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34.聖女ルミナリア

「天使様は、とてもお美しいのです」


 ルミナリアは嬉しそうに言って、話し始めた。


 彼女は、話している間も手を止めない。髪を整え、シーツの端を引いて皺を消し、兵団の毛布を丁寧に畳む。薄くて頼りない布なのに、指先が触れるだけで形が整っていく。

 その指が、やけにきれいだった。


「神殿にある絵姿は、白い翼をお持ちで……金色とも白金ともつかない髪。瞳は、琥珀色や金色が混ざって……」


 わたしは頷いた。

 ベーセの森で見た“あの姿”と、同じ。


「天使様は、神様の声から生まれたのです」


「うん。神話にあったね」


「ええ。だから天使様は、ご自分の声を人に聞かせることができるのです」


 声。


 夢の中で聞こえた声が、ふいに近くなる。

 責めるような響き。「また忘れている」。言葉だけが残って、顔が思い出せない。


「……わたし、夢で、声が聞こえるの」


「まあ!」


 ルミナリアの目がぱっと明るくなった。


「それは、天使様が待っていらっしゃるのです!」


「待って……?」


「ええ。会えば、思い出しますよ!」


 ルミナリアが、迷いなくわたしの手を取った。温かい。握り方に躊躇がない。

 そのまま、前のめりに言う。


「早くお会いしましょう。天使様は、きっとずっと待っていらっしゃる。長い間」


 長い間。

 その言葉が、刺さったまま残る。


「天使様は、翼で自由に飛べるのです」


「翼……」


「ええ。そして、虹の目の方は……一緒に飛べるのです」


 一緒に、飛ぶ。


 左目の奥が、かすかにうずいた気がした。反応だけが先に来て、理由が遅れる。


「イリス様、神殿には聖典がございます」

「ええ。法王もそう言ってたわ」


 ルミナリアは少しためらってから言う。

「その聖典は、わたくしには、同じ頁でも“読めてしまう行がある”みたいで」

「どういうこと?」


「聖典は、誰にでも同じように読めるものだと思っていました。……でもわたしは、行が増えることがあるんです」

 金色の左目に手を寄せて言う。

「金の目のせいだと、法王様はおっしゃいました。……“明らかにする目”だと」

 曇りなく照らすようなその目。

「ですので……あまり今までお話はしなかったのですが。聞いてくださいますか?」


「もちろん!」


「天使様は永遠の命をお持ちです。でも、人は儚い」

 ルミナリアの声が、少しだけ静かになった。

「虹の目の方がいないとき……次に生まれ変わるまで、天使様は人の世界を良くするためにお力を貸してくださいました」


「人の世界を……?」


「ええ。魔獣を遠ざけ、人を守り、癒しを与えてくださいました。そのことはみなさまご存じかと思います」


 彼女は淡々と続ける。


「でも、人は天使様にたくさんのことをお願いしました。天使様は、ずっとお働きになられていたそうです」


 ——そう言われた瞬間、わたしの中で言葉が勝手に形になる。

 こき使われた。

 待っているはずの人がいるのに、ずっと働かされ続けていた。


 喉の奥が苦くなる。怒りなのか、悔しさなのかも分からない。


「だから、竜王様が天使様を星の海へお隠しになったのです」


 ルミナリアが、少しだけ眉を下げる。


「竜王様が、天使様をお守りになっています」


「竜王が……」


「ええ。竜王様は、天使様の大切な守り手です」


 覇王も言っていた。竜王が隠した、と。

 覇王は“奪った”みたいに言ったけれど、ルミナリアの言い方は違う。“守っている”。


 天使は、みんなの真ん中にいる。

 大切にされている。


 それなのに、わたしだけが忘れている。


「イリス様」


 ルミナリアが、もう一度わたしの手を握った。


「大丈夫です。会えば、思い出します」


「……うん」


 信じる、というより。今度はひとりで抱えない。

 神殿に飛び込んだのは、たぶん、焦ったからだ。怖さを押し潰してでも進まないと、何かが遅れる気がして。


 でも、進み方を間違えた。

 心配される、ということを、ちゃんと受け取っていなかった。


「イリス様、どうなさいました?」


「……わたし、誰にも言わないで神殿に行って、みんなにすごく心配かけちゃった」


「グレイ様、怖かったですね。とっても怒っていらっしゃいました。ほんとうに心配なさると、人はあんなふうになるのですね」


「グレイに言われるまで、わたし分かってなかった。仲間が心配してくれることも……信じることも」


「たくさん泣きましたね」


「うん。すっきりした!」


 言い切ると、ルミナリアがふわっと笑う。


「でもイリス様が神殿に来てくださったおかげで、こうしてわたくしもこちらに来ることになりました。きっと天使様のお導きです」


 それは、たぶん、ほんとう。

 ルミナリアに会えたのは、わたしにとって大きい。


 視線を落とすと、ルミナリアの簡易ベッドの上に、毛布がきちんと畳まれて置かれていた。角まで揃っている。


「毛布、薄くて寒くなかった?」


「いいえ。こんなに清潔なお布団で眠れて幸せでした」


 曇りのない笑顔に、言葉が詰まる。

 神殿しか知らない、と彼女は言った。知らないからこそ、足りないものを数えない。


 神殿でひとりになっていたとき、父さんの声が聞こえなかった。

 いつも「それでいい」と言ってくれる声。


 でも、今は分かる。あれは“許し”じゃない。

 わたしが立ち止まりそうなとき、背中を押すための言葉だ。わたしが勝手に、そこに父さんを重ねていただけ。


(今は、聞こえるよ。父さん)


 息を整えて、ルミナリアを見た。


「ルミナリア、聞いてほしいことがあるの」


「はい、イリス様。ぜひお話しください」


「……実は、わたし、転生者なの」


「転生……?」


「前の記憶があるの。前の世界では、蒼珠に住んでた」


 ルミナリアは目を丸くした。

 でも、怯えない。疑う仕草もしない。ただ、“そうなのですね”と受け取る準備が最初からある顔。


「まあ。蒼珠に」


「うん。働き詰めの仕事をしてた。……気づいたら、この世界で十五歳になってた」


 ルミナリアは少し考えるように首を傾げた。


「虹色の目の方は、何度も生まれ変わるのです。……聖典に、そうあります」


「生まれ変わる……」


「でも……」


「でも?」


「わたくし、成人の儀のときに蒼珠を見ましたけれど、何も感じませんでした」


「何も……?」


「ええ。オーラが、何も見えなかったのです」

 不思議そうに言う。


 そのとき、扉がノックされた。


「イリス、いるか」


 グレイの声。


「はい」


 扉が開いて、グレイが入ってくる。続いてレオとサイラス。

 グレイはわたしの顔を一度だけ見て、すぐ話に入った。余計な間を作らない。昨夜のことを、ここで蒸し返さないためみたいに。


「任務が入った」


 真面目な顔。


「オルテガ商会のリディアの成人の儀の護衛・付き添いだ」


 リディア。

 予知夢を見る少女。まだ目は黒いまま。


「最近、魔獣が増えてる。成人の儀に行くのが危険になってるらしい。富裕層から護衛依頼が増えてる」


 グレイが続ける。


「リディアは、この前の予知夢の……」


「はい!」


 声が弾んだ。

 返事の勢いに、自分でも笑いそうになる。


「ぜひ、やらせてください」


 グレイが小さく頷く。


「ああ。そう言うと思った」


 その瞬間だけ、目元が少し柔らかい。

 わたしは、その変化に気づいてしまって、視線の置き場に困った。


「わたくしも、行きます!」


 ルミナリアがすっと立ち上がった。


「え?」


「癒しもできますし、イリス様のそばにいたいのです」


 真剣な顔。


「それに……外殻に行って、蒼珠を見てみたいのです」


 グレイとサイラスが、短く視線を交わした。


「……たしかに、ここに一人で置けないな」


 グレイが息を吐く。


「わかった。一緒に来い」


「やった!」


 ルミナリアが嬉しそうに笑った。


 レオが拳を上げる。


「よし! じゃあ準備だ!」


 こうしてわたしたちは、リディアの成人の儀の護衛任務へ向かうことになった。


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