刺さる。
ルミナリアが、明るい声で口を挟んだ。
「サイラス様は、イリス様のことが心配なのですね」
火の玉みたいにまっすぐ。
サイラスが珍しく言葉に詰まり、視線だけ動かした。
そのとき、窓の外から声が飛んできた。
「イリス! そろそろ退屈だろ!」
レオが馬の上から覗き込んでいる。
「休憩で、馬に乗せてやる!」
「ほんと!?」
身体が勝手に起き上がる。
サイラスが、目だけで「やめろ」と言ってくる。
わたしは見ないふりをした。
休憩地点。
馬車が止まり、荷を整える間に、わたしはレオの馬の横へ行った。
「乗れ!」
レオが手を伸ばす。
わたしはその手を取って、後ろにまたがった。
馬の背は高い。
地面が遠くなっただけで、胸が少し軽くなる。
「どうだ」
「……最高」
言ったら、レオが笑った。
そのまま、馬車に戻らず、レオの馬に乗せて行ってもらうことになった。
馬車の横を走る。
進むほどに景色が変わっていく。
馬の体温と揺れが、心臓の速さを整えてくれる。
前を行くグレイが、振り返った。
視線が一瞬、わたしの位置を確かめるみたいに止まって、すぐ前へ戻る。
次の休憩で、グレイがレオを呼んだ。
「レオ」
声が低い。
「ゼロの村が近い。前衛を任せる」
「俺が?」
「ああ。イリスは俺の馬で、後ろを固める」
レオは一瞬きょとんとして、それからすぐ頷いた。
「わかった!」
わたしは、言われるままグレイの馬へ移った。
「よろしくお願いします」
「ああ」
短い返事。
でも、馬の横に立つだけで、空気が落ち着く。
「しっかり捕まれ」
「はい」
馬にまたがり、恐る恐るグレイの腰に手を回した。
背中が広い。動かない。指先が触れたところが、落ち着かない。落ち着かないのに、いるだけで安心してしまうのが悔しい。
馬が動き出す。
揺れに合わせて、わたしの身体がわずかに前へ寄る。
「……大丈夫か」
グレイが、小さく聞いた。
「大丈夫」
声が少しだけ高くなった気がして、咳払いで誤魔化した。
グレイは何も言わない。けれど、手綱を握る腕の角度が少しだけ変わって、揺れが丸くなる。
「イリス」
「はい?」
「ゼロの村に寄る。母親に会っておけ」
一瞬、胸が詰まった。母さん!
「……はい」
嬉しい、って言ったら子どもみたいになる気がして、喉の奥で止めた。
でも、返事に全部混ざってしまったかもしれない。
やがて、三日目の夕方、ようやくゼロの村の門が見えた。
石造りの家々。
洞窟の入口に向かうあの道。
「……ゼロの村だ」
言葉が、勝手に小さくなる。
門が見えた。見張りがこちらに気づいて声を上げる。
「おい、あれ……レオか!?」
「グレイもいる! イリスまで!」
声が村の中へ走っていく。
懐かしさが、胸の奥でほどける。
グレイの背中の向こうで、村の門が開いた。
わたしたちは、そのままゼロの村へ入った。




